Extra 〜その後の彼らは〜

夕暮れ

 いつまでも続くかのような夏の青空が薄くなり、ようやく日が傾き始めると、レオはどことなくほっとする。子供の頃から慣れ親しんだ冬の長いこの国で、貴重な夏の日々だというのに、どこかで夜を待ち遠しく思うのは、闇と影とが彼にとってはもう馴染み深いものになっているからかもしれない。


『なんじゃ、それほどわらわが恋しいか』


 ふわりふわりと朱金の影が宙を舞う。あの時はもう瀕死で今にも消えそうな儚げな顔をしていたくせに、今となってはせっかく用意してやった広々した水槽を抜け出し、夕暮れどころか、昼日中でさえ平然と姿を見せる。団扇うちわに潜んで海を越え、やってきた異国の水が合ったらしい。


「別に夜じゃなくたってふらふらそうやって姿を見せるじゃないか」

『妾はその辺の小物とは比べ物にならぬ格のあやかしゆえ』

「結局、魔物の仲間だろ」

 そう言ってやると、不機嫌そうにぷるぷると身を震わせて、ぺしりとその優雅な尾びれでレオの額を叩いてくる。その尾びれを掴もうとしたが、するりと逃げられた。やれやれとため息をついてから、少し周囲を散策することにする。


 たどりついたのは、そう遠くないところにある湖だった。夏至の頃には多くの人が集まり夜中まで飲めや歌えの大騒ぎをする場所でもあるが、今は人影ひとつなく静まり返っていた。長年住み慣れた故郷なのに、まるきり知らない場所のような気さえしてくる。

 淡い金色の前髪をぐしゃりとかき上げながら、草の上に腰を下ろし、湖へと沈んでいく太陽を眺める。少しずつ水に溶けるように沈んでいく端から金色の帯がこちらへと伸びてくるその色は、ふわりふわりと周囲を舞う朱金の光とよく似ていた。


 リナが彼らの元を離れて早二ヶ月。高校の卒業式を終えて、すぐにでも飛んでいってしまいそうな彼女を両親がなんとか引き止めようとしたせいで、彼女がかの国に舞い戻ったのは夏の最中。当初こそ、暑さに辟易していると毎日のように愚痴を聞かされたが、連絡はだんだん間遠になり、メッセージを送れば返事はくるが、もはや顔を見るのは三日に一度程度だ。そろそろ大学も始まるから、もっと機会は減っていくだろう。他に理由があるのも知っていたけれど。


「寂しいのなら、行かせねばよかったろうに」


 涼やかな声に顔を上げると、艶やかな黒髪と、鮮やかな赤い唇がこちらを見下ろしていた。切り揃えた前髪は変わらないが、黒い宝玉のような目の端にも紅がかれ、以前見た時よりも少しきつい印象だ。爪まで綺麗に紅色に染めた指先で、つい、と彼の顎を持ち上げる。尾びれとよく似た、ひらひらとした透き通る大きな袖が頬を撫でた。

「ふむ、少し背が伸びたか」

「そりゃあ、三年も経てばね」

 気まぐれに、深夜に月の光を受けて人の姿をとることはあったものの、それはほんのひとときの幻のようなもの。こうして日の光が残るうちに、じっくり姿を見るのはもうずいぶん久しぶりだった。


 顎に触れている細い手首を握ると、びくりと肩が震える。そのまま動かずにじっと黒い瞳を見つめていると、ほんの少し怯んだように眉根を寄せて、けれどそんな自分が気に入らなかったのか、反対の手で彼の目の辺りに指を伸ばしてくる。


「ほんに美しい色よの。えぐって万年氷に閉じ込めて、永遠とわに妾の手元に置いてやろうか」

「それでずっと見つめてほしい? 寂しくないように?」


 笑みさえ浮かべずそう言った彼に、金魚は驚いたように目を丸くして、戸惑うように目を泳がせた。自分で言ったくせに、と頬を緩めて彼はその顔を引き寄せて、深く触れる。

 目を開けて見つめた顔はまだ戸惑っている。思わず吹き出して、腕を引いて座ったまま抱き竦めると、金魚は落ち着かなげに身じろぎした。それまでの傲然とした様子から、打って変わって少女のように恥じらうその様子がおかしくて、艶やかな髪を撫でながら、頭を胸に引き寄せる。


「僕は、そんなことをしなくたってずっとそばにいるよ」


 ——不実な誰かとは違ってね。


 そう言って間近に視線を合わせると、今度は不機嫌そうに眉根を寄せる。あれ、と首を傾げていると、ぐい、と顔を両手で引き寄せられた。

「何も知らぬくせに、わかったようなことを言うな」

「そりゃあまあ、よくは知らないし」

「あれはそなたには似ても似つかぬ精悍な男子おのこじゃった」

「そうでしょうとも」

 彼の兄のパートナーに似ていると言っていたから、確かにタイプは全く違うのだろう。なんだか面白くない気持ちを抱えてそっぽを向こうとしたのに、白く美しい手は逃さないとばかりに、ますます力が込められた。

「金魚……?」

「そのような無粋な呼び名で呼ぶでない」

「……深緋こきひ

 そっと大切に、囁くようにその名を呼ぶと、目を閉じて微かに眉根を寄せて、それからぎゅっと彼の首に腕を回してきた。


「長い長い孤独の果てに、妾をそなたが昔の男のことなど思い出させるでない」


 なるほどそういうことかとようやく合点して、それから思わず緩んだ顔を見られないようにと顎を引き寄せて、もう一度深く口づけた。

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東の果てで、夏を知る 橘 紀里 @kiri_tachibana

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