Day 27. 水鉄砲

 リナがずぶ濡れになった服を着替えて髪を拭いていると、ふすまの向こうで人の気配がした。どんな顔をして会えばいいのかわからず、窓枠のそばに座り込んでいると、そろりと襖が開く。固いドアとは違って襖ではノックの習慣というものがないらしい。


「勝手に開けないで欲しいんだけど」

「そりゃ悪かった」

 言葉ほどは悪びれないからりとした声に、強張っていたリナの肩の力も抜けてしまう。ぼんやりと見上げたままでいると、鷹生は後ろ手に襖を閉めて静かに近づいてくる。細い金糸のような彼女の髪はまだ濡れたままだというのに、無造作に括られた鷹生の髪はもう乾いているようだった。ドライヤーを使ったわけでもないだろうから、そんな些細なことで、彼が人ではないことを改めて実感する。いつの間にか変わっていた着物の色も。

「何でその色?」

「鷹っぽいだろ?」

「……それだけ?」

「嬢ちゃんが覚えやすいかと思ってな」

 冗談かと思ったのに、存外に面白そうに笑うその顔で、本当のことを語っているのだと何となく確信する。そうして、それほどまでに鷹生の存在ありかたの全てが彼女のためであったことも。

「どうして……?」

 震えそうになる声を振り絞って、そう尋ねる。何が、と尋ね返すこともなく、鷹生は彼女の前に膝をつくと、その大きな手を伸ばして頬に触れる。親指が目の下あたりを軽く撫でて、じっと見つめてくる。穏やかな色に戻った瞳に、今にも泣き出しそうな自分の顔が映っていた。


「俺は戦地で果てた。その事実に変わりはない。今の俺は、果てる前の無念さと、出されなかった手紙に残された想い、それにあの守り刀とのえにしとが絡み合い、こごってできた残滓のこりかすみたいなもんだ。いずれにしても人の世のことわりに反している。だから誰にも気づかれず、いつかそのまま朽ち果てるべきだと思っていた」


 過酷な戦地で見た、思い出すのもおぞましい無惨な光景。己が身に降りかかった語ることさえためらわれるような苦痛の数々。そうした記憶の数々はことあるごとに浮かんでは沈み、また浮かんでは彼をさいなんだ。

 それらに触れるたび、鷹生は己の中にある昏く不穏な気配を感じたのだと言う。それがどれほど危険なものか、薄々気づいていたから目を逸らし続けた。人の世への恨みや妬み、そんなものは自分ひとりが地獄の底まで抱えていけばいいと思っていた。


 それなのに、リナが見つけてしまった。積み上がった本の間に仕舞われ続けた一枚の古びた封筒。長い間、誰にも見つかることなくそこに埋もれていたのに。

「私のせい、だね」

 静かに終わる時を待っていた鷹生を、呼び覚ましてしまった。

 彼女にとっては影から守られた穏やかで楽しい日々だったが、それが彼の辛い記憶を鮮明に呼び起こす引き金となり、己の中に宿る昏い炎に焼き尽くされそうになった。彼が必死に自分自身から守ろうとしていた大切なものさえも傷つけかけた。


 ——彼女と出会わなければ、懐かしい思い出の宿るこの古書店で、ただ静かに眠りにつけていたかもしれないのに。


 それ以上の言葉を紡ぐ前に、滲んだ視界の向こうで鷹生の顔が間近に迫ってきた。すぐにその距離がなくなる。目を開いたまま、じっと彼女の菫色の瞳を見つめて楽しげに笑い、すぐにその目が閉じられて、深く触れてくる。頬に溢れた涙を拭いながら、しばらくして離れた顔は、ひどく柔らかく笑っていた。

「嬢ちゃんを一目見た瞬間、俺は思い出したんだ」

 目の端に涙を浮かべたまま首を傾げたリナに、鷹生は淡い金の髪に指を差し入れてくしけずるように撫でる。

「この世には、こんなにも綺麗なものが存在するんだってな」

「何、それ——」

黄昏時たそがれどきの淡い光の中で、俺の存在なんかよりよっぽど不可思議で、そして美しいと思った」


 きらきらと淡く輝く髪に、黄昏の光を受けてさらに神秘的な色に染まった瞳。宝石のようなその輝きを見たとき、それまでただ消えていけばいいと思っていたのに、微かな望みを抱いてしまったのだと言う。


