影法師 (後編)




 その翌日の午後二時少し前、僕は優太くんの家を訪れた。

 広い庭を持つ、二階建ての立派な邸宅だった。駐車場には高級車が二台も停まっている。

 優太くんの父親は大きな病院の院長で、この町の名士だ。代々、医者の家系らしく、優太くんの二人の兄も、医者の卵だという。優太くん自身も、将来は医者を目指している。

 監視カメラの無機質な視線を感じつつ、玄関のチャイムを鳴らすと、優太くんは待ってましたとばかりに出迎えてくれた。

 真っ直ぐな長い廊下、高い天井、広いリビング。ふかふかのソファに大きなテレビ、最新のゲーム機。

 優太くんの家を訪れるのはこれが初めてではないが、来るたびにそうしたもの全てが僕には眩しく感じられ、どうしても決して裕福とは言えない自分の生活と比べてしまうのだった。

 

 二階の優太くんの部屋に通される。フローリングの床の、八畳ぐらいありそうな広い部屋だ。学習机にベッド、参考書の他にたくさんの漫画が詰まった本棚。最新のタブレット端末まである。

 水色のワンピースに身を包んだ彼の母親が、お菓子やジュースを運んで来てくれた。まるでモデルみたいに綺麗な人で、ちょっと気取った歩き方をする。僕は自分の母の白髪混じりの頭や、荒れた手を思い出した。

 

 ふと部屋の正面の窓から、ベランダ越しに外へ目を向ける。門の所にちらりと黒い人影が見えた。アイツだ。あの影法師だ。きっと僕を追って来たのだろう。おそらくこの家から出て来るのを、待ち構える気に違いない。

 

 優太くんの母親が部屋を出て行くと、彼はさっそく身を乗り出して、あの影法師について尋ねて来た。

 僕はこれまでの経緯を全て話した。小学校の屋上にあの影法師を見つけたことから、それ以来ずっと奴に付きまとわれていること。そのためにろくに外出も出来なくなったこと。

 優太くんはそれを好奇と怖れの入り混じったような表情で、じっと黙って聞いていた。

 「・・・・一つ疑問なんだけど」

 僕が一通り話し終えると、優太くんがそう切り出した。 

 「あの影法師は、いったい何の目的でお前にまとわり付いてるんだ?」

 当然の疑問だ。それに対して、僕はある仮説を立てていた。

 「あくまで推測だけど・・・・たぶん自分の実体が欲しいんだと思う」

 「・・・・どういう意味だ?」

 「そのままの意味だよ。影法師はあくまで影だから、自分の肉体を持っていない。自分にないものを欲しがるのは、たぶん人間も化け物も同じだ」

 「つまり、あの影法師は、お前の身体を乗っ取ろうとしてるってことか?」

 優太くんの問いに僕は頷く。彼は嫌悪感を露わにした。

 「・・・・それは、なんというか凄く気持ち悪いな」

 「まったくだ」

 彼の率直な感想に、僕は心から同意した。


 「で、どうすれば良い? どうにかしてアイツをやっつけたり、追い払ったり出来ないのかな?」

 優太くんが腕を組んで考え込む。その顔には真剣に僕の身を案じる表情があった。

 彼は困っている人を見ると黙っていられない性格だ。きっと根が善人なのだろう。そして実際に行動力がある。それが優太くんが皆から信頼され、リーダー的な存在になっている理由だった。

 早百合ちゃんが彼を好きになったのも、きっとそんなところに惹かれたに違いない。

 

 「何しろ実体を持たない影法師だからね。殴ったり蹴ったりしても無駄だろう。たぶん刃物で刺しても死なないと思う」

 優太くんの問いに、僕は肩を竦めるような仕草をして答えた。

 「じゃあ、どうする? やっぱりお札とか、お経とかが効くのかな?」

 「分からないけど、お坊さんの知り合いなんていないよ」

 僕は頭を横に振る。優太くんは天井を仰いで唸った。

 「じゃあ、どうすりゃ良いんだ?」

 少し間を置いて、僕は自分の考えを口にした。

 「あの影法師を見てて、気付いた事があるんだけど・・・・」

 「何?」

 優太くんが顔をこちらに向ける。

 「僕はアイツに外でしか出くわさないんだ。学校とかアパートとか、建物に入って来た事は一度もない」

 「・・・・どういうことだ?」

 「アイツは実体を持たない影法師だ。だから物を触ったり掴んだりする事ができない。ドアノブも回せないし、窓を開ける事もできない。つまり建物の中に入れない」

 優太くんが何事かに、ハッと気付いた表情をした。

 「それって逆に言えば、あの影法師を建物の中に閉じ込めてしまえば、外に出られないって事じゃないか!?」

 僕は頷いた。

 「その通り。実際にやってみなくちゃ分からないけど、たぶん間違ってはいないはずだ」

 「・・・・なるほど、よく気付いたなぁ」

 優太くんが感心したように呟く。しかしそれはすぐ疑問に代わった。

 「でも、いったいどこに閉じ込めるんだ? そんな都合の良い建物なんて、この近くにあったっけ?」

 「あるさ」

 僕は二つ返事で断言した。

 「三丁目の路地裏を入ったところに、“幽霊屋敷”があるじゃないか」

 「あっ!」と言って、優太くんが自分の膝をパチンと叩いた。

 

 その“幽霊屋敷”は、僕たちの通う小学校から少し離れた所にある。

 洋風のモダンな家で、赤茶けたレンガの壁に三角屋根、煙突があって、周囲は高い壁に囲まれている。屋敷の広い敷地は、伸びきった草木で覆われ、荒廃するに任せるままだ。

 噂によると、この屋敷は昔、とある作家が住んでいたという。いつ頃からか小説が書けなくなり、ノイローゼになった挙げ句、ついには妻子を道連れに自殺してしまった。それ以来、真夜中になると作家と妻子の幽霊が現れ、屋敷の中を彷徨うのだそうだ。

 今思えば子供騙しのありきたりな怪談だが、小学生の僕たちには格好の好奇心の的だった。管理者がいないのか門や玄関は施錠されておらず、僕も優太くんら同級生たちと幾度となく忍び込んだことがある。もっとも期待したような怪奇現象は一切起こらなかったが。

 しかし、それが学校にバレて、“幽霊屋敷”に立ち入ることは禁止されてしまった。法律的には無断侵入ということになるし、事故の危険もあるから当然といえば当然だろう。

 

 「影法師をなんとかおびき寄せて、あの幽霊屋敷に閉じ込めてしまえないかな」

 僕がそう言うと、優太くんは顎に指を当てて考え込んだ。

 「確かにあの幽霊屋敷なら、閉じ込めるのにうってつけだな。でもその後はどうする?」

 幽霊屋敷に忍び込んで探検する子供は他にもいるだろう。学校に禁止されたからといって、はいそうですかと従う子ばかりではない。だからせっかく閉じ込めても、そういう連中が部屋のドアを開けて、影法師を逃がしてしまう可能性はある。

 僕は頭を横に振って答えた。

 「分からない。でも影法師を閉じ込めさえすれば、とりあえずの危険は避けられると思う。後の事はそれからじっくり考えよう」

 「なるほど。で、いつやるんだ?」

 「何を?」

 「影法師を幽霊屋敷に閉じ込めるって話さ」

 「これからだよ」

 「これから!?」

 驚く優太くんに、僕は背中越しに窓の外を親指で差し示した。

 「さっき、門の所に影法師の姿を見つけた。きっと僕がこの家から出て来るのを待ち構えているはずだ」

 影法師は神出鬼没だ。今日は上手くかわせたとしても、明日はどうなるか分からない。出来るだけ早いうちに決着を付けねばならなかった。

 

 「ごちそうさま。お菓子、美味しかったよ」

 僕は立ち上がった。壁の時計がそろそろ四時を差そうとしていた。

 「そういうことだから、もし僕がいなくなったら、アイツから逃げ切れなかったんだと思ってくれ」

 「俺も一緒に行くよ」

 「どうして? 危険だからやめた方が良いよ」

 「友達だろ。一人より二人の方が良い。大丈夫、なんとかなるさ」

 優太くんが立ち上がって笑顔を向ける。

 僕はうっかり泣きそうになるのを堪え、こう言った。

 「ありがとう。本当を言うと、一人で行くのは怖かったんだ。きみが一緒に来てくれるなら心強いよ」

 

 


