影法師

月浦影ノ介

影法師 (前編)




 今から五年前のことだ。


 その当時、僕は小学六年生の十二歳だった。

 夏休みに入る少し前、ちょうど梅雨明けの時期だったと思う。

 日曜日の午後、僕は仲の良い同級生ら数人と遊んでいたが、ふと思いついて、自分たちが通っている小学校へ行こうという事になった。

 何故、わざわざ日曜にまで学校へ行こうと思ったのか、理由はよく覚えていない。ただ何となく、暇つぶしに、というぐらいの感じだった。

 それぞれ自分が愛用する自転車に跨がり、僕たちは一路、小学校を目指した。

 じめじめした梅雨も抜けて、夏の眩しい日射しが、路上に鮮やかな木漏れ日を作っていた。もうすぐ待ちわびた夏休みがやってくる。そんな浮ついた気分もあったと思う。乾いた風に背中を押され、ペダルを漕ぐ足も軽やかだった。


 小学校の門前に自転車を停め、僕たちは校門を乗り越え、校庭に入った。

 当たり前といえば当たり前だが、日曜の学校に人影はない。

 木造二階建ての古い校舎はひどくがらんとして、なんだか打ち捨てられた廃墟のように思えた。

 窓から覗き込んだ一階の教室は理科室だ。脳みそを半分剥き出しにしたマネキンが、黒板の傍らに黙って突っ立っている。鍵付きの棚には、解剖したカエルやヘビを薬品漬けにした透明な容器が、日の射さない暗がりの奥で時間が停止したように整然と並べられていた。

 誰もいない校舎とは、何故こんなに不気味に感じられるのだろう。校舎が抱えている巨大な空っぽが、こちらの心にもじわじわと侵食してくるようで、僕はどうにも足下の定まらない不安を覚えた。


 「おい、早く行こうぜ」

 そう後ろから声を掛けて来たのは、同級生の優太くんだった。クラスのリーダー的存在で、成績優秀で運動神経も良い。そのうえ顔も整っているので、女子の間では人気があった。僕が密かに片想いしている早百合ちゃんも、彼のことが好きだという噂だ。

 大きな病院の院長の息子で、本人も将来は医者になるのだという。

 何もかもが自分なんかとは違う。僕はそんな彼をいつも羨望の眼差しで見ていた。しかし彼は自分の優れた点を決して鼻に掛けることもなく、誰に対しても公平で親切で、それがまた僕の劣等感を募らせるのだった。

 優太くんに促され、校舎の窓を覗き込んでいた僕は、みんなの元へ駆け出した。誰かが持ってきたサッカーボールを蹴ってグランドを駆け回り、それが飽きると遊具によじ登ったりして遊んでいるうちに、だんだん夕暮れが近付いて来た。

 校舎の時計が六時を差そうとしている。この時期は日が長いが、そろそろ帰らないと親に叱られるだろう。しかし校門の前に停めた自転車の所まで来たは良いが、何故か妙に名残り惜しく、みんなその場に留まってダラダラとお喋りをしている。

 夕焼けが空を赤く染めて、何となくそれを見上げていたとき、僕はふと校舎の屋上に、何か動くものがあるのに気付いた。

 

 ───人影だった。


 古い木造の校舎は三角屋根になっている。普通ならそんな所に人の登れるはずがない。しかしその屋上に誰かがいて、三角屋根の向こうから、辺りを伺うように上半身を乗り出しているのだ。

 僕はその人影を凝視した。

 人影は真っ黒だった。校門から校舎まで五十メートルもない距離である。夕暮れとはいえ外はまだ明るい。なので校舎の屋上にいる人物の特徴や服の色ぐらいは分かりそうなものだ。

 それが顔も胴体も腕も、屋根の向こうから見えている部分はすべて真っ黒なのだ。まるで空間を人の形に切り抜いて、そこだけ墨で塗り潰したみたいに。

 

 ───影法師、という言葉がふいに頭に浮かんだ。

 

 影法師は辺りをキョロキョロと見回していたが、僕の視線に気付いたように、顔をいきなりこちらに向けた。

 目が合った、と思った。

 顔のないのっぺらぼうの影法師の視線がどうして分かるのか? 

