Day 29. 揃える

 翌日、リナが鷹生の部屋を覗くと、いつも通り背筋を伸ばして、机に向かう横顔が見えた。

 黒い石のような墨を取り出し、ほんの少し水を垂らして、静かに円を描くように動かす。とろりとした黒いその液体に、少しずつ水を加え、濃さを確認してから筆を握る。筆先をすり上がったばかりの墨液に浸して、すっと背筋を伸ばして白い紙に向かうその顔は、穏やかだが真剣だ。

 さらさらと書き付けられた文字は、彼女には複雑な線の組み合わせにしか見えないけれど、それでも紙の上で流れる川のように美しい。時折何かを考え込むように手を止めて、それからまたさらさらと一息に文字の連なりを紙にしたためめていく。


 どれくらいそうしていたのか、新聞紙の上に並べられた半紙が部屋の一角を埋め尽くすほどになる頃、ようやく鷹生は筆を置いた。墨の乾いた紙を重ね、端を揃えて机の上に置く。最後の一枚だけはまだ下敷きの上に置かれたままだ。鷹生はじっとそれを見つめ、何やら考え込んでいる。

「なんて書いてあるの?」

 声をかけると、鷹生は珍しくひどく驚いたようにびくりと肩を震わせた。下敷きの上に置かれていた最後の一枚に指を滑らせ、乾いていることを確認すると、四つに折り畳んでふところにしまいこんでしまう。

「え、何で?」

 頬を膨らませた彼女に、鷹生はけれど苦笑するばかりで答えない。

「そんなに見られたくないものだった?」

「そういうわけじゃねえが……嬢ちゃんこそ、何か用でもあったのか?」

「ああ、うん。ちょっとそろそろお土産でも探しにいこうかと思ったんだけど」

「こんな時間からか?」

 鷹生の視線を追って窓の外を見れば、もう日はほとんど沈んでしまっている。レオとカイは友人と夕飯を食べると言っていたから、今日は一人だ。あえて置いていかれた理由は彼らなりの気遣いであるのはもう分かっていた。


 当初は二週間の予定だった異国での夏休みは、結局まるまる一月になった。学校が始まるのはもう少し先だけれど、そうそう長い間、この古書店に世話になるわけにもいかない。何より航空券の変更がこれ以上きかないと親にも宣言されてしまっていた。

 いくら名残惜しくても、長兄カイというゆかりがあっても、日本ここは彼女にとっては旅先で、いつか離れなければならない場所だ。

 そんな彼女の感傷を感じ取ったのか、鷹生が何やら考え込んだ末、ふと思いついたように声を上げた。

「近くに縮緬ちりめんなんかの小物を扱う店がある。異国への土産には似合いだろう。行ってみるか?」

「うん!」

 満面の笑顔で頷いた彼女に、鷹生はほんの少しだけ苦笑して立ち上がった。近づいてきて、くしゃりと彼女の金の頭を柔らかく撫でる。ふと先日の記憶が蘇り、リナの頬が赤くなる。視界の隅に映った顔は甘く優しげに笑っていたから、余計に恥ずかしくなって、彼女は逃げるようにサンダルを履いて、早足で外へと飛び出した。


 夕暮れの風は、地面の熱を吹き払って少し涼しく感じられた。もう暗いのに、遠くでカナカナカナ、と鳴くセミの音はどこか物悲しい。何となく話すことも見つけられず、黙ったまま歩調をあわせてくれる鷹生とゆっくり路地を歩く。

 その沈黙は、それでも不思議と気詰まりではなくむしろ穏やかで心地よい気がした。ちらりと見上げれば、意味ありげに視線が向けられる。思わず指先で自分の唇に指で触れた彼女に、余計に鷹生はくつくつと低く笑った。


 それでもそれ以上何をするでもなく、やがてたどり着いたのは小さな雑貨屋だった。ガラスケースの中には小さな人形や、財布、ハンカチなど様々な小物が並んでいる。どれもが赤や黄色、オレンジなど明るい色で、様々な細かい柄のある布で作られている。彼女の母や友人たちが見れば、喜びそうな丁寧な仕上がりのものばかりだ。

「俺がいたころから続いてる小間物屋だ。店主は変わってるだろうが」

 そう言って鷹生に続いて引き戸を開けて店へと入った。鷹生の言う通り、店主は代替わりして既に三代目とのことだった。初代の頃からのレシピと、今の若者が好みそうなデザインを色々検討しながら作っているのだと楽しそうに話してくれた。コインケースとハンカチ、それから小さな鏡を縫い込んだコンパクトを購入し、礼を言って店を出る。


 意外に話し込んだせいか、もう外はすっかり暗くなっていた。

「気に入ったのか?」

「うん、きっとおかあさんも友達も喜んでくれると思う」

「そうか」

 鷹生はただ柔らかく笑う。その腕に自分の腕を絡めると、少し驚いたように目を見開いたが、振り解こうとはしなかった。温かくて、力強い。頬を寄せると、ややして上からため息が降ってくる。それから囁くような低い声が聞こえた。


「つばなぬく、あさぢがはらのつほすみれ。いまさかりなり、わがこふらくは」


 見上げると、ほんの少し切なげな色をした眼差しが彼女をじっと見つめていた。首を傾げると、懐から端を綺麗に揃えて四つに折り畳んだ先ほどの紙を取り出して、リナに手渡す。ゆっくりと開いたその紙には、漢字ばかりが並んでいる。硬質な印象を受けるのに、それでもどこか柔らかいのは鷹生の性格が見えるその筆致のせいだろうか。

 

 茅花拔 淺茅之原乃 都保須美礼 今盛有 吾戀苦波


 鷹生は指で文字を追いながら、もう一度先ほどの言葉を繰り返す。

「つばな抜く、浅茅あさぢはらのつほすみれ。今さかりなりわがふらくは。と言ってもこの菫は白らしいがな」

 笑いながら戀、という文字でぴたりとその長い指が止まる。複雑なその文字にさらに眉根を寄せたリナに、くつくつと笑う声が降ってきた。

「いとしいとしというこころ、と言ってな、意外と覚えりゃ簡単に書けるぞ」

「恋……?」

 半紙を握ったまま見上げた顔は、どこかやはり切ないような色を浮かべていた。けれど、ふっと悪戯っぽく笑って、近づいてくる。ほんの少しだけ深く触れて、すぐに離れた。


「何もかもがこの折り目のように、きっちり片がつけば楽なもんだがなあ」


 そう言って彼女の手の中にある半紙を見ながら、もう一度笑った顔の向こうに、一瞬だけ儚く空にかかる夜の虹が見えた気がした。

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