Day 31. 夏祭り
せっかくだから可愛くしておかなきゃね、とそう言って
白地に彼女の瞳と同じような薄紫の朝顔柄の浴衣は、着慣れなず落ち着かないが、姿見に映った自分はなかなか様になっているように見えた。
「うん、可愛い」
「本当?」
「あとは背筋を伸ばして、あんまり大股で歩かないこと」
そう言って、文月はまるで姉のように目を細めて優しく笑った。
「フヅキも一緒に行く?」
「あ……と、私はその……」
両手の指を合わせて急に落ち着かなげに目を泳がせた様子に、ああそういえば、と思い出す。文月は随分と長く世話になったこの古書店の現在の主人の恋人でもあるのだ。
「ナナオと約束してる?」
リナが率直にそう尋ねれば、文月は先ほどまでの余裕が嘘のようにあわあわと慌て出した。けれどすぐに、一つ深呼吸して別に隠さなくてもいいんだった、と両手で頬を押さえながらこくりと頷いた。
「そっか、いいね」
「リナも
その名前にどきりと心臓が跳ねた。いつも部屋で書を
「大丈夫、きっと来てくれるよ。先に神社に行ってて。私も後から行くから」
「用意できた?」
ちょうどその時、襖の向こうから誰よりも馴染んだ双子の兄の声が聞こえた。文月にもう一度礼を言って、小さな巾着と
「え、何、やっぱり変?」
何だか既視感のあるセリフだったが、記憶に重ねるようにレオはぶんぶんと首を横に振る。
「似合ってる。すごく可愛い」
「そう? ありがとう。レオもいいね、それ。浴衣……じゃない?」
彼が着込んでいたのは、濃紺の袖のところに少し切れ目が入った涼しげなシャツとハーフパンツのような着物だった。
「甚平っていうんだって。ゆるっとしてるから、涼しくていい」
「そうなんだ。よく似合ってるよ」
「リナもね。じゃあ行こうか」
その言葉に、ほんの少しだけためらった彼女の沈黙に、レオは何も言わずに彼女の手を握ると、階段を下り始めてしまった。
目的地の神社は古書店から少し離れた場所にある。日が沈み切った頃にたどり着いたその場所は、
明るい
と、雑踏の中にその姿が見えた。決して少なくはない人混みの中で、背の高さだけでなく、目を惹きつけてやまない穏やかな光。ちらりと兄たちに目を向けると、何かを諦めてでもいるかのように、肩を竦めて笑いながら頷いた。リナもホッと笑って、友人たちにぺこりと頭を下げて、そのまま駆け出す。
「おい、走ると危ないぞ」
縁石につんのめったリナをその胸で抱き止めてそう言いながら、まじまじと彼女を見つめて目を見開く。視線が頭から首筋、うなじのあたりに下りて、何やら落ち着かなげに逸らされた。
「似合わない?」
「逆だ。目のやり場に困る」
「何で?」
「そんなこともわからねえうちは、言えねえな」
苦笑して彼女を包み込んでいた腕を離す。今日の鷹生は見慣れた茶色——彼曰く、
「髭、減った?」
首を傾げながらそう尋ねると、肩を竦めて呆れたように笑う。
「勝手には減らねえよ。まあ整えたくらいだな」
顎周りには残っているが、頬のあたりは綺麗に剃られて、どうやらそのおかげでさらに若返った印象だ。元々二十四だと言っていたから、七生より若いはずだ。
「何だ、惚れ直したか?」
冗談のようにいう横顔に、反射的にこくりと頷くと、自分で言ったくせにぽかんと口を開けた。それから、口元を押さえてあらぬ方を見遣っている。そんな様子は人と何ら変わりがない。
「ねえ、鷹生」
「何だ?」
「日本のお祭り、初めてだから、楽しみ」
袖を引いてそう言うと、鷹生はたっぷり十秒ほど、まじまじと彼女の顔を見つめた。それから、そうか、とひどく柔らかく笑う。きっと、彼女が言わなかった——言えなかった言葉も全て飲み込んで。
「俺も久しぶりだから、楽しみだな。七生に小遣いも貰ってきたから、存分に楽しんでやるとするか」
笑った顔はからりと明るいのに、どうしてだか胸を締めつけられた。それでも目の端に浮かんだ涙をぎりぎりで堪えて彼女も笑みを返す。