 優太くんの家を出て、門のところで辺りを見回す。影法師の姿はなかった。優太くんが一緒なので、警戒しているのかも知れない。奴は必ず、僕が一人のときを狙って現れる。

 「いないな」

 優太くんが周囲を睨みながら言った。

 「たぶんどこかに隠れてるんだ。僕たちのあとをこっそり付けて来るよ」

 「わかった。じゃあ奴が付いて来れるようにゆっくり行こう」

 僕たちの目的は影法師を“幽霊屋敷”におびき寄せることだ。それぞれ自転車に跨がると、普段より遅いスピードで走り出した。

 

 


 小学校の前を通り過ぎ、路地を幾度となく曲がって、“幽霊屋敷”にたどり着いたのは、それから間もなくだった。僕と優太くんはその門前に自転車を停めた。

 “幽霊屋敷”は、そこだけ時間が止まったようにひっそりと佇んでいた。地面から伸びた蔦が壁を覆い、窓枠を埋め尽くしている。あれではいざという時、窓から脱出するのは不可能だろう。

 ぺんぺん草が三角屋根のあちこちに生え、煙突の先端には真っ黒な鴉が一羽、まるで自分がここの主であるかのように留まっていた。

 周囲に人影はない。空はいつの間にか色を失い、西に傾いた太陽が一日の終わりを告げつつある。

 ヒグラシの鳴く声が辺りに響いていた。陰鬱でどこか物悲しいような気配が、僕たちを押し包もうとしている。

 

 辺りを見回すと、十メートルほど離れた先の「飛び出し注意」と書かれた立て看板の陰に、ひょっこりと頭を覗かせるものがあった。

 影法師だ。あの影法師が立て看板に半身を隠して、こちらをじっと見ている。

 優太くんもそれに気付いたようで、僕たちは無言のまま互いに頷き合った。こちらの目論見通り、奴はこっそり後を付けて来たようだった。

 黒い門扉は塗装が剥がれ、赤錆が浮いている。ちょっと力を込めると微かな金属音を響かせ、何の抵抗もなく開いた。

 影法師が入って来れるよう、門扉は開けたままにして、僕たちは玄関へと続く石畳の小道を進んだ。

 玄関扉の取っ手に手を掛ける。表面に薄く彫刻が施された重々しい扉だ。思い切って手前に引くと、これもギイッ・・・・という嫌な響きを立てて開いた。

 玄関扉を開けたまま、僕たちは屋敷の中へと滑り込む。

 管理人がいないのか、門も玄関もまったく施錠されていない。学校に禁止されるまで、僕たちは何度もこの屋敷に忍び込み、内部を探検した。なので、どこにどんな部屋があるか、構造はきちんと把握している。


 僕たちは靴を履いたまま、正面の廊下を進んだ。そして角のところで立ち止まる。

 しばらく待ったが、影法師はなかなか姿を現さなかった。罠だと勘付かれたろうか。しかし僕たちには、これ以外に方法がないのだ。

 じりじりしながら待っていると、やがて開きっぱなしの玄関先に、黒い人影がぬうっと音もなく現れた。

 影法師がこちらに顔を向け、ニヤリと笑った気がした。背筋がぞわりと粟立つ。

 「・・・・よし、行こう」

 震える足で、僕たちはさらに廊下の先へと進む。この奥には、屋敷の主であった作家の書斎がある。

 ドアを開け、そのまま奴が来るのを待った。夕闇が染みのように、じわじわと天井や壁に広がりつつあった。

 廊下の角から、その闇に同化したような影法師が姿を現した。

 首筋を汗が伝って流れる。いよいよ、ここからが本番だ。

 僕たちは書斎の中に入った。部屋は左右の壁に本棚があり、その中に洋書や分厚い辞典など、難しそうな本がギッシリと並んで埃を被っている。

 両開きの窓は分厚いカーテンで遮られ、その外側を蔦が覆っていた。その隙間から僅かな茜色の光が、弱々しく差し込んでいる。

 窓の手前には、高級そうな木材の書斎机が置かれていた。妻子を殺して自殺した作家の亡霊が、今もそこに座ってうなだれているように思えた。

 蜘蛛の巣を払い、僕と優太くんは書斎机の裏に身を潜めた。そこからそっと頭を出し、奴が来るのを待ち構える。

 影法師は僕たちがこの書斎に入るのを見たはずだ。ドアも開けっ放しにしたまま。僕たちを追って、奴は必ず入って来る。そうして部屋の奥へとおびき寄せたら、一気に外へ飛び出してドアを閉めてしまう。それが僕と優太くんで立てた作戦だった。

