番外編3:遠い未来の物語



 天井まである窓から降り注ぐ太陽の光が、白い部屋を燦々さんさんと照らす。こんなに気持ちのいい日は、ゆったりとした二人掛けのソファーに座って熱々の茉莉花まつりか茶を飲むのが一番だ。


 部屋の扉を閉めてしまえば外の慌ただしい足音も話し声も、すべてが遮断されなにも聞こえなくなる。あとは呼ばれるまでゆっくりと読書に耽るのもいいし、疲れたらベッドで眠ってしまってもいい。ここでは一日中好きなことをしても誰にも怒られないうえ、食事は朝昼夕の三食上げ膳据え膳だ。

 

 悠々自適とは、まさにこのことを言うのだろう。あまりにもこの生活が快適すぎて、時々無性に申し訳なくなる時もあるが、まぁ今はこれが仕事なのだからと自分を甘やかせて読みかけの本に視線を落とす。しかし。



葵衣あおいー、入るわよー。着替えと、頼まれてたもの持ってきたわー」



 静寂な時間は、無情にも唐突に終わりを迎えた。

 元気のよいノックとともに病室に入ってきたのは葵衣がよく知る女性――そう、葵衣の母親だった。



「ありがとう、母さん。家事もあるのに度々来て貰ってごめん」

「何言ってるの。悪いと思ってるなら早くよくなって退院してちょうだい」



 父さんも待ってるから、と微笑みながら葵衣の母はいつものように持ってきた着替えと洗濯物の交換を始める。

 葵衣は読んでいた本を置き、忙しそうに動く母を見て微笑んだ。



「大丈夫だよ。リハビリも順調だし、先生もこの調子なら退院も予定より早くなるだろうって」

「本当に? よかった、さすが若いだけあって回復が早いのね」



 あれだけの事故だったのに、と少しだけ表情を曇らせた母を見て、葵衣は目が覚めてから聞かされた詳細を思い出す。



 あの日、交通事故に遭った葵衣はすぐに病院へと運ばれたが、酷い怪我で一時は心停止にまで陥った。だが医師たちの懸命な処置のおかげで一命を取り留め、こうして後遺症もなく目覚めることができた。ただ、それでも一週間は意識不明が続いたそうだ。

 そんな大事故から一ヶ月。まだ完全復帰には時間が必要だが、日に日に動けるようになってきているし、食欲だって随分と出てきた。母に伝えたとおり、回復は順調そのものといってもいいだろう。



「だからさ、俺そろそろ大部屋に移ってもいいよ。ずっと個室だと入院費かかるだろ?」

「あー、それなら心配しなくても大丈夫よ。事故を起こした相手の方がとても誠実な方でね。医療費はいくらかかっても構わないから、最適な環境で治療に専念してくださいって」



 事故の相手とは即ち葵衣を車で轢いた加害者なのだが、今回の事故を心から反省し相応の罪を償うのは勿論のこと、治療にかかる費用も、さらには入院のせいで休学を余儀なくされた場合の学費も、すべて支払うと申し出てくれたという。

 

 

「へぇ、なんか逆に申し訳ないね」

「確かにそうだけど……アンタ、自分を轢いた相手のことよく褒められるわね。普通は怒るところじゃないの?」

「ははっ、まぁそうかもしれないけど、事故をいつまでも恨んでても仕方ないだろ」



 どうやったって過去に戻れるわけでもないのだし、と笑って両肩を竦める。するとすぐさま母の目が驚きの形で見開かれた。



「アンタ本当一体どうしちゃったの。目が覚めてからちょっと変よ」

「変? どこが?」

「だって前のアンタだったら、思いつくぐらいの不平不満連ねてただろうし、それに……」



 言いながら母の視線が、先ほど葵衣が置いた小説へと向かう。



「前は『俺は小説アレルギーだから!』って漫画以外一切読まなかったくせに、今じゃ小説やら専門書やら、なんか小難しい本ばかり読んでるじゃない。あと、そのお茶だって……」



 母の視線が向かったのは、最近葵衣が好んで飲むようになった中国茶だった。以前の葵衣は決まったかのようにジュースばかりで、お茶といえば冷蔵庫に用意された冷たい麦茶ぐらいしか飲まなかった。そして、そもそも猫舌だった。そんな人間が突然熱々の中国茶ばかり求めるようになったとなれば、おかしく思うのも無理はない。

