愛の身勝手

尾八原ジュージ

愛の身勝手

 電車を降りると、改札を出てすぐのケーキ屋でイチゴのタルトをふたつ買った。ぼくは甘いものに興味がないのだが、妻はこれが一番好きだ。少なくとも「わたし、駅前のケーキ屋さんのイチゴのタルトが世界中のケーキの中で一番好きなの」と以前に言っていたことは確かだ。ぼくが妻の言ったことを間違えたり忘れたりしたためしはない。ないはずだ。

 タルトふたつを紙箱に入れてもらって家路を急いだ。住宅街の一角の小さな建売住宅、まだローンが残っている家のドアを開け――ようとして手を引っ込める。代わりにインターホンを鳴らした。そのままドアの外で耳を澄まして待ったが、足音などは聞こえなかった。ぼくは鍵を取り出し、自分でドアを開けた。

「ただいま」

 途端に異臭がむっと鼻をついた。明かりの消えた部屋の奥の暗がりから「おかえりなさい」という声がした。

 妻はダイニングチェアに座っていた。テーブルの上には澱んだ色の液体が注がれたスープボウルと、焦げた肉の塊が載った皿が置かれている。妻は左右がずれた顔をゆっくりゆっくりとこちらに向け、「ごはんできてるわよ」と言ってぎこちなく笑った。

 妻の足元の床に赤黒いものが落ちている。これは一体なんだろう。妻の一部ならば邪険にしてはいけないが、どこから溢れ落ちたものなのかよくわからない。ぼくはそれらを拾ってタッパーに入れ、床についた血はきれいに拭き取った。その間、妻は動こうともしなかった。

「駅前でケーキを買ってきたよ」

 ダイニングテーブルの上で箱を開くと、妻は「わぁ嬉しい。わたし、駅前のケーキ屋さんのイチゴのタルトが世界中のケーキの中で一番好きなの」と一本調子に言った。その瞬間、ぼくはここ最近のあらゆる苦難が報われたような満足感を覚え、しかしそれはあっという間に霧散してしまった。

 死んだ人間と暮らすということは、おそらくこういうことなのだ。


 翌朝、妻はベッドの上からゆっくりゆっくりと立ち上がり、出かけるぼくを見送った。ベッドシーツに人型の染みがついていた。またシーツを買い換えなければと思った。

 妻と一緒のベッドに眠るだけでこんなに金がかかるとは思わなかった。主にシーツやパッド、枕なんかを買い替える金がかかるのだ。防水シートを敷いてはいるが、いずれマットレスやベッド自体にもガタが来るだろう。ぼく自身ににおいが移るから、石鹸やシャンプーの減りも激しい。だが彼女はベッドで眠るべきだ。ぼくの妻なのだから、夫たるぼくの隣で寝るべきなのだ。

 ぼくは午前中の仕事を休み、呪術師に会った。世の中の呪術師を名乗る有象無象のなかで、彼は正真正銘、本物の呪術師だった。少なくとも不慮の事故で死んだ妻の魂を、その死体に呼び戻すことはできた。

「どうですか、奥さんは」

「あまり調子がよくない。生前とまるで違う」

 ぼくがそう言うと、呪術師はげたげたと笑った。「ははは、当たり前でしょう。だって死んでるんだもの」

「もう少し、何とかならないものだろうか」

「あれが限界です。私だけじゃない、世界中の呪術師がそう言うでしょう。少なくとも今のところは」

「でも」

「いいじゃないですか、外側も中身も奥さんには違いあるまい。愛しているんでしょう?」

 ぼくは痛いところを突かれた気がして黙った。呪術師はニヤニヤしながら「しましたか、セックス」とぼくに尋ねた。

「はぁ?」

「しないんですか? 生前はしてたんでしょ?」

「しかし妻の体が」

「好きなひとは体が崩れてきたってしますよ。で、どうです? セックスしました?」

 ぼくは腹を立てて呪術師の店を飛び出した。妻と、ぼくの愛をも侮辱されたように感じた。

 もちろん妻のことは愛している。彼女がどんな姿になっても、それが妻ならば当然だ。

 怒りが顔に残っていたせいだろうか、会社で部下に「どこか痛いところでもあるんですか?」と聞かれてしまった。ぼくは「ちょっと体調が悪くて」と誤魔化した。なにか卑怯な嘘をついた気がしてならなかった。仕事を終えると、駅前のケーキ屋でまたイチゴのタルトを買って帰った。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 妻は今夜も食事の支度をし、ダイニングチェアにひっそりと腰かけていた。掃除までは手が回らないらしく、部屋の中はやや埃っぽい。異臭も籠っている。洗濯物も脱衣籠に入れっぱなしになっていた。

