ギポポさんくるよ(2)
前話: https://kakuyomu.jp/works/16817139556288925143/episodes/16817139556429719482
「良い子にしてないとギポポさんくるよ」
それが息子を叱るときの妻の口癖だった。
私が、ギポポさんとは何なのか尋ねると、妻は決まって、
「やだあ、ギポポさんはギポポさんでしょ?」
そういって、それ以上なにも答えようとはしないのだった。
ギポポさん。かつて一度、私はその超常の存在と相対したことがあった(妻曰く、私の遭遇したギポポさんは「違う」ということなのだが……)。とにかく恐ろしい体験だった。私が遭遇したそれについての詳しい説明は省くが、それ以来、私のなかでギポポさんはより特別な、そして実際にこの世界に存在するものとして、常に心の片隅を占めるようになっていた。
*
ドンッ。
何かを殴るような音で私は起こされる。音のほうに目をやる。
5人掛けの優先席を、ガラの悪そうな男がだらしなく横になり、占拠している。音は、その男が電車の窓を荒っぽく叩いた音のようだった。サンダルを履いたまま、足を座席の上に置く。アルコール度数の高いチューハイのロング缶が足元に転がっている。怖い。
その男は電話口で、昨日呑みに行ったときの女がどうした、俺に惚れていた、あれはイケてた、とか、この前持ち帰った女が、とか、そういった話を延々と怒声交じりに話している。周りの客たちは、なるべく目を合わせないように、スマートフォンをいじったり、あるいは寝たふりをしたりしている。私も「別にあなたたちを見ている訳じゃないんですよ?」とばかりに視線をふらふらと泳がせ、事なきを得る。
そのうち男が電子タバコを吸い出した。
「いい加減にしないか! いい歳したものが、だらしないッ!」
通路を挟んで反対側の優先席に座っていた、小ぎれいな老人が立ち上がり、男を𠮟りつけた。
立ち振る舞いといい、見た目といい、和製イーストウッドのようだ。
頑張れ、イーストウッド。私は胸の内で声援を送った。他の乗客たちもそうだろう。
しかし現実は映画のようにはいかない。
「あ? なんやジジイ、コラ」
男はガンを飛ばしながら和製イーストウッドににじりよっていく。額を和製イーストウッドにぶつけかねない勢いだ。和製イースウッドは口をぱくぱくさせながら、しなしなと後退し、あえなく座り込んだ。スカッとジャパン失敗。
男は座り込んだ和製イーストウッドの前に立ち、更に顔を近づけて因縁をつけている。和製イーストウッドの口から「あっあっ……わっ……」と声にならない声が漏れる。周囲の乗客は見て見ぬふり。
私とて、できることなら目を伏せ、この場を平和裏に立ち去りたい。このあともこなさなければならない仕事があり、家には妻と息子が待っているのだ。
しかし、私の脳裏に妻の言葉がよぎる。良い子にしてないと、ギポポさんくるよ。
あの老人を助けねば。助けねば、ギポポさんが再び来てしまう。
気が付くと私は立ち上がっていた。決して英雄的な行動ではない。むしろ狼に追い立てられた羊のそれそのもの。
「もういいじゃないですか、それくらいで」
掠れた声。もしかしたら、電車の走行音に紛れて聞こえないんじゃないかしら。
しかし男は振り返り、しっかりこちらを睨みつけてくる。声は届いていたようだ。生きた心地がしない。男がこちらに近づいて来ようとする。
私は、男のほうを見て、驚きのあまり目を見開き、完全に固まった。
その男が怖いからではなかった。男の後ろに、"それ"がいた。
男も私の視線の先に気が付き、後ろを振り返る。
連結部のドアが開き、"それ"がそこに立っている。
車両の天井に届きそうなほどの長身。スーツ姿。ネクタイはしておらず、そして裸足。シャンプーのCMに出られそうな艶やかな長髪は"それ"の胸のあたりで綺麗に切りそろえられている。前髪も同様、眉のうえで、真一文字。
そして、5つの眼と長い吻。確か息子の持ってる図鑑で見たことがあるな、カンブリア紀にいたあの……。
"ギポポさん"。私は声にならない声でそうつぶやいた。
男も"ギポポさん"のあまりに異質な存在感に声はおろか身じろぎひとつできないでいるようだ。しかし何とか声をふり絞り、
「……んだ、コラァ!!」
と、”ギポポさん”の長い吻が男の首に素早く巻きつく。
「すぼぼぼぼぼぼぼ……」
”ギポポさん”が声を発する。いや、これは声なのか。それが何なのか、誰にも分かるはずはない。
電車が地下へと入る。車内の電灯が一瞬消え、暗闇に包まれる。
聞こえてくるのは電車の走行音なのか、”ギポポさん”の鳴き声なのか、あるいは男の断末魔なのか。
「……えーただいま車内の電灯が一部消えまして、ご乗車のお客様にはご迷惑をおかけしました。お詫びいたします。次は────」
車掌のアナウンス。次いで間もなく駅に到着することが告げられる。
明かりの戻った車内には”ギポポさん”も男もいなかった。
連結部の足元に、男のものと思われるスマートフォンが落ちている。
と、すぐ脇の転落防止用の幌の襞から、にゅっ、っと細長い吻が伸びてきて、器用にスマートフォンを拾い上げると、再び襞の中へ。
誰も、何も言わなかった。和製イーストウッドも何も言わなかった。
駅に着くと、私たちは見ず知らずの他人のように、目を合わせず、そそくさとその場を後にした。
*
家に帰り、息子も寝付いた深夜。
私は妻に昼間に起きた出来事を話した。
「……あれが、ギポポさんなのか?」
私の問いかけに、妻は、ゆっくりと首を横に振った。小声で「……なんなんそれ、こっわ……」と言った。
あれもギポポさんじゃないのか……。
その日はなかなか寝付けなかった。
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