 

 

「あー……ほら、事故のせいで受けられなかった試験もあるし、もし来期の授業開始に間に合わなかったら半年休むことになるだろ? そうなったらかなり勉強とかも遅れるから、今のうちから何かしておこうかな、って」



 大学側が事故をどこまで考慮してくれるかは分からないが、通常なら試験を受けられなかった講義の単位は取得できない。休暇も大学の春休みは二ヶ月と長いが、既に一ヶ月を病院で過ごしているし、退院が見えてきたとはいっても四月からの授業に出られるようになるかは、まだ判断がつかないと主治医も言っていた。

 

 

「それと栄養士さんに聞いたけど、冷たいものより温かいもののほうが身体にいいって。俺も早く退院したいから、自分でできることはしようかなって」

「あら、そうなの? アンタも一応は考えてるのね」

「なんだよ、それ。俺のことめちゃくちゃバカにしてるだろ」



 母親のくせに酷いなぁ、と葵衣は苦笑を浮かべる。が、その笑みの裏では「なんとか納得してくれたか」と小さく安堵していた。

 

 

 ――まぁ、あっちの世界は文字だらけの書物ばかりだったし、飲み物も基本水か茶か酒ばかりだったからなぁ。冷たい飲み物も身体を冷やすから駄目って風潮だったし。

 

 

 そんな世界で二百年以上も生きたのだ、嗜好が変わっても致し方ないだろう。けれど本当のことなんて言えるはずもない葵衣は、ここ最近ずっと母親や主治医、看護師たちから毎日のように「なんか急にジジ臭くなったわね」だの「君と話してると、時々田舎の祖父を思い出すよ」だの「黒川君ってホントに二十歳の学生? どこかに小さなおじいさん隠してない?」だのとからかわれる始末だ。正直解せない。



「まぁ、でも本当によかったわ。後遺症もなにもないのは奇跡って言われてるぐらいだし、神様がいるなら感謝しなきゃね」

「神様、か……」



 母親が何気なく口にした言葉に、葵衣は遠くを見て目を細めた。

 神様には会ったことはないけど、神様みたいにすごい仙人や龍とか鳳凰ほうおうなら見たことはある。いや、ともに過ごしたというべきか。

 

 あの日事故に遭い、瀕死の重傷を負った自分は金龍聖君こんりゅうせいくんの世界に転生した。しかも転生したのは悪辣で有名な、あの蒼翠そうすいにだ。そこで無風と出会い、紆余曲折のすえに結ばれましたなんて言ったら、誰が信じるだろう。



 ――きっと「中国ドラマの見過ぎで、長い夢でもみてたんでしょう」って言われるんだろうな。



 誰も信じはしないだろうが、でも――――あの世界での記憶は、葵衣の中にしっかりと残っている。

 

 

 聖君せいくんとなった無風や二人の子ら、そして孫たちとともに幸せに暮らした記憶もなにもかも、すべて覚えている。あの思い出は決して昏睡状態の時に見た夢なんかではない。

 

 

『蒼翠様』



 目を閉じると、今でもはっきりと耳に蘇る無風の声。真面目過ぎるあの男は、結局最後の最後まで癖を直せなくて、二人きりの時はずっと様付けで呼んでいた。



 ――本当に、幸せだったな……。



 喧嘩も問題も一切起きず、毎日が笑顔ばかりの生涯だった。最期のその瞬間まで無風と手を握り合うことができたし、来世でも必ず結ばれようと約束だってした。

 尊い日々を脳裏に甦らせた葵衣は一瞬笑みを浮かべたが、その口角を静かに元の形に戻す。



 ――無風……。

 

 


 優しくて、温かくて、誰よりも頼もしくて、世界で一番愛おしい男。

 家に帰って録画したドラマを再生すれば、いつでも再会することはできる。けれど、画面の中にいるのは自分が愛する無風ではない。

 蒼翠としての人生に一つだって悔いはなかったけれど、もう二度と無風と会えないのだと思うと寂しくて堪らず、今でも涙が抑えられなくなる。


「っ……」


 不意に思い出してしまったせいか、あっという間に視界が滲んだ。しかしここで泣き始めればまた母に訝しがられると、葵衣は物を探す振りをして顔を横に逸らす。

 その中、母が何かを思い出したかのようにアッと声を上げる。

 

