戯れ言

「ふむ、やはり助手の茶は癖があるな。思考中の雑味は雑念を生む、私はニルギリの様なスタンダードな風味であればそれでいいのだが……と、やあ。そろそろ来る頃だと思っていたよ」

「​───────」

「君が以前の君であるならばこんにちは。以前の君でないのならばはじめまして、だな。私はこの万有の書庫のしがない物書きでね。こうして今日も仕事に従事している最中だよ。ああ、ご明察の通り助手に〆切をせっつかれていてね。管理者というものは全く融通が利かないな」

「​───────」

「ほう、何を書いているのか気になるか。そうだな、私の見る世界の全てを。と言ったら抽象的すぎるだろうか。事実そのままその意味で違えはないのだが。はは、そうか。確かに〝見方〟によっては不十分な逃げであるかもしれないな」

「​───────」

「だがどうだろう。その〝見方〟は本当にであるのだろうか。他者の受け売りを鵜呑みにしただけの思考の形成は存外に役立つものではあるが、形式に囚われた思考は正解を違える事もしばしばあるものだ。そして当人がその間違いに気付くことは終ぞ無い」

「​───────」

「ああ勿論だとも。君を責めているわけではない。以前に話したのが君であるのかは定かでは無いが、ある同じ事柄を観測した者が複数居るとして、それを記したとして。全く同じものが出来上がる可能性は限り無く低いのさ。視点の違いであって、それはその者がその者であるという証左でもある。〝側面からの視点〟として、のものだがね」

「​───────」

「ふむ。今は私も時間がある。君にも時間があるのであれば話し相手になってはくれないか。確か此処に……ああ、在った」

「​───────」

「ん? なんだ、何か言いたい事があるのか? まあ兎に角、だ。話を続けよう。これはとある〝正しさを貫いた者〟の話だ」

「​───────」

「その者は誠実であり、正義感に溢れていた。正しさを体現した名を持ち、その名に恥じぬ生き様であった。そうだな、仮にAとでも呼ぼうか。だがある時から、Aとは思想も行動も何もかもが相反する存在、所謂絶対的な〝悪〟と対峙する事になる。こちらはターン・A。長いな。∀とでもしようか」

「​───────」

「∀は息を吸う様に人を傷付け、生命を奪う行為も厭わなかった。世間一般にまかり通る倫理観や道徳と言った常識が∀には無かったのだ。ああ、当然そんな蛮行をAが許す筈も無く、Aは∀を捕まえようと奔走する。が、Aはどう足掻いても必ず∀の後手に回ってしまうのだ」

「​───────」

「何故か。Aは正義を成す者だからだ。火の無い所に煙は立たぬとは善く言ったものだが、つまりは〝火元を確認しないと正義を成せない〟のさ。∀の煙を追い、∀の行動を未然に防ごうとしても、そこに火が着いているとは限らない。気付けば別の場所が燃え上がり、そこに辿り着く頃には全てが為された後。そうして遅れてやってきたAに∀は問うのさ。〝成せない正義〟は〝正義〟であるのか、とね」

「​───────」

「そうだな、君の言いたい事もわかる。だが我々はAでもなければ∀でもない。もう既に過ぎた、或いはこれから起こるとも知れない側面を覗いているだけの存在だよ。此方の声が彼方に届くことは無く、その逆も然り。だ」

「​───────」

「では側面ついでに、∀の側面も覗いてみるとしようか。∀は愛を知らぬ者だった。幼少期から両親の虐待、同級生からの凄惨な虐めを一身に受け、何度も自殺を図るもそれを未然に防がれてきた。生きているだけ責め苦を受け続け、度を過ぎる間際に一時の救いを、〝正義〟を押し付けられる。どちらかだけであれば、どれ程善かった事だろうか。その繰り返しの日々が∀の精神をゆっくりと、深々と蝕んでいった」

「​───────」

「決定的であったのは、∀が成人するまで生きてしまった事だろう。絶望の日々を過ごした∀にとっての〝正義〟は、自らの経験則から成る〝他者に害を加える者の排除〟。成人し、自由に行動を起こせる様になった∀は直ぐに自身の〝正義〟を成し遂げた。世間一般には犯罪者と呼ばれる者達を、∀は法に裁かれる前に殺していったのさ」

「​───────」

「そうだな。時代が違えば義賊とも呼べるかも知れない。だが法治国家の現代に於いて、無法行為どころか殺人を犯すなど、それこそ自殺行為となる筈だ。ああ、その通りさ。∀は自身が防がれ続けた〝死〟という〝救い〟を他者に与えるという、自殺行為を続けていたにすぎない。だがその行為に感謝する者も少なからず存在していて、∀は知ってしまっていたのさ」

「​───────」

「それを踏まえて、だ。∀の問いを今一度考えてみよう。己の正義を成した∀と、己の正義を成せないA。さて、〝正しさを貫いた者〟はどちらだろうか」

「​───────」

「ううむ、君はそう思うか。いやあ否定している訳じゃ無いさ。勿論これも言葉遊びで、正解も間違いも無く意味すら無いものだ。その上で私は思う所があってね。うむ、つまりは〝見方〟なのだろうな」

「​───────」

「主観に寄る見方こそ〝正しさ〟の正体なのではないか。という話だ。それは個人による人道に基づく倫理観であり、他者に押し付けられた正義の成れの果てかも知れない。∀の非人道的な行いは許されるものでは無いが、∀の経歴を踏まえると同情の余地もある。その二つの思考にも必ず、個人ではない〝誰か〟の声が聞こえる気がするのさ」

「​───────」

「なんだ、おかしくなった訳では無いぞ。環境が違えば考え方も違う、まさに今の君と私の様にね。ならばその環境というがその者に人道、ないし正義、然らば正しさを押し付けた筈だ。その果てに、その者が思う〝正しさ〟とは一体、どれだけ残っているのだろうね」

「​───────」

「なに、こんなものは堂々巡りさ。この万有の書庫の様に、正義も悪も常に流れ形を変える。大切な事は君が君であると思う事、とこれは前に言ったかな。付け加えて、君が思う事は本当に君の思いであるのか。と」

「​───────」

「目敏いな君は。確かに、正義の反対は正義だとしてしまえば悪の所在が無くなってしまう。そうだな、茶も冷めてしまったし手短に応えよう。あくまで私の正しさによる、悪とは」

「​───────」

「ああ。個人の許せない全てだよ」

「​───────」

「さて。そろそろ本当に仕事に戻らないと助手に茶を淹れられてしまう。偶さか善いフレーズも浮かんできてね、はは、冗談だよ。君には感謝しないといけないな」

「​───────」

「おっと、助手の足音が聴こえてきた。名残惜しいが退散するとしよう。君の世界が此処と同じ朝であるならば、助手の茶の相手でもしてやってくれ。ゆっくり、ゆっくりとな。ああ夜ならば気にせず泊まっていくといいさ。私は仕事に戻るが、此処の灯りは消していこう」

「​───────」

「では朝の君はおはよう、良い一日を。夜の君はおやすみ」


「火元は消した。善い夢を」

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観測者より 〆(シメ) @spiitas

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