Day 26. 標本

 愚か者、と不機嫌そうに言った声があまりにらしくて笑った隙に、レオの腕の中からふっと重みが消えた。異形とのえにしことわりも、何もかもがわかっていたわけではない。ただ、それで大丈夫のはずだと無闇に確信だけがあったのに。


「金魚——深緋こきひ⁉︎」

 呆然としていると、ぴちゃん、と不自然な音がした。目を向ければ、突然の雨であちらこちらにできた水たまりのひとつに鮮やかな朱金が見えた。

「……なに遊んでんだよ?」

『遊んでおるように見えるのか、この愚か者が』

 ぴしゃん、と長い尾びれで水が弾かれて、彼の顔にしずくがかかる。ほっと安堵の息を吐きながら、優美なその姿を水たまりの水ごと掬い上げると、ふるりと体を震わせた。


 とにもかくにも、炎上を免れた古書店に足を踏み入れると、出迎えてくれた七生ななおは店の外の事態に全く気づいていなかったらしい。ずぶ濡れの三人に驚いたように目を丸くして、慌てて奥からタオルを持ってきてくれ、さらには水をはった両手で抱えられるくらいのガラスのボウルを置くと、彼の方にそっと押し出す。

 手の中に抱えていた朱金をその中にそっと放すとすい、と優雅に泳ぎ出す。金魚鉢、というらしいその容器の底には白い玉砂利と色とりどりのガラス玉。さらにはゆらゆらと水草が揺れていて、その間を泳ぐ金魚はまるで一幅いっぷくの絵のように美しい。

「元々水草の水槽標本アクアリウム用に買ったんだが、役に立ってよかったよ」

 しゃべるカメに慣れている七生のことだ。彼の手に抱えて現れた金魚の素性に薄々気づいているのかもしれなかったが、特に何かを尋ねてはこなかった。訊かれたところでうまく説明する自信もなかったから、ひとまず着替えて髪を拭き、頬杖をつきながらローテーブルの上に置かれた金魚鉢を覗き込んで少しぼんやりしていると、隣の部屋で何やら物音がする。


 聞き慣れた声の、聞き慣れない涙声と、困ったように宥める低い声が、閉じた戸の向こう側から途切れ途切れに聞こえてくる。普段の彼ならためらいもなく立ち上がって駆け込んでいくところだが、さすがに今はその野暮さを理解しているから頬杖をついたまま、先ほど自分で傷付けた指先を鉢の中に浸してみる。閉じ切っていなかった傷口から赤い色が薄く流れた。

 気づいた金魚が、無表情なのにそれとはっきりわかるくらい不機嫌に身を震わせて、それから近づいてきて噛みつくように指先に触れた。どうやったものか、ちくりと微かに針を刺すような痛みが走り、思わず指を引き上げて見れば、不思議と傷が綺麗に消えていた。


「何それ。こんな魔法も使えるの?」

『魔法などであるものか。ほんのわずか、そなたに宿る力を引き出しただけ』

「僕の?」

『そなたらは己が思っておるより、力を秘めておる。血脈なのか、あるいは別の何かなのかはわからぬが。故に異形がつけ狙う』

「え、そうなの? お前も?」

わらわをあんなものと一緒にするな。そなたの力などなくとも妾は十分、力を持っておる』


 そもそもの出会いは影に囚われそうになっていた金魚を彼が救ったことだったのに、それを忘れているかのような言い分だ。指摘したところで機嫌を損ねるだけだろうから、あえて口にするのはやめておいたけれど。

 気がつけば隣の物音も止んでいる。その理由に思い至って微かに眉根を寄せた彼に、金魚がふふんと嫌味に笑う。魚のくせに、やたらと表情豊かに見えるのは、それだけレオと彼女の縁が深いせいなのだろう。

「見た目は可愛いのに」

『なんじゃ、妾は気立てもよかろ。妹に構ってもらえぬ泣き虫で寂しがり屋の童子わらしをこうして慰めてやるほどに』

「あんまり可愛くない口ばかりきいていると、びれを美しく広げた姿で標本にしてしまうよ」

『おや恐ろしい』


 言葉とは裏腹に楽しげに笑う金魚にため息をついて、鉢を指で弾いてみたが、人の形を見せない彼女は、ただひらひらと優雅に泳ぐばかりだった。

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