 今まで見た限り、影法師は素早く動けない。単純な作戦だが、上手く行けば確実に勝機はあった。


 机の裏側から頭を覗かせ、僕たちは息を殺して書斎のドアをじっと見つめた。

 気が狂いそうなほど時間が流れたように思った。

 やがて、影法師がドアの向こうに姿を現した。ずるりずるりと引き摺るような奇妙な歩き方で、一歩、また一歩と書斎の中に入って来る。僕たちはそれを机の陰に隠れてじっと見ている。

 恐怖と緊張で全身が震える。傍らにそっと目をやると、優太くんも強張った顔で恐怖に耐えている様子だった。

 「ギリギリまで引き付けよう。僕が合図するよ」

 そっと小声で囁くと、優太くんは分かったと目で頷いた。


 夕闇が一段と濃くなった。何も聞こえない。辺りはしんと静まり返っている。

 影法師は机の右側から、回り込むように近付いて来た。僕たちは気付かれないよう、そっとその反対方向へと動く。

 

 「───よし、今だ!」

 タイミングを見計らい、僕は叫ぶと同時に先に飛び出した。優太くんが後に続く。勝ったと思った。完全に影法師を出し抜いてやったのだ。

 そして開いたままのドアから廊下へ出ようとする、まさにその瞬間、僕は急に立ち止まった。振り返ると、僕とぶつかりそうになった優太くんが、驚いた表情で慌てて立ち止まる。

 「優太くん、ごめん!」

 僕は叫んだ。そして勢いよく両手を伸ばして、優太くんを突き飛ばす。あっ!と叫んで、優太くんが背中から床に倒れた。埃が舞い上がって、差し込む夕日にキラキラと反射した。

 影法師が机の向こうで、僕たちを見ている。僕は部屋から飛び出すと、叩き付けるようにドアを閉めた。

 絶叫とも悲鳴とも付かぬ、優太くんの叫び声が屋敷中に響いた。

 ドン!とドアが振動を立てたのは、飛び起きた優太くんがドアに突進してぶつかったからだ。

 「開けて! 開けて! 開けてえぇぇぇ!」

 絶望的な悲鳴と共にドアノブがガチャガチャと動いたが、僕は全体重を乗せてドアを押さえ付け、絶対に開かないようにした。

 「何で!? 何で!? 何で!?」

 ドアの向こうで優太くんが叫ぶ。僕にはその表情が手に取るように分かった。突然起きた裏切りに、完全にパニックに陥っているようだった。


 

 ───これは、僕が犯した罪の告白だ。



 優太くんを僕の身代わりにしよう。

 そう思い付いたのは、昨夜のことだ。

 影法師は人間の身体を欲しがっている。アイツが他の誰にも見向きせず、僕に狙いを定めたのは、おそらく僕が影法師を認識しているためだ。それが生きている人間の身体を奪う際の条件なのだろう。

 だがここで、優太くんも影法師が認識出来るのが分かった。ということは、影法師は優太くんの身体を乗っ取ることも出来るということではないか?

 僕と優太くんは背格好が似ている。夕暮れの薄暗い部屋の中なら、どちらか見分けが付かなくても不思議じゃない。

 

 ・・・・部屋に閉じ込めるだけでは駄目なのか? 影法師は物を触れないのだから、部屋に閉じ込めてしまえば大丈夫のはずだ。


 そう僕の良心が囁いたが、しかし最初にあの影法師を見たとき、奴は学校の屋上に登っていたのだ。「物を触れない」と考えるのは、こちらの誤認の可能性もある。

 

 優太くんを身代わりにして、奴に身体を乗っ取らせよう。そうすれば、僕が狙われることはないはずだ。

 もちろん、それで僕の安全が保証されるという確信はない。だが、それ以外に自分の身を守る手段を思い付かなかった。

 

 優太くんに影法師のことを話して、彼が手助けしたくなるよう誘導する。彼は正義感の強い真っ直ぐな善人だ。それはつまり「騙しやすい」ということでもある。

 上手く誘導すれば、きっと協力してくれるだろう。そう思ったとき、僕の本当の計画がスタートした。

 

 我ながら酷い奴だと思う。助けてくれる友人を裏切って、罠に嵌めるなんて。

 でも、仕方ないじゃないか。僕にはこうするより他に助かる道はないんだ。もし僕に万が一の事があったら、母さんはどう思うだろう。母さんを心配させたり、悲しませてはならない。これは僕が、絶対に踏み外してはならない“鉄則”だ。

