夏を悼む
その夏は例年にも増して暑かった。
私は次の営業先へ向け、オフィス街をふらふらと歩いていた。
ワイシャツもズボンも汗でびっしょりと濡れている。先ほど買ったペットボトルは既に空だ。砂漠に水を撒いているよう。飲んだ分だけ汗になって消えていく。
この日は一段と暑かった。日差しが全身に突き刺さる。脳が茹る。だんだんと目の前がもうろうとしてくる。
ふと、一陣の風が吹く。すぐ横の細い路地から吹いてきているようだ。日陰になっている。私は吸い込まれるようにその路地へ入り────。
ひたすらに続く水田と、アスファルトの一本道。その果てには山々と、入道雲のイデアそのものが見える。気が付くと私はその一本道のうえに立っていた。
見覚えのない景色。しかし妙に懐かしい……。
そんなことを考えていると、空からひとりの男がゆっくりと降りてきた。
中背で肥満体。そして、全裸だった。大きくもないが、存在感のある局部が露になっている。滑らかな肌の表面から、滝のような汗が流れ落ちている。
その男の顔は、これは全くもって比喩ではないのだが、「夏の太陽そのもの」であった。
私は瞬時に、その男が《夏》なのだと確信した。
アスファルトに降り立った《夏》は私に向かって軽く手を振り、こう告げる。
「少し歩こうか」
私たちは並んで道を歩き始めた。
歩きながら、《夏》はこの土地のこと、ここに住む人びとの暮らしについて、他愛のない話をぽつりぽつりと語ってくれた。私には、それらの話が妙に懐かしく、愛おしく感じられた。
《夏》はおもむろに脇の下から2リットルのペットボトルに入った麦茶を取り出すと、私に差し出した。
「飲みなさい」
私はそれを一気に飲み干した。生ぬるく、しょっぱく、そして絶妙にうまかった。
私の様子を見ていた《夏》は静かに微笑みながら、もう一本ペットボトルを取り出し、グビグビと一息に飲み干した。
チリン、チリン。後ろから自転車に乗った少年たちが通り過ぎてゆく。
「こんにちはー!」
気持ちの良いあいさつ。《夏》が少年たちの背中に向け、
「日が沈む前に帰ってくるんだぞぉ」
と声をかける。
「……もう夏も終わりだなあ」
ぽつりと、《夏》がつぶやいた。
私はとても寂しくなってしまった。
コンビニが一軒、ぽつんと建っている。
私と《夏》はその軒下でかき氷を食べている。
氷の結晶が、全身の熱を冷ましていくのが感じられる。
ふと、《夏》を見る。様子が変だ。その顔が(実際のところ、彼の頭部は「夏の太陽」なのだが、そのときの私にはそう見えた)苦痛に歪んでいる。
「大丈夫ですか?」
「いや、なに、少し急いで食べ過ぎて腹にきただけだよ、イテテ……」
彼は腹をおさえ、その場にしゃがみこんでしまった。
蝉の声が止む。空が黒い雲に覆われる。空気の匂いが変わった。
《夏》は全身を丸めるようにしてうずくまっている。全身の肌に鳥肌が立っている。
私は狼狽し、《夏》の背中をさする。汗でぬるぬると滑る。ひどく冷たい。
「あっあっ。あかん、終わっ、終わるっ! ああああああああーっ!」
とつぜん《夏》が叫び、立ち上がると目の前の道を山へ向かって走り出した。私も急いで後を追う。
雷鳴。空が稲光り、間もなく凄まじい勢いの雨。先を走っているであろう《夏》の姿はもう見えなくなっていた。待ってくれ、俺を置いていかないでくれ────。
***
「大丈夫ですか?!聞こえますか?!」
気が付くと私はオフィス街の路上でへたり込み、周囲の人々の介抱を受けていた。
私はなんとか身体を起こした。
「これ、まだ開けてないんで、良かったら」
若いスーツ姿の男がミネラルウォーターのペットボトルを差し出してくれた。
私は受け取ったそれを一息に飲み干した。よく冷えていて、とても清潔で、そしてどこまでも都会の味だった。
私は介抱をしてくれた周りの人々に礼を言い、その場を去る。
空が暗く翳っている。空気の匂いが変わる。
間もなく夕立が降ってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます