Day 28. しゅわしゅわ

 少しうつらうつらしていた隙に、金魚鉢から金魚の姿が消えていた。レオは慌てて立ち上がってはみたものの、どこを探していいかもわからない。思案しているうちに、すい、と目の前に朱金の影が流れた。


「……何だよ、水はらないのか?」

『要らなくはない、入っている方が楽じゃ』

「楽って……」

 所詮は人でもなく、本当の魚でもない。用意された金魚鉢で優雅に泳いではいたものの、そう在るのはあくまで幻で、本質は異形なのだ、と改めて思い知らされる。

『なんじゃ、心配したのか』

「うるさい」

 どこか嬉しげな声にぴしゃりと言い捨ててレオが部屋を出ようとすると、金魚がひらりと朱金の光を振りまいた。

『妹に声をかけぬで良いのか?』

「それこそ野暮ってやつでしょ」

『そうでもなかろ。放っておいてはあの猛禽けだものが何をしでかすやら。大切ならしかと目を光らせておくが吉じゃ』


 何やらぷりぷりと言う金魚は、どうやら妹と彼を本当に気遣っているらしい。レオは首を傾げながらも隣の部屋の前に立ち、軽く襖を叩くと、何やらばたばた慌てたような物音がした。なんだやっぱりお邪魔虫か、とほんの少し後悔したが、すぐに襖が開いて覗いた妹の顔はどこかホッとしているように見えた。

「レオ、でかけるの?」

「あ……うん、ちょっと散歩に。一緒に行く?」

「行く!」

 珍しくこくこくと頷いたリナの後ろで、着物姿の男も立ち上がった。何やら苦笑しているその様子に思わず彼が首を傾げると、鷹生は首を横に振って肩を竦める。

「いや、別に」

 金魚がいうけだものじみた様子は微塵もないが、それでも何だか面白くない。ぎゅっとリナの手を握るとそそくさと階段を下りた。


 先ほどは不自然なほど静まり返っていた外は、今はわんわんとセミがうるさく鳴いている。ひと雨降ったせいか、夕暮れの気配と共に心地よい風が吹いて過ごしやすい。

「どこか行きたいところでもあるのか?」

 外に出たはいいものの、立ち止まってしまったレオに、鷹生が薄く笑いながらそう尋ねてくる。両腕を袖に入れたまま見下ろしてくる様子は顔は穏やかで、先ほど見た凄惨な気配はもうどこにもない。だから、本当はもう大丈夫だと彼もわかってはいたけれど。

 黙ったまま答えられないでいるうちに、鷹生は肩を竦めて笑ってふいと歩き出してしまった。リナが、あ、と声にならない声を上げ、ちらりと彼の方を意味ありげに見る。仕方なしに、レオも後を追って歩き出す。リナと手は繋いだままで。


 たどり着いたのは小さな店だった。店の前には古びた冷蔵庫、奥にはさまざまな菓子が並んでいる。兄のカイがよく話していた駄菓子屋、というやつらしかった。リナはちょっと不思議そうに店の中を覗き込んでいたが、鷹生に手招きされるとおずおずと中に入る。

「これ何?」

 妹が指差したのは、小さな四角いグミのようなものがプラスチックのケースにたくさん入ったものだった。

「フルーツ餅、だそうだ。そっちはゼリーに……チョコレートか。いろんなものがあるもんだ」

「全部お菓子なの?」

「ああ、しかも安い」

「そうなの?」

 目を輝かせたリナに、鷹生が柔らかく笑う。その様子はどこまでも穏やかで、先ほど見た光景が嘘のようだ。甘い雰囲気にうんざりとため息をついて一足先に店を出る。


 軒先のベンチに腰かけて、カナカナカナ——という、どこか寂しげな声に耳を澄ませていると、不意に首筋に冷たいものが触れた。

「な、何!?」

「えへへ、ラムネって言うんだって」

 悪戯が成功した子供のように笑ってリナが差し出してきたのは、透き通る薄青い瓶だった。よく冷えているのか瓶の周りには水滴が浮いている。開け方がわからずぼんやり見つめていると、鷹生がひょいと取り上げて、栓を抜いて渡してくれる。小さく礼を言って、妹と二人で口をつけると、しゅわしゅわとした炭酸と柔らかく甘い味が口の中に広がった。

「エルダーフラワーの炭酸ジュースを思い出すね」

「あ、僕もそれ思った」

 祖母の家に行くと必ずおいてある、優しい花の香りのするシロップ。それをこっそり多めに入れて、炭酸で割って飲むのが彼も妹も大好きだった。彼らにとっては故郷の夏の風物詩だ。

「そろそろ懐かしくなってきたね」

「……うん、そうだね」

 頷きながらもその視線が彼ではない、別の方向を向いているのがわかった。


 けれど、その先に何が待っているのかは、まだよくわからなかったから、気づかないふりをすることにした。

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