Day 30. 貼紙

 ふぅっと庭に小さな光が流れた。金魚がまた悪さをしているのかと、レオは眉根を寄せて立ち上がり、縁側から庭に下りる。ひとつ、ふたつとふわりふわりと明滅するごく小さな光は、金魚のそれにしては、いやに儚い。何だろうとやぶを覗き込んでいると、後ろから兄とその友人がやってきた。


「あれ、もしかしてほたる……?」

「え、こんな都心で蛍とか見られんの⁉︎ すげー、俺初めて見た!」

「近くの遊園地で飼育しててイベントで見にいったことはあるけど、こんなところまで流れてきた、とかあるのかなあ」

 首を傾げる凪に、カイはといえば酒の入ったテンションの高さで、のんびり酒を飲んでいる大人二人を呼びにいく。

「ほらほら、みなとさん、あれ蛍じゃね⁉︎」

「こんなところに……? ってマジか」

「千秋さん、今まで見たことある?」

「俺はないが、昔は近くの川に結構いたとは聞いたことがあるな」

「へえ……」

 はしゃぐ二人にやれやれとため息をつきながらも、背の高い男たちの方は甘く緩んだ顔をしている。何となくその表情が、あの着物姿の男を思い出させて、レオの胸の奥がざわりと騒いだ。


『そんなにむくれるなら置いてこねばよかったであろうに』

「うるさい」

 少し離れた場所で、金魚がふわりふわりと光を振りまいている。金魚鉢に入る代わりに今は綺麗な切子きりこ硝子がらすの器に浮いている。もはや兄も兄の友人たちも、その程度の怪異には慣れてしまったらしい。

 思いのほか長くなったこの異国での夏休みももう間もなく終わる。ふよふよと浮き、団扇と金魚鉢を平然と行き来する金魚に比べ、鷹生はあまりにもその存在が確かすぎる。それでも彼は人ではないし、既に亡くなった身だ。国境を越え、彼らの国までやってくるのは至難の業だろう。


 今まで過ごしてきた時に比べれば、ほんのひと時の邂逅であい


 リナの鷹生への想いは恋に恋してきたようなこれまでの淡いそれとは、きっと違う。だからといって、この地にずっと留まることはできないし、鷹生が海を渡ることもできないだろう。だとすれば、この先に待っているのは別れだけだ。

「リナ、泣くかな」

『そなたの望み通りじゃろ』

 金魚がびれでぴちゃんと水を弾き、意地悪に笑う。確かにずっと誰よりそばで過ごしてきた妹をとられるようで、気に入らないのは間違いない。けれど、彼女が泣くとなれば、それはまた別の話だ。

「僕はお前みたいに性格悪くない」

『何と失敬な。こんなに優しいわらわに向かって』

 ぴしゃりと水をまた弾きながらも、言う声は柔らかい。そういえば、この金魚もその後はどうするのか、まったく触れもしない。当然のごとくついてくるつもりなのか、あるいは気ままにこの国で暮らすのか。切り裂いたはずの指先の傷は、もうほとんど見えなくなっていた。


 絆を——縁を結ぶということが、実際にどういうことなのか、レオには結局分からずじまいだ。聞いてしまうのが怖い、という自分の本音には見て見ぬふりをして。


 ふと、凪が思い出したようにこちらに歩み寄ってきて、一枚の紙を差し出してきた。にっこり笑う顔は、屈託がなく、穏やかだがほんの少しだけ気遣うような色を浮かべている。

「そういえば、これ、商店街で貼紙されてるのを見かけたんだ。きっとみんなで行ったら楽しいと思うから、一枚もらってきたよ」

「夏祭り?」

「うん、僕もこのあたりのはまだ行ったことないんだけど、近くの神社で屋台もたくさん出るし、子供たちには花火も配られるそうだから、リナちゃんも一緒に行ってみない?」

 完全に子供扱いされているのが気にはなったが、先日この庭で花火をした時のリナの楽しそうな様子を思い出して、思わず口元が緩んでしまったらしい。了承と受け取って、凪はぽんぽんと子供にするようにレオの金色の頭を撫でて、自分のパートナーの方へと戻っていく。ごく幸せそうな横顔に、思わずため息が一つ洩れた。


『あまり考えすぎるでない。大概なるようになる。それに、どうにもならぬことに思い悩んでも時の無駄じゃ』

 意外に楽観的な助言に思わず金魚を振り向くと、ぴちゃんと水を弾き、ふうわりと宙を泳いで近づいてくる。

『そなたもあれも言葉が足りぬ。望みがあるなら口にせよ。童子わらしが遠慮などするものではない』

「何その前向きアドバイス」

『ありがたき妾の言葉、紙にしたためて部屋にでも貼紙しておくが良かろ』

 もう一度ため息をつきかけたレオの頭の横を、ひんやりとした空気をまとわせながら、金魚がすい、と泳ぎ通る。


 ——何しろ時は残りわずか。せいぜい後悔せぬようにな。


 目が合った瞬間、ふっと何だかもう懐かしい艶やかな黒髪と赤い唇が視えた気がした。

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