ギポポさんくるよ
「良い子にしてないと、ギポポさんくるよ」
息子が何か悪さをすると、妻は決まってそう言って叱りつけた。
私が、ギポポさんとは何なのかと尋ねると
「やだもう、ギポポさんはギポポさんじゃない」
妻はそう答え、それ以上何も語らなかった。
ある夜、私は部下と二人きりで飲みに行った。
その日、大型商談の成約にこぎつけたこともあり、私と部下は大いに盛り上がり、酒を呑み、互いの労をねぎらい、そして一線を超え男女の関係となった。
深夜、余韻と後悔に挟まれながら私が一人シャワーを浴びていると、バスルームの曇りガラスの向こうに黒い影が見える。彼女はぐっすり寝ているはずだが……。
唐突に、私の脳裏に妻の言葉が蘇った。良い子にしてないと、ギポポさんくるよ。
まさか、本当に……。私は寒気を覚えた。影はゆっくりとバスルームの入口へと移動し、扉の前に。私は思わず目を瞑った。そして扉が開き────。
「どうしたんですか?」
彼女だった。私は全身の力が抜けるを感じた。
そのまま二人でシャワーを浴び、勢い、もう一度致した。
バスルームから出て、ふたりしてベットへ倒れる。仰向けになる。
天井近くに"それ"がいた。
幾何学図形のような、奇妙な結晶体。金属のような表面がベットに横たわる私たちふたりを映している。
「ギポポさん……?」
私は思わずつぶやいた。
すると"ギポポさん"は、より複雑な形状へと自身の構造を変化させ始めた。"ギポポさん"の形が変わるたび、その表面はより細分化され、そこに映る私たちが、この部屋の空間ごと組み替えられていく。形容しがたい感覚。"ギポポさん"に新たな《面》が生まれるたび、そこでは新たな世界が生まれ、そして新たな私たちが生まれる。その私たち全ての感覚が、情報の奔流となって私たちへと流れ込んでくる。
私は、いくつもの《面》に映る私を感じた。そして《面》に映る私たちもそれを感じていた。
絶叫。それが自分のものだと気づくまでしばらく時間がかかった。いやあるいは《面》に映る私のいずれかのものかもしれなかった。
私は一心に"ギポポさん"に許しを乞いていた。
ギポポさんごめんなさい、もう悪いことはしません、いい子にします、どうか許してください……。
やがて幾億の夜が過ぎ────。
気が付いた時には朝になっていた。
昨夜の出来事が夢でないことは、隣にいた彼女の表情が物語っていた。
そのあと、どうやって帰ったのか覚えていない。私は帰宅するや否や妻の足元に平伏し、自らの過ちを洗いざらい話し、ただただ詫び続けた。
"ギポポさん"のことはついに話せなかった。恐ろしかった。
それから、家事・育児に精力的に、全霊を賭して取り組んだ。
妻が心の奥でどう思っているかは分からないが、少なくとも私の目からは許してくれているように見えた。
あの日、一夜をともにした彼女とはその後お互いを避けるように過ごした。
しばらくして彼女は私の上司の上司と結婚し、会社を辞めた。
それから月日が流れ、ある夜、寝室で妻にあの時のことを尋ねられた。
「随分と取り乱していたけど、本当は何かあったの?」
私は意を決し、あの夜に起きたことを、そして"ギポポさん"のことを全て話した。
妻は私の話を黙って聞いていた。
私が話し終えると、しばらくして妻が一言。
「......そんなんギポポさんと違うよ、こっわ」
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