 

「そうそう、伝えるのすっかり忘れてたんだけど、今日アンタにお見舞いの人が来るんだった」

「お見舞い? え、誰?」

「前に話したでしょ、アンタが事故に遭った時に救急車を呼んでくれた子。その子、ずっとアンタのこと気にかけててくれて、体調がよくなったら一度お見舞いに来たいって言ってくれたから、そろそろいいかなと思って連絡したのよ」

「ああ……確かあの日、たまたま近くにいた高校生だっけ?」



 事故当時、葵衣のちょうど後ろにいたその高校生は、事故を目撃するなりすぐに救急車を呼び、倒れた葵衣を安全な場所へと移動させてくれた。そして救急車が到着するまで応急処置をしながら声をかけ続けてくれたようで、葵衣はその子の適切な行動のおかげで大量失血を免れたと、担当医が教えてくれた。

 なんでも一ヶ月前、偶然学校で救命講習を受けたばかりだったらしい。だが、そうであっても土壇場で慌てず動けたその子は大したものだ。



「そうそう、アンタの命の恩人よ。だから来たらアンタからもきちんとお礼してね」

「勿論言うつもりだけど……母さん、なんか妙に色めき立ってない?」

「そりゃそうよ! だってアンタの恩人の子、めちゃくちゃイケメンだったんだから」



 有名なアイドル事務所に所属していてもおかしくないほどなのだと、母は嬉しそうに語る。

 


「へぇ、イケメンね……」

「学校の後に来るって言ってたからもうすぐ来るとは思うんだけど、私、父さんのスーツをクリーニング屋に出しに行かないといけないから、代わりに御礼を伝えておいてくれる?」 



 渡す菓子折りは用意してあるから、と母は慌ただしく洗濯物を鞄に詰める。スーツのクリーニングは高いから、店のタイムサービスに間に合わせたいらしい。さすがは主婦だ。葵衣はクスリと笑いながら母親を見送った。

 そうして再び静寂を取り戻した葵衣は、茉莉花茶を片手に読みかけの本を開く。

 穏やかな時間が流れる病室に控えめなノックが響いたのは、それから三十分ほど経った頃だった。



「はい」


 母が言っていた子が来たようだ。葵衣は来客を迎えるために姿勢を整え、どうぞと声をかける。すると、すぐにドア越しに失礼しますと聞き覚えのある懐かしい声が葵衣の耳に届いた。

 この声は。

 思わず目を見開いた葵衣の前で、ゆっくりと部屋の扉が開かれる。



「え……」



 視界に入ると同時に葵衣の目を引いたのは、雄々しくも雅な流し目が特徴的な端整な顔だった。まだ幾分か幼さの色が残ってはいるが、こちらに向けられた微笑みには、一目で鼓動が高鳴るほどの極上の甘さがしっかりと備わっている。

 

 

 目が合った瞬間、まるで時間が止まったかのように葵衣の世界から音が消えた。



 まさか、そんなことがあるわけがない。

 目の前にいるのは今初めて会ったばかりの人間で面識なんてないはず。

 なのに、なのにどうしてこんなにも涙が溢れてくるのだろう。

 

 

 夢遊病患者みたいに身体が勝手に動き、ソファーから立ち上がる。だがすぐに怪我を負っている足に痛みが走り、葵衣はその場で体勢を崩してしまった。



「危ないっ!」



 激しく揺れる世界の中で、慌てた声と駆ける足音が聞こえる。

 直後、転びそうになった身体が長い腕に抱えられた。



「大丈夫ですかっ?」



 一気に近くなった声はやはり愛した男の声そのもので、葵衣の胸は堪えきれない切なさにギュッと締めつけられた。

 すっかり滲んでしまった視界でそっと見上げる。その時。


 

『蒼翠様』



 窓から降り注ぐ光の中で、はっきり聞こえた。

 葵衣は我慢できず腕を伸ばすと、目の前にある優しい体温を思いきり抱き締めた。

 ふわりと鼻を擽った懐かしい白檀の香りに、溜まっていた雫が零れ落ちる。

 

 

 

 それは言うまでもなく、喜びの涙だった。




END


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中国ドラマの最終回で殺されないために必要な15のこと 神雛ジュン@元かびなん @kabina

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