デネブとアルタイル

碧原柊

デネブとアルタイル

「夏休みだし星でも見に行こうぜ」

 終業式の三日前、幼馴染の洸介が昼休みにわたしのところまでやってきてそう言った。「なんでだよ」とわたしの横で窓にもたれかかりながらカルピスソーダを飲んでいた透がツッコミを入れる。窓の外には絵の具で塗ったみたいな青空と白い雲が広がっている。洸介は、三時間目の前にわたしからぶんどっていった歴史の教科書を机の上に置いて、夏の空にぴったりのからっとした笑顔でわたしと透を順番に見た。                              

「昔はよく行ったじゃん。ほら、うちの親父が連れてってくれてさ」

 ああ、とわたしは曖昧に頷いた。わたしと透と洸介は、家が近所で幼稚園からの幼馴染だ。小さい頃は、天体観測が趣味の洸介のお父さんが星を見にわたしたち三人を連れて行ってくれた。いつでも家に望遠鏡がある洸介が羨ましくなって、誕生日にねだって買ってもらった初心者用の望遠鏡はいまでもわたしの部屋の一角を陣取っている。初心者用とはいっても、たまに趣味で夜空を眺める程度であればじゅうぶんだ。高校受験で煮詰まっていたときは、部屋のベランダから星を見て気持ちを落ち着かせた。

「行くったって洸介は部活で忙しいんじゃねえの」

「さすがに夜までやってねえよ。まあお前らほど暇なわけじゃねえけど」

「あ、ひどい。あたしだってちゃんと課題あるんだから」

「俺だってライブに向けてやってるっつーの」

 わたしと透は次々に洸介に対して不満を口にした。とはいっても、わたしは美術部で、透は軽音楽部。わたしたちだってそれなりに課題や目標はあるものの、洸介の言うとおり拘束時間では圧倒的に水泳部に所属している洸介の勝ちだ。日焼けせず白いままのわたしと透に向かって、浅黒く焼けた肌の洸介が「悪い悪い」と笑った。

「てか見るって行ったってどこで見んの」

 透が尋ねると、洸介がまた満面の笑みを浮かべる。

「幼稚園の園庭」

「は? なんでそんなとこで」

 予想もしていなかった答えに、わたしは怪訝な顔で聞き返した。

「実はさー、今週の土曜にうちの父親が幼稚園でやるイベントの手伝い頼まれてさ。夏の大三角を見るってヤツ。んで俺も駆り出されるから、お前らも道連れにしようと思って」

「んだよ! 労働力かよ!」

 と言って透がカルピスソーダの蓋で洸介の頬をぐりぐりとつつく。そういえば、洸介のいちばん下の妹はまだ幼稚園の年長だった。不意にあの小さな園庭が懐かしくなる。

「あたしはいいよ、別に。そしたらうちにあるやつも持ってく? 初心者用のしょぼいやつだけど」

「おー、助かるわ。親父に言っとく。望遠鏡は車で持っていくらしいから、暁菜と透もいっしょに乗ってくか?」

「んーん、望遠鏡だけお願いしようかな。透、いっしょに歩いていこ」

 わたしが言うと、透が「りょ」と短く返事をした。幼稚園での天体観測会は今度の土曜日の二十時からだというので、 セッティングの手伝いも考えて午後七時半に幼稚園に集合することに決める。洸介が自分のクラスに戻っていくと、透も自分の席に戻った。自分のクラスにだって友達がたくさんいるくせに、洸介は週に一度か二度は必ずこんなふうにわたしと透のいるクラスにやってくる。どこの高校にするか悩んだわりに、結局三人とも同じ学校に進み、幼稚園から続いているわたしたちの腐れ縁は、なんの変化もなく高校生になっても続いている。まるでいつまでも夏の夜空に三角形を描き続ける星たちのように。


 五時間目が始まるチャイムが鳴ったがまだ先生が来る様子はなく、夏休みを目前にした教室の中はわかりやすく浮かれていた。わたしのひとつ前の席に座っている立花さんが、くるっと振り返って話しかけてくる。

「ねえねえ、町野くんと相沢くんと園田さんって仲良いよね。もしかしてどっちかと付き合ってたりする?」

 町野というのは洸介の名字で、相沢は透の名字。そして園田がわたし。立花さんに聞かれたことは中学生の頃から繰り返し聞かれてきた質問だ。男二人と女一人の友情なんて続くわけがないと思われているのかもしれない。だが残念ながら、わたしたちは友達としてこの関係を保ち続けている。