 だがそのとき直感的に、僕は影法師とはっきり目が合ったと確信したのだ。

 影法師を見つめたまま、僕は硬直して動けなかった。何かとても嫌なモノと遭遇してしまった。そんな気がして、足元から震えが這い上がって来る。

 影法師が三角屋根の向こうから、ズズ・・・っと身を乗り出そうとする。

 そのとき突然、傍らで名前を呼ばれ、僕はハッと我に返った。優太くんがこちらに怪訝そうな目を向けている。

 「何、ぼんやりしてるんだ? 早く帰ろうぜ」

 見るとみんなが自転車に跨がって走り出そうとするところだった。

 僕はもう一度、校舎の屋上を振り返った。その視線に気付いた優太くんが、同じく屋上を見上げる。だがそのときにはもう、影法師の姿はなかった。

 「どうかしたか?」

 優太くんの問いに、僕は「いや、何でもない」と曖昧な返事をした。彼は少し首を傾げたが、特にそれ以上は追及して来なかった。

 「いい加減、腹減ったよ」

 笑いながら自転車を漕ぎ出す彼の後ろに続いて、僕も出発する。

 一度だけ振り返ったが、校舎は暮れゆく夕闇の奥に大きな影となって遠ざかるだけだった。

 

 アパートに帰ると、母が台所に立っていた。

 「お帰りなさい。いまご飯作るから、お風呂洗ってくれる?」

 僕は頷くと、そのまま風呂場へ行って掃除を始めた。

 この小さなアパートの二階で、僕は母と二人で暮らしている。父はいない。僕が四歳の頃、交通事故に遭って亡くなってしまった。それ以来、母は女手一つで僕を育てるために、町の工場で働いているのだった。

 母と二人で夕飯を囲みながら、僕は今日あった出来事を報告する。優太くんたち同級生と小学校へ行って遊んだことを話すと、母は楽しそうにそれを聞いてくれた。

 あの影法師のことは黙っていた。母と二人きりで暮らす僕にとって、何よりも大切なのは「母に心配を掛けないこと」だったから。




 その翌日のことだ。学校が終わって、同級生たち数人と喋りながら帰った。途中で一人二人と別れ、一人きりになった。

 アパートまであと数百メートルという距離で、僕は思わず立ち止まった。道の向こうの電信柱の陰、そこに誰かが立って、こちらを覗き込んでいる。


 ───あの影法師だ。


 昨日、小学校の屋上にいた奴に違いない。空間を人の形に切り抜いて墨で塗り潰したみたいな、のっぺりとした真っ黒な影法師。それが今、電信柱の陰に隠れて僕の様子を窺っているのだ。

 声にならない小さな悲鳴が口から漏れた。足が竦んで震える。アイツが何者かは分からない。だがこうしてわざわざ帰り道の途中に現れたということは、僕を待ち伏せしていたとしか思えなかった。

 ズズッ・・・・と、電信柱の陰から影法師が、ゆっくり這い出そうとする。それを合図に、僕は回れ右をすると脱兎の如く駆け出した。

 しばらく走って途中で左に折れ、さっき別れたばかりの同級生の背中を追い越し、出来るだけ遠回りをしてアパートへ帰った。途中で何度か休みながらも、ずっと走って来たので、到着する頃には全身から滝のような汗が流れていた。

 ランドセルのポケットから鍵を取り出し、急いでドアを開けて中へ滑り込む。しっかりと鍵を閉め、それから台所の窓を開けて外の様子を窺った。アパートの正面は駐車場になっている。見渡す限りあの影法師の姿は見当たらなかった。

 とりあえずホッと安堵した。しかし、あの影法師がいったい何のために僕の前に現れたのか。その理由が分からず不安が募るばかりだった。

 部屋の天井にわだかまる暗い影が、僕を押し潰そうと背中にのし掛かって来るように思えた。



 その翌日も、そのまた翌日も、影法師は僕の前に現れた。

 登校の途中の空き地で、休み時間の校庭の片隅で、帰宅する途中の路地裏で、影法師は物陰に隠れるようにひっそりと佇んでいた。

 不思議なのは僕以外の誰にも、影法師の存在が見えていないらしいことだった。影法師の横を通り過ぎても、その気配にすら気付かないのだ。

 どういう理屈でそうなるのか分からない。だが僕にだけ見えていることは確かだ。あるいはこれは僕の幻覚や妄想の類なのだろうか。しかし仮にそうだとしても、あの影法師に感じる忌まわしさや怖れの感情は本物だった。

 そして悪いことに、影法師の出現する場所が、だんだんと僕に近付きつつあった。この前までそれなりに離れていた距離が、日を追うごとに近くなり、つい昨日はとうとう僅か二、三メートルほどの所に現れた。次はきっと、僕のすぐ目の前に現れる違いない。