 優太くんは三人兄弟の末っ子で、二人の兄はどちらも優秀だ。それなら一人ぐらい欠けても、きっと彼の両親の悲しみは三分の一で済むに違いない。

 優太くんは何だって持ってる。大きな家、広い庭、金持ちの家に生まれ、何一つ不自由せずに育った。容姿に恵まれ、成績も優秀でスポーツ万能。僕なんかとは全然違う。

 そんなにたくさん持っているなら、その幸運の一つぐらい僕に分けてくれたって良いじゃないか。

 

 それに、と僕は思った。

 

 ───あの早百合ちゃんだって、優太くんがいなくなったら、僕を少しは振り向いてくれるかも知れない。


 優太くんは絶叫しながらドアを激しく叩いていたが、やがてその音が止んだ。代わりに部屋中を駆け回る音が聞こえる。影法師に追い掛け回されているのだ。

 優太くんは完全にパニックになっていた。訳の分からないことを喚き散らしている。派手な物音が断続的に響くのは、本棚の本をぶちまけて進路を防いだり、手当たり次第に物を投げつけているからだろう。

 窓は蔦で塞がれて飛び降りることは出来ない。彼に逃げ場はない。いくら暴れても無駄な抵抗だった。

 

 「ぎゃあああああああああっ!!!」

 いきなり絶叫が響いた。断末魔のような声だった。そしてそれきり、部屋がぱったりと静かになった。

 

 不気味なほどの静けさが、辺りを満たしている。

 僕はドアの前から動けずにいた。思い切って中の様子を確認してみようか。そう考えたが、実行する勇気はない。

 僕はやがて、ドアの前からそっと離れた。息を殺して耳を澄ませたが、物音一つ聞こえない。


 どれぐらいの間、そうしていたか。 

 ・・・・ガチャリ、金属音の響く音がした。そしてドアノブがゆっくりと、静かに回り始める。

 僕は驚くと同時に、一目散に逃げ出した。そこから現れるものの正体を知るのが怖ろしかったのだ。

 廊下を走り、玄関を抜け、外へ飛び出す。夕日が目に眩しかった。

 門の所に停めた自転車に跨がり、あとは後ろを一度も振り返ることなく、僕はひたすら逃げ続けた。


 その日の夜はずっと上の空で、母に体調を心配されるほどだった。

 眠れないまま夜が明け、朦朧とした頭で、昨日のことは全て夢だったのではないかと思った。

 母と一緒に朝ごはんを食べ、仕事へ行くのを見送って、僕はアパートを出た。しばらく近所をぶらついたが、あの影法師が姿を現すことはなかった。

 夏の太陽はこんなに眩しかったろうか。そう感じるのは、僕が友人を裏切った罪人だからか。そう思うと何故か渇いた笑いが込み上げて来た。足下の影が、まるで鉛のように重かった。

 

 それから何日も過ぎた。優太くんはどうなっただろう。生きているのか、それとも死んでしまったのか。彼の家に電話を掛ければ分かることだが、それを確かめる勇気はない。

 だが、もし死んだり行方不明になっていたら、きっと今ごろ大騒ぎのはずだ。僕のところにも、彼の家族や警察から連絡があっておかしくない。

 しかし彼の家族からも警察からも、一向に連絡はなかった。

 


 もやもやした気持ちのまま二週間ほどが過ぎ、夏休み最初の登校日がやって来た。

 教室に入ると、真ん中の後ろの方の席に、見慣れた姿があった。 

 

 ───優太くんだ。


 優太くんが来ている。僕は思わず立ち竦んだが、恐る恐る近付いて、彼の正面に立った。

 僕を見上げる顔は、紛れもなく優太くんだった。彼は生きていたのだ。

 だがその表情は影を落としたように暗く、普段の陽気さや闊達さは感じられなかった。

 「・・・・おはよう、優太くん」

 優太くんは黙って僕の顔を眺めていたが、やがて静かな口調で挨拶を返した。

 「・・・・おはよう」

 「その・・・あれから、大丈夫だったかい?」

 僕の問いに優太くんは小首を傾げたが、やがて口元に薄い笑みを浮かべた。

 「・・・・友達を置き去りにするなんて酷いじゃないか」

 その言葉に、僕はなんて答えれば良かったのか。黙っていると、やがて教室に先生が入って来て、僕は自分の席に戻った。

 