「まさか。家が近所の幼馴染ってだけだよ」

 とわたしは苦笑いを浮かべながら答えた。そうなんだあ、と彼女は残念そうな表情を浮かべた。わたしたちを取り巻くこの狭い世界の中では、誰と誰が付き合ったとか別れたとかそんな噂が毎日のように飛び交っているので、その噂の中にわたしと洸介と透もいるのかもしれないなと思う。だからといってどうというわけでもないのだが、あいにく友達という事実以上に提供できるネタはない。ガラガラと扉が開いて古文の先生が入ってくるのと同時に、立花さんは前を向いた。


 水泳部で人あたりの良い洸介は、昔から友達が多く女子にも人気がある。何人か彼女がいた時期もあるが、たしかどの子もあまり長続きせずに別れたはずだ。透はちょっと近寄りがたい雰囲気があって、軽音楽部でチャラいと思われているのか(実際制服も着崩していてチャラそうに見える)、誰とでも仲良くするようなタイプではない。わたしが知る範囲では誰かと付き合っていたということもない。そんな二人とずっと親友というのが気に入らないのか、何度か嫌味を言われた経験もある。でも二人と距離を置こうとは思わなかった。誰かに言われたことで洸介や透との関係を変えるのが嫌だった。

 先生の目を盗んでスマホで天気予報を見ると、土曜日は降水確率0%で気温も高くなる予報が出ている。今日みたいによく晴れて雲が少ない日なら星がよく見えるだろう。晴れるといいな、と思いながらわたしは古文の教科書に視線を移動させた。


 天気予報どおり、土曜日は快晴であまり雲のない夜だった。日中かなり蒸し暑かったせいで、日が落ちても熱気がこもっている。洸介のお父さんの車にわたしの望遠鏡を積み込んでいると、透が家から出てくるのが見えた。同じくらいの時期に建てられたこの住宅地でわたしたちは出会い、いっしょに育ってきた。こちらに寄ってきた透が「こんばんはっす」と軽い挨拶とともに頭を下げる。

「暁菜ちゃんも透くんも悪いね、手伝ってもらっちゃって」

 すまなそうに頭を下げる洸介のお父さんに向かって、わたしは「いえいえ、気にしないでください」と頭を横に振った。

「乗ってかなくて大丈夫かい?」

「透といっしょに歩いていくんで大丈夫です。すぐそこだし」

「そうかい? じゃあ気をつけて来るんだよ」

 はい、と頷き、透と並んで幼稚園に向かって歩き出す。本当は乗っていっても良かったのだが、なんとなく歩きたい気分だった。

 三人でいると自然なのに、透と二人だとなにを話したらいいのかわからなくなる。小学生の頃はそんなんじゃなく、思い浮かんだことをそのまま口にできていたのに。わたしたちはもうとっくに自然な三角形ではなくなっているような気がする。

 透も同じなのか、しばらく無言で歩いたあと当たり障りのない話題を話し始めた。

「今日暑かったなー。てか課題だるいわ。美術部は夏休み部活あんの?」

「一応、課題の中間チェックみたいなのはあるけどそれだけ」

 そっか、と透が相槌を打ってまた無言になる。わたしは思いきって切り出した。

「ねえ、透って好きな人いるの?」

 透の顔が一瞬強張ったのをわたしは見逃さなかった。透は「そんなんいねえし」とわたしの言葉をすぐに否定した。長くいっしょにいすぎたせいで、透が嘘をついていることにも簡単に気がついてしまう。わたしは胸がぎゅっと痛くなるのを我慢しながら、透と同じように「そっか」と返した。

「てかそういう暁菜はいんのかよ、好きなヤツ」

「教えない」

「なんだよそれ。ずりぃな」

「あたしのことはいいの」

 不満げに口を尖らせる透をはぐらかす。するとまた少し黙ったあと、透が口を開いた。

「暁菜はさ、洸介と付き合えばいいのに。お前と洸介ならお似合いだと思うよ」

 さっきよりももっと胸が痛くなる。誰かが思いきりわたしの心臓を握りつぶそうとしているみたいだ。いまにも泣き出してしまいそうだったけれど、唇をきつく噛んでなんとかこらえた。

「洸介とあたしとか、ないって。小さい頃からいっしょなのに」

「小さい頃からいっしょでも好きになることはあるだろ」

 たしかに透の言うとおりだ。どんなに昔からいっしょにいてまるできょうだいのように育っていたって、好きになるときはなる。そういうものだ。

「それはそうかもしれないけど」

「お前らならきっと親も喜ぶよ」

 親が喜ぶっていうならわたしと透だって同じ条件じゃん、という言葉が口からこぼれそうになった。もしもそんなことを言ってしまったら、透はきっとわたしから離れてしまうだろう。どんなに透を好きでも、この気持ちが報われる日は永遠に来ない。だからわたしは誰にも言わず、洸介と透が望む限り、親友という関係を続けていこうと決めている。