 そしてそのときこそ、何か決定的に怖ろしいことが起こるような気がしてならなかった。



 その日は一学期最後の登校日だった。体育館で校長の長ったらしい訓辞と終業式を終え、教室に戻って担任教師から夏休みの注意事項を聞かされ、通知表を受け取り、僕たちは解散した。

 帰宅する途中、あの影法師は現れなかった。アパートに帰ってドアに鍵を閉め、母が作り置いてくれた昼食を冷蔵庫から取り出す。

 どこかで蝉の声がうるさく鳴いている。あの影法師が忍び込んで来るかも知れないので、窓は閉め切っていた。仕方なく冷房を稼動させる。普段は電気代節約のためにあまり使わないのだが、ここ最近の夏は殺人的な暑さだ。閉め切ったままの蒸し風呂状態の部屋で、帰宅した母が見つけたのが熱中症で意識不明の息子だったら洒落にならない。


 せっかくの夏休みが始まったというのに、心はまったく晴れなかった。それもすべてあの影法師のせいだ。僕はぶつけどころのない苛立ちを覚えていた。

 このところ、僕は外出するのをなるべく控えている。どこであの影法師が待ち伏せしているか分からない。アイツがいる限り、僕の自由は奪われたままなのだ。

 仕方なく日課の風呂掃除を終え、それから夏休みの宿題に取り掛かった。やがて勉強にも飽きて、畳の上に大の字に寝転がる。どこか遠くで雷鳴が轟いて、通り雨が屋根を叩く。その音に意味もなく耳を傾けるうちに、僕はいつしか微睡まどろみの中に落ちていた。

 

 ふと目を覚ますと、夕暮れが窓を赤く染めていた。雷雲は通り過ぎたようだった。鴉の騒がしい鳴き声が頭上を遠ざかってゆく。部屋の中でぼうっとしていると、やがて買い物袋を下げた母が帰って来た。

 「遅くなってごめんなさいね。いま夕飯作るから」

 「別にお腹減ってないから慌てなくて良いよ」

 僕はそう言って、母に通知表を渡す。国語の成績が少し上がった。算数は相変わらず苦手のままだ。それでもクラスの中で成績はそう悪い方ではない。母は「頑張ったわね」と誉めてくれた。

 「あら、お醤油買ってくるの忘れたわ。悪いけどお遣いに行って来てくれる?」

 台所のテーブルの上で買い物袋から商品を取り出していた母が、僕を振り向いて言った。

 僕は一瞬躊躇したが、断る言い訳が見つからなかった。仕方なく頷いて財布を受け取る。

 きっとあの影法師が、どこかで僕を待ち受けているだろう。「行って来ます」と言って玄関のドアを閉めながら、台所に立つ母の後ろ姿をそっと目に焼き付ける。

 ひょっとすると、これが最後のお別れになるかも知れないと思いながら。

 


 夕立が通り過ぎたあとの、灼けたアスファルトが急激に冷やされた独特の匂いが、辺りに立ち込めていた。

 昼間の暑さはすっかり和らいでいる。遠く町の彼方は夕焼けの茜色に染まって、暗くなり始めた空に星が幾つか瞬いていた。

 通り過ぎる誰もが家路を急いでいる。近くのスーパーで醤油を買って、買い物袋を手に足早に歩いた。辺りを警戒しつつ見まわしたが、あの影法師の姿はない。僕は少しホッとした。

 帰り道の途中、幼児を肩車した男性とすれ違った。きっと親子だろう。

 死んだ父のことはよく憶えている。

 あんな風に肩車されたことも度々だった。背中の大きな、優しい父だった。トラックの運転手をしていた。荷物の配送中、大型トレーラーとの事故に巻き込まれ、そのまま帰らぬ人となった。なぜ父が突然いなくなったのか、その頃の僕にはまだ理解出来なかった。

 寂しくないと言えば嘘になる。だが、そんなことを口にしても母を困らせるだけだ。仕方のないことなのだ。そう自分に言い聞かせたが、それでも胸の奥に残る理不尽だという思いは拭いきれない。

 仕事に疲れて帰って来る母を見るたび、父が生きていてくれたらと思ってしまう。暮らしは決して楽とは言えない。母は何も言わないが、生活に苦労しているのは子供ながらに察せられた。最近、母の頭に急に白髪が増えたような気がする。申し訳ないと思う。まだ子供の自分は、母を助けて働くことさえ出来ないのだ。