——残された時間がわずかなら、その思い出は絶対に楽しく幸せなものであるべきだよ。
彼女の祖母は、よくそう言っていた。残していく方に未練が残らぬよう。残される方の思い出が、寂しさや悲しさで埋め尽くされぬよう。
共に過ごした時間は、決して色褪せぬ思い出となって、空いてしまった心の隙間を埋め、闇や影から守ってくれるから。
だから彼女は鷹生の手をぎゅっと握る。この温かさを忘れないように。鷹生は何も言わず、その手を握り返してくれた。決して逸らされない視線の強さはそのままこの人の強さなのだと、リナは心の底から安堵する。
「ああ、そうだ。嬢ちゃんに会ったら渡そうと思ってたんだ」
ふと、鷹生が思い出したようにそう言って、懐からきらりと光るものを取り出した。
「
言いながら、すっと彼女の髪にそれを刺す。先日鷹生と出かけた小間物屋で買った縮緬の小さな手鏡を取り出してみると、映っていたのは金色の細い棒の先に、彼女の瞳と同じような色の小さな
「
「すごく綺麗。ありがとう、鷹生」
「喜んでもらえたのなら何よりだ」
頬に手を滑らせ、それから耳元に口を寄せてくる。大切な秘密を囁くように。
——藤の花言葉は「恋に酔う」、そして「決して離れない」なんだとよ。
驚いて見上げた顔は、ただ優しく笑っていた。
東の果ての国、その最初の夏の、最後の夜はそんなふうにして更けていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
本当に行ってしまうのか、と何度も重ねて問われたけれど、彼女の決意は変わらなかった。彼女のあるべき場所は、ここではないから。
名残惜しげに頬を撫で、こちらを見つめる眼差しは寂しさを隠そうともしていなかった。きゅっと締め付けられるように心臓が騒ぎはしたけれど、それでもどうしても、彼女は行かなければならなかった。
「まあ仕方がないね。僕だって離れられなかったから」
ぴちゃん、とどこからともなく水音がする。その気配に愛おしげな眼差しを向ける兄は、随分と大人びた気がする。それはきっと彼女も同じで。
「でも、もし会えなかったら、ちゃんと戻ってくるんだよ。他の変な男に引っかかったりしないように」
念を押す様子は結局のところやっぱり変わってはいなかった。くすくすと笑って、
「遊びにきてね」
「もちろん、言われなくても」
軽い言葉と笑みは、けれど本気だったと、わりとすぐ彼女は知ることになるのだけれど。
ともあれ長いフライトを経て、再び訪れたその東の果ての国は、やっぱりうんざりするほど暑かった。街中は森や泉もほとんどない。じっとりと重い空気にさっそく挫けそうになった彼女の上に、長い影が下りてきた。
「随分遅かったなあ」
何の約束もせず、離れてから丸三年。この国の最高学府への留学を条件に、難色を示す両親を宥めすかしてようやく渡航をもぎ取った。
「手紙のひとつもくれりゃあ、よかったのに」
ニッと笑う顔は、全く変わっていなかった。眩しい陽の光の中で、影さえ落ちる確かなその姿。堪えきれずにその胸に飛び込むと、抱き止めてくれた腕はしっかりと温かい。
「だって、約束はくれたでしょう?」
彼女がポケットから取り出したのは、藤の花簪。どれほど物理の距離が離れても、心が離れることはない。結んだ絆のおかげか、不思議とずっと迷いはなかった。
そう笑った彼女に、懐かしい顔が少し呆れたように、それでもひどく優しげに甘く笑う。
「まったく、敵わねえなあ。こっちは気が気じゃなかったってのに。まあ、ちょうどいいか」
「……え、何が?」
「こっちの話。またおいおいゆっくりな」
ますます綺麗になったな。そう笑って触れてきた唇は、人ではないとは信じられぬほど、やっぱり柔らかく温かかった。
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