 午前中で学校が終わって、気付くと優太くんの姿はなかった。

 その帰り道、同級生たちと別れ、一人で歩いていると、公園のベンチに腰掛けている優太くんを見つけた。

 僕は一瞬尻込みしたが、逃げても仕方がないと思い直し、勇気を出して彼に近づいた。

 彼はまるで待ち構えていたかのように「よう」と言って笑った。なんだか悪意があるような嫌な笑い方だった。

 「・・・・きみは優太くんなのか? それとも影法師なのか、どっちなんだ?」

 「さぁね、どっちだと思う?」

 僕の問いに、優太くんは小馬鹿にしたような表情でうそぶいた。

 こいつは優太くんじゃない。その一言で、僕はそう確信した。

 「お前はいったい何なんだ?」

 優太の中に入り込んだ影法師を睨み付ける。奴は面倒くさそうに肩を竦めた。

 「ただの影法師さ」

 「答えになってない」

 「知るものか。俺だって自分が何者かなんて分からんよ。気付いたらこのような存在として生まれていた。それだけだ」

 「優太くんの身体に入り込んでどうする気だ?」

 影法師は口の端を歪めると、僕の顔を覗き込んだ。

 「少しは気が咎めるのか? 友達を裏切ったくせに」

 僕は唇を噛んで押し黙った。優太くんを自分の身代わりに差し出したのは事実だ。僕には影法師に対して、何を主張する権利もないのだった。

 「ようやく人間の身体を手に入れたしな。とりあえずはこのまま過ごすさ」

 「優太くんの身体からは出られないのか?」

 「もちろん出られるとも。こいつが死ねばな」 

 そう言ってケタケタと笑う。つまり優太くんはもう、元に戻らないのだ。

 「俺のことは誰にも話すなよ。もっとも話したところで、信じる奴なんていないだろうけどな」

 彼はベンチから立ち上がると、僕に背中を向け、歩き出した。

 僕はその場に立ち尽くして、遠ざかる姿を見送った。そして、それが最後になった。

 


 それから間もなく、優太くんが失踪した。書き置きも何もない、突然の失踪だ。

 彼は町の名士の息子なので、警察が事件、事故の両面から熱心に捜査したが、しかしその行方はとうとう分からなかった。



 


 ───あれから五年が過ぎた。僕は高校生になっていた。

 その間に色々なことが変わった。一番大きな変化は、母の再婚だろう。中学二年のときだ。

 新しい父はお金持ちではないが真面目な働き者で、性格も穏やかな人だ。暮らしもだいぶ楽になり、母も生活の苦労からようやく解放され笑顔が増えた。

 そして高校に入ってすぐ、僕は早百合ちゃんと付き合うことになった。初めての彼女が初恋の相手なのだ。奇跡みたいな話だ。人生が良い方向に転がっている。そんな気がした。

 

 優太くんの行方は今も分からない。きっと永遠に分からないままだろう。


 夏休みに入ってすぐのある日、僕は早百合ちゃんと映画を観に行った。その帰り道、賑やかな街中を歩いていると、人混みの中に奇妙な人影を見付けた。


 ───影法師だった。


 風に流される凧のように、ゆらゆらと右に左に揺れながら、影法師がこちらに向かって歩いて来る。 

 そして僕の姿を見つけ、ニヤリと笑った。

 

 目も鼻も口もない、のっぺらぼうの影法師。だかそれでも、僕にはヤツが笑ったのだと、はっきり分かった。

 

 いつか、こんな日が来るような気はしていた。きっと優太くんは死んだのだろう。そして影法師は優太くんの身体を抜け出し、もう一度僕の前に現れた。おそらくは僕の身体を乗っ取るために。


 影法師は人混みの中に隠れるように見えなくなった。隣を歩いていた早百合ちゃんが、急に立ち止まった僕に怪訝な目を向けて来る。

 「どうかしたの?」

 「・・・・いや、どうもしないよ。大丈夫」

 僕は早百合ちゃんに笑顔を向けた。

 この幸せを失う訳にはいかない。僕は友達を裏切った罪人だ。その報いはいつか受けなければならない。だがそれは、今ではないはずだった。


 ───もう一度、誰か身代わりを用意しよう。


 彼女の手を強く握りながら、そう思った。



                 (終)




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 



 



 

 

 

 

 

 

 

 

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影法師 月浦影ノ介 @tukinokage

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