 もしもこの世界に神様がいるなら、なぜ自分と母から父を取り上げたのだろう。あまりに不公平ではないかと思った。

 世の中にはすべてを手にして満たされている者もいるというのに。そう、あの優太くんのように・・・・。


 物思いに耽って歩いていたのがいけなかった。それまで気を張っていたのに、完全に隙だらけになっていた。だから、そこを付け込まれたに違いない。

 

 背後に人の立つ気配があった。


 背筋が粟立つ。ハッとして振り返ったときには、もう遅い。

 

 ───影法師が、僕の目の前に立っていた。


 背丈は僕とそれほど変わらない。

 空間を人の形に切り取って、墨で塗り潰したような真っ黒な影。顔のないのっぺらぼう。それでいてその佇まいには、確かな意思の在処ありかを感じさせる。この頃には僕はもう、この影法師が何を求めて現れるのか、おおよその見当が付いていた。

 しかしそれが分かったところで、今さらどうしようもない。

 悲鳴を上げようとしたが、声が出なかった。金縛りに遭ったように身動き一つ取れない。目を逸らすことも出来ず、視線はのっぺらぼうの黒い顔に釘付けになっている。


 影法師の右腕が、音もなくすうっと上がった。その指先がゆっくりと伸ばされる。そして僕の胸元に今にも触れようとした、そのとき。


 背後から、僕の名前を叫ぶ大声が響いた。


 僕は弾かれたように我に返った。

 足腰の力が一気に抜けて、その場にすとんと尻餅を付く。

 振り返ると、自転車に乗った優太くんが駆け付けるところだった。

 「おい、大丈夫か!?」

 僕の傍らに自転車を停めて、叫ぶようにそう尋ねる。

 言葉の出ないまま、僕は何度かガクガクと頷いた。そして、慌てて正面を振り返る。

 しかしあの影法師の姿は、どこにも見当たらなかった。

 「・・・・さっきの真っ黒い奴はどこへ行ったんだ?」

 唖然とした様子で、優太くんが辺りを見回す。

 「君にも・・・・見えたのか?」

 腰が抜けて立てないまま、優太くんにそう尋ねると、彼は青褪めたような表情で頷いた。

 「さっきお前の目の前にいた変な黒い奴ことか? 何か知らないけど、ヤバいと思って大声を出したんだ」

 僕は思わず安堵の溜め息を零した。

 今まで確信が持てなかったが、優太くんにも見えたということは、あの影法師はやはり自分にだけ見える幻覚や妄想の類ではないのだ。


 とりあえず僕は命拾いしたようだった。

 右手は買い物袋の持ち手を掴んだまま、醤油のペットボトルが地面の上を左右に転がっている。それを見ているうちに、ふいに現実感が戻って来るように思えた。

 「・・・・それにしても、どうして君がここに?」

 足の震えを堪えつつ何とか立ち上がると、僕は命の恩人である優太くんに尋ねた。

 「塾の帰りだよ。たまたま通り掛かっただけだ」

 「お陰で助かった。ありがとう」

 礼を言う僕に、優太くんは訝し気な目を向けた。

 「お前、最近なんか様子が変だったけど、ひょっとしてさっきの黒い奴が関係してるのか?」

 僕は少し躊躇ためらったあと、無言で頷いた。

 「何なんだ? あの黒い奴」

 「分からない。けど、僕は“影法師”って呼んでる」

 「影法師か。確かにぴったりのネーミングだな」

 そう言って、優太くんは何故か不敵な笑みを浮かべた。

 「ここ最近、あの影法師にずっと付きまとわれてるんだ。この前、小学校にみんなで遊びに行ったときから」

 「詳しく話してみろよ。俺に出来ることなら協力する」

 優太くんが、そう力強く断言する。その言葉に、僕は何だか救われるような思いがした。

 「ありがとう。でも母さんが心配してるから、早く帰らないと」

 僕は礼を言うと、こう続けた。

 「明日、詳しく話すよ。それで良い?」

 優太くんが頷いた。

 「分かった。明日の午前中は用事があるから、午後の二時に。俺の家で待ってる」


 そう約束して、僕たちはその場で別れた。

 遠く町の向こうに、夕日が沈み掛けている。路上にわだかまる暗い影が、徐々に闇へと変貌しようとしていた。

 その闇の奥で、あの影法師が息を潜め、こちらを窺っているかも知れない。

 そう思うと、さっきの恐怖が身体の震えと共に甦って、僕は走って家路を急いだのだった。

 

 

 


             (後編に続く)

 

 

 

 

 


 

 

 

 




 

 

 

 

 

 


 


 

 

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