「俺のそばでお前さんが笑ってくれるのがただ単純に嬉しかった。そうして、もっと見ていたいと思った。朽ちることだけを望んでいた俺に、璃南りなが希望をくれた」

 呼ばれた名に、心が震えた。

ゆがねじれた俺を、璃南が呼び戻してくれた。あの金魚の雨と水と守り刀の力で消えゆく俺の意識をすくい上げて、こうしてまたこの世につなぎ止めた」

 昏い炎は守り刀の力を得た金魚の雨で、洗い流され浄化して、そうして消えるはずだったのに。

「ごめん、なさい」

「謝るな。俺が望んだんだ。何も残されていなかった空っぽの俺を、お前の光が満たして救ってくれた」

 堪え切れず、リナの瞳からまた涙が溢れる。それが、鷹生が目の前にいる嬉しさなのか、それともつなぎ止めてしまった後悔なのか、どちらとも判然としない。ぱたぱたと落ちた滴が吸い込まれる前に畳の上で丸く滑る。

「泣くな。そんなに可愛い泣き顔を見せられたら我慢できなくなっちまう」

「……え?」

 トン、と軽く肩を押されて、気がつけば先日のように、鷹生の肩越しに天井が見えた。ニッと笑った顔はいつも通りなのに、その眼だけが少し違う色を浮かべている。


「どれほど人らしくあろうとしても、もう俺の本質はあやかしだ。恐ろしいなら、今のうちに離れてくれ」

 からりと明るい声で言うその手は、けれど彼女の手首をがっちりと握り込んでいる。言っていることと行動が伴ってない。それこそが鷹生の言う妖の証なのかもしれない。

「……妖って人間を食べるの?」

「まあ、ある意味では」

 笑って言ったその顔に、彼女は一つため息をつく。どこまでが冗談で、どこからが本気なのかは、今ひとつ判然としない。答えあぐねているうちに、鷹生の顔がさらに近づいてくる。

「ちょ、ちょっと待って、何して——」

「そういえば、お前さん何歳いくつなんだ?」

「じゅ、十六だけど」

「流石にまだ早いか。まあちょっと印をつけるくらいなら——」

 ニッと太い笑みを浮かべた顔に見惚れているうちに、思いのほか柔らかい括った先の黒髪が頬に触れてどきりと心臓が跳ねる。だが、唐突にぴしゃりと冷たい飛沫しぶきが弾けた。


『調子に乗るでない、このいろけ鳥が!』

「何だお前さん、力を失って金魚鉢で泳いでるのが関の山じゃなかったのか」

 ぽたぽたと垂れる滴はまたしてもずぶ濡れた鷹生の顔から落ちてくる。顰めたその顔に、ふわりふわりと宙に浮く金魚が口から水鉄砲の如く、さらに流水を噴射した。

 優雅な金魚とその動きのギャップは、若干コメディじみている。

「うわっ、ちょっとやめろよ汚ねえな」

『失敬な。水神の眷属たるわらわの霊水、むしろありがたいと思え』

「思えるか! お前はあいつと絆を結んだんだろう。こっちは放っておいてしっぽりやってこい!」

『下品な男じゃの。あれは見栄っ張りだがまだまだ童子。双子であればこそ、こちらも同じじゃ。妾の目の黒いうちは、お主のような色呆け鳥に手をださせるものか。大体そなたもそなたじゃ』

 金魚がふわりと彼女の方に宙を泳いで近づいてきて、ぴしゃりと尾びれで頬を軽く叩かれた。

「え、痛っ⁉︎」

『再三釘を刺されたであろ。何しろ長年封じられて欲求不満の猛禽けだものじゃ。気をしっかり持って己が身はちゃんと己で守りゃ』

「誰がケダモノだ。だいたい別に嫌がってねえんだから——」

『その口閉じねば、また大雨でその煩悩ごと洗い流してしまうぞえ』

「そっちこそ——」


 何やら言い合う人外同士の会話に、何だかそれまでの切ない気持ちも押し流されてしまう。思わずくすくすと笑った彼女の屈託のないその笑顔に鷹生が見惚れ、金魚は呆れたようにふるりと優雅に尾びれを震わせた。

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