「親とかそういう問題じゃないってー。なに言ってんの、透」

 あはは、と笑ってわたしはごまかした。涙目になっていることに気づかれたくなくて、わたしは小走りで幼稚園に向かって駆け出した。園庭に立つ大きな時計が目に入る。門の横に洸介のお父さんの車が止まっていて、洸介がわたしの望遠鏡を車から下ろしていた。わたしから少し遅れて透がやってくる。

「なに、お前ら走ってきたの」

 走ってきたわたしたちを見て、洸介が顔をくしゃくしゃにして笑う。「よし、俺といっしょに筋トレするか」という洸介の提案は、二人揃って「ぜったいに嫌」と即座に拒否した。


 幼稚園の園庭に入ると、園長先生がわたしたちを見て「三人ともすっかり大きくなって!」と驚いた声をあげた。昔よりも園庭がずいぶん小さくなったように感じる。というのは、きっとわたしたちが成長したせいだ。

 いちばん立派な望遠鏡を洸介のお父さんがセットして、中くらいのものを洸介、わたしが持っているような初心者向けのものを透、わたしは自分の望遠鏡をセッティングする。そのあいだに園児、つまりわたしたちの小さな後輩が次々にやってきた。

 「まだ触っちゃだめだからね」と先生たちが子どもたちと付き添いの親を順番に並ばせる。大人に言わせればわたしたちもまだまだ子どもなのだろうが、身長や体重といった意味での成長期はもうほとんど終わっている。自分とは比較にならないほど小さな子たちを見ていると、自然と頬が緩んだ。

 園児がだいたい集まったところで園長先生の挨拶が始まり、洸介のお父さんから順番にわたしたちも紹介された。夏の夜空は昔から何度も見てきたので、星座の早見表がなくてもどこにどんな星が見えるのかだいたいわかる。

 夏の大三角は、今の時期なら東の空、夜八時から十時くらいの時間によく見える。東の空でいちばん明るいのがこと座のベガ、ベガから右下に下りていった先にあるのがわし座のアルタイル、アルタイルからだいたいまっすぐ左にいったところにはくちょう座のデネブがある。この三つを結んでできる三角形が夏の大三角と呼ばれている。

 望遠鏡でも見えるが、このくらい明るい星であれば肉眼でじゅうぶん見える。あそこが三角形になっているんだよ、と教えてから望遠鏡で星を見せてあげると、子どもたちがわあっと喜んだ。同じくらいの年齢のとき、洸介のお父さんに同じように夏の夜空に輝く星たちを教えてもらって、三人で興奮したことを思い出した。あのときはまだ恋なんて知らなかったのに、いつの間にか透を好きになってしまっていた。


 隣にいる透を見る。透はわたしのことでも星座でもなく、夏の大三角を子どもたちに教える洸介の横顔を見つめていた。ずっと昔から、透をずっと見てきたからわかる。透の好きな人は洸介なのだ。洸介が誰かに告白されて、付き合って、別れるのを透はいちばん近くで見てきた。これから先もずっと、透はそうやって洸介が自分ではない誰かと付き合うのを見ていくのだろうか。でもわたしは、そんなふうに洸介を見る透の顔がどうしようもなく好きなのだ。

 眩しく輝く、自分にとってただひとつだけの星を見る透の顔。せつなげに目を細めるその横顔。わたしはそれを隣で見てきて、その顔をわたしに向けてほしいと思ってしまった。

 透は洸介への気持ちを誰にも言わず、ひとりで抱えていくに違いない。わたしたちはいつまでこの三角形を保っていられるのだろうか。洸介がわたしたちのほうを振り向いて「きれいだな!」と笑った。「そうだな」と応えた透の顔がなんだか泣きそうに見えた。

 

 夏の大三角が三角形に見えるのは、たまたまわたしたちがいる場所がそう見える位置にあるだけだ。地球ではない、どこか違う場所から見れば、ベガとアルタイルとデネブは全然違うものに見えるのだと思う。

 わたしたちの関係も、洸介から見ればきれいな三角形かもしれないけれど、わたしから見えているものも透から見えているものも違う。三角形の中でいちばん明るい、ベガみたいな洸介だけを見ている透は、わたしの気持ちにはきっと気づかない。でもそれでいい、洸介にも透にも、他の誰にも言うつもりはない。だからいまはもう少しだけこのままでいたいと願う。

 東の空を見上げる。ぴかぴかと光り輝く星たちが、美しい三角形を描いていた。

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デネブとアルタイル 碧原柊 @shu_aohara

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