 苔のような色のスープを飲みながら、「きみが好きだよ」と妻に言った。

「ほんとう?」

 妻は首をかしげた。

「本当だよ」

「無理しないで」

「無理なんかしないよ」

 妻はタルトの端っこを少し齧っただけで手を止めてしまった。死んでしまってから、彼女はあまりものを食べなくなった。

 ぼくは席を立つと、妻の左頬に手を添えて彼女の顔をまじまじと見た。頭蓋骨が割れて飛び散った脳の代わりにおがくずを詰め、顔はなんとか目鼻の位置を調整できたと思ったけれど、だんだんずれてきてしまっている。死んでからまだ半年も経たないのにこの調子だ。来年の今頃はどうなっているやら、わかったものじゃない。来年だけじゃない、五年後、十年後、その後はどうなる?

「無理しないで」

 妻が言った。

 ぼくは彼女の唇にキスをした。腐った肉の臭いがした。冷たくて重い体を持ち上げてベッドに運んだ。呪文のように愛してるよと言いながら彼女を抱いている間、妻は愛してるとも無理しないでとも言わず、濁った目で天井を眺めていた。


 翌日は休日だったが、呪術師は店を開けていた。

「妻とセックスをしたよ」

「へぇ」

「それだけかい」

「こっちの台詞ですよ。一体何を報告しにきたんですか。ご自身の愛の強さでも自慢しにきたんですか?」

「いや、あんたがセックスしましたかなんて言うから」

「するかどうかなんて、あなた方の勝手ですよ。私の知ったこっちゃない」

 そう言って呪術師はげたげたと笑い、かと思えばはたと黙って、ぼくの顔をじろりと見た。

「あなたは奥さんを愛しているんでしょう。ならそれでいい。私の鼻をあかしてやろうなどということは考えなくていい」

「そういうわけじゃ」

「ではどういうわけなんです」

「その、あなたがぼくの愛を疑うようなことを言うから、それは誤解だとわかってほしくて」

「へぇ」

 呪術師は、その年齢のよくわからない顔に不愉快な笑みを浮かべた。

「もう帰るよ。邪魔したね」

 店を出ようとするぼくに、呪術師が声をかけてきた。「もうそろそろ奥さんを開放してやんなさいよ」

「どうして?」

「そら、今ほっとしたでしょうが」

 呪術師はぼくを指さして、またげたげたと笑った。

 ぼくはまた腹を立てながら店を出た。妻を愛している。愛しているに決まっている。愛していればこそケーキを買って帰るのだ。常人なら吐き戻してしまうような手料理を食べ、腐りかけた体を抱くことができる。ぼくが妻を愛していないわけがない。

 しかし頭の中には呪術師の笑い声が響き続けた。

(あんたが愛しているのは奥さんじゃなくて、あんた自身のことだよ)

 言われてもいない言葉が、さも聞いたばかりであるかのように頭の中で何度もリフレインした。


「係長、大丈夫ですか?」

 週明け、仕事をしていると部下の女性がぼくに声をかけてきた。

「ああごめん、この間は休んでしまって」

「いいえ。体調が悪いなら無理なさらないでください」

 ふと、香水とは違う女性の体臭が鼻をかすめた。なめらかで柔らかそうな手の指にプラチナの指輪が光っている。健康的なピンク色の爪、血の通った肌の色――

「係長?」

 声をかけられて我に返った。

「いや、何でもない。少しぼうっとしただけだよ」

 そう言い訳しながら、ただ生きているというだけで他の女性に魅力を感じたことを恥じた。ぼくの愛する女性は生涯ひとりと決めたじゃないか。その誓いが守れないなんて、なんとも情けない話だ。

 帰りがけにちょっとしたトラブルが起こり、退社がかなり遅くなった。最寄り駅に着くと、もうケーキ屋はシャッターを下ろしていた。

 早く家に帰らなければ。妻が待っている。死んだはずの妻が家にいることを知っているのはぼくだけだ。ほかに頼れるひとがいないのだから、ぼくがいっしょにいてやらねばならない。ぼくは妻のことを愛している。愛している。愛している。妻さえいれば他にはなにもいらない。だから死んだ妻を蘇らせたりしたんじゃないのか。

 だが足どりはどんどん重くなった。

 やっとのことでたどり着いた家は今日も暗かった。相変わらず墓場のにおいの漂う部屋で、妻はダイニングチェアに腰掛け、鈍重な声で「おかえりなさい」と言った。電灯のスイッチを入れると、テーブルの上にスープボウルが載っていた。いつ作ったものだろうか、見るからに冷め切っていた。

「ごめんなさい。体が動かなくて、これがやっとなの」

「いいよいいよ」

 妻を眺めながら、冷たい泥水のようなスープを飲んだ。平べったいものが入っていると思ったら、剥がれた爪だった。ぼくはなにも言わず、口の中でゆっくりと爪を咀嚼した。

「ちょっと会社でトラブルがあってね。遅くなってごめん」

「気にしないで。お疲れさま」

 妻の笑顔はぎこちないが、生前の面影はちゃんと残っている。まちがいなくぼくの愛した女性だ。

 そういえば最近、妻の写真を撮っていないな、と気づいた。結婚したときちゃんとしたカメラを買ったのに。

「きみの写真を撮っていい?」

 尋ねると、妻は「やめて」と答えた。

「こんな姿を残さないで」

「綺麗だよ」

「嘘ばっかり。もうやめて、わたし死んだの」

 妻は両手で顔を覆った。左手の小指の爪が剥がれていた。

「生きてるときとは違うの。もうケーキなんか買ってこないで。あなたと一緒に寝るのも嫌」

 訴える彼女の口から、ぽたぽたと赤黒い液がもれた。

 ぼくは立ち上がって妻を抱きしめた。妻の口から泣き声のような音が漏れた。わたし死んだの。死なせておいてよ。わたしを愛してるならそうしてよ。

 その声を聞いているうちに、いつのまにかぼくも泣き始めていた。


 翌日、「きみを元の死体に戻そうか」と言うと、妻はひどく喜んだ。

「早く帰ってきてね。いってらっしゃい」

 そう言って珍しくひとりで立ち上がり、玄関までぼくを送ってくれた。

 ぼくは会社をむりやり休んで、呪術師のところに行った。

 店は閉まっていた。シャッターの前にパトカーが何台も停まっており、黄色と黒のテープが張られていた。ぼくはそこら辺にいる野次馬を捕まえて、「何があったんですか?」と尋ねた。

「呪術師が殺されたらしいよ。あのひと、あちこちで恨み買ってたみたいだからねぇ」

 野次馬はそう言った。ブルーシートをかぶせられた担架が、店の中から運び出されてきた。

 ぼくはふらふらとその場を離れた。妻の魂を解き放つ方法を聞くことができなかった。おそらく呪術師なら知っていたに違いない。しかし、いなくなってしまった。いったいどうすればいいんだろう。どの顔さげて妻に会えばいいのだろうか。妻は悲しむだろう。お詫びにケーキを買って帰らなければ。いや、もうケーキなんかいらないと言われたんだった。ぼんやり歩いていると、突然誰かが「あぶない!」と怒鳴った。

 目の前にトラックの鼻先があった。

 気がつくと体が空を舞っていた。ああ轢かれたんだなと理解するくらいの滞空時間を経て、ぼくは頭からアスファルトに落下した。聞いたことのない音がした。頭の中身を道路に擦りつけながら、何メートルか滑ってようやく止まった。

 目の端に自分の足首が映った。おかしな方向に曲がっている。すでに痛みはなく、ああぼくは死ぬんだなという確信が冷たく胸を満たしていた。

 死ぬのか。あの家に妻をひとり残して。ぼくが帰らなければ、あの家を訪れるものはおそらく誰もいない。彼女はあの家でたったひとり、ぼくの帰りを待ちながら、ゆっくりと朽ちていくしかない。いずれ体が朽ち果ててしまったとして、妻の魂は肉体から解放されるのだろうか。ゆくべき場所へ行けるのか、それともダイニングチェアの辺りを漂い続けるのか。

 ぼくは願った。もしもぼくの愛に力があるのなら、ぼくの魂をこの世に留めてくれと強く願った。そうして妻の待つ家に帰らせてくれ。ぼくがこの世に留めようとしたばかりに、妻がひとりぼっちになってしまう。愛している。ぼくの愛は本物だ。この愛に力があるならぼくを幽霊にしてくれ。愛の強さを証明させてくれ。意識が消える。早く。愛よ。呪術師。神様。消

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