空夜終夜

深川夏眠

空夜終夜(くうやよもすがら)



 は仰向けに寝そべって天井を見上げた。慣れない浴衣がゴワゴワして厭わしい。閉じ込められたのは多分、葛城かつらぎ家の。板張りの壁に囲まれた部屋で無為に過ごすうち、怒りや嘆きを放つ気力が萎えてきた。天窓だけが唯一、と我が身を繋ぐかすがいなのだが、空の色と雲の動きしか把握できない。家具は温泉旅館の客室にあるような低いベッドが一つだけ。水回りは階下で、上りはまだしも下るときが恐ろしい、手摺りのないスケルトン階段を慎重に踏み締めねばならない。無闇に駆け回ったり逃げ出す策を講じたりするのを防ぐ狙いがあるのだろう。

 無人駅のホームに茫然と立ち尽くしたのは昨日だったか一昨日だったか。無数の鳥と蝉の声、うなだれる向日葵ひまわりの群れ。とてつもなく寂れた場所に降り立ったのだと実感し、いっそ無断で折り返しの列車に飛び乗ってしまおうかと考えたが、次の上り電車は数時間先まで来ないとわかって意気消沈した。夏休みで、どうせ暇だから、友達とは些細な言い合いで気まずくなって連絡を取りづらくなってしまったから、離婚が成立するや否や母は新しい恋人とどこかへ行ってしまったから……ずっと疎遠だった父の実家で暮らすのもやむなしと同意はしたが、本当は嫌だったのだ、駅前にコンビニエンスストアさえない過疎地に引き籠もるなど。しかも、肝心の父親は出張のために同道しないときた。

 迎えはパステルピンクの軽自動車で、降りてきた三十歳くらいの女性は分家の嫁だと自己紹介した。朗らかで親切そうな彼女に美宝は好感をいだいた。しかし、旧弊なフレーズがザラッとした不快さを耳に残した。荷物は既に本家に届いているという。本家、分家……。母が父の親戚との付き合いを疎み、なおざりにしていた原因を垣間見た気がした。

 ここを過ぎたら何もないから必要な物を買っておくといい――と、車が停まった。菓子や文具が並んだ小さな商店だった。というのか。女将さんが冷水筒を傾けてグラスにお茶を注いでくれた。とろみのある若草色だった。桑の葉茶だと教わり、口をつけた。青葉の匂いと薄い甘みを感じた後、急激に不自然な眠気が襲ってきた。助手席に戻り、道々、朦朧としながら説明を聞いた。地域全体は単なる田舎で気さくな善人ばかりだから誤解しないでもらいたい、ただ、葛城の本家は独特で、お盆の前後に変わった行事があり、十代で未婚の女子が必要なので……。

 意識を取り戻すと浴衣を着てベッドに横たわっていた。フローリングだが床の間とおぼしいスペースがあり、申し訳程度にあがなった雑貨が袋ごと置かれていた。だが、肝心な貴重品の入ったバッグが見当たらないし、迎えの女性が確認したと告げた宅配便のダンボールも所在不明だった。

 関係者総出でたばかったのだ。親類とはいえ、犯罪ではないか。ゾワッと皮膚に粟が生じた。が、おぞったためばかりではなかった。冷房が効き過ぎているのだ。床脇の違い棚に空調のリモコンがあった。

「変なの」

 ちぐはぐさにはなじろんだ。掛け軸の絵は幽霊、宙に浮いた花入れから垂れ下がる草花は、どうやら浴衣の柄と同じ。

「葛城のクズってか」

 嘆息して梯子を下りた。窓がないのでフットライト代わりの間接照明が階段下のスペースに鎮座し、淡い光を投げている。足の裏に塗装されていない木材の毛羽立ちを感じた。下の階にはホテルで見たことのある簡易キッチンと二点セパレートと呼ばれる設備があった。バス・トイレ別だが、便座のある側に洗面台が付いている形式だ。居室や宛がわれた着衣とのミスマッチぶりに改めて啞然としながら、もしかすると、建物はテラスハウスようの造りで向こうに他の滞在者がいるのかもしれないと、試しに壁をコツコツ叩いてみたが、反応はなかった。

 クリプトン電球がポツポツ点るだけの仄暗く細い廊下の奥に小さな扉があった。期待を込めて駆け寄ると、ドアは人を小馬鹿にしたようにスッと開いた。現れたのは藍染めの作務衣を纏った長身瘦躯の青年で、鋭い眼光でと美宝を見据えた。

「あ、あの、あたし……」

「上に戻って」

「誰かと話をさせてください。……本家の人と」

 彼は目色で不承知の意志を表し、少しの間、背を向けて施錠の操作をした。漆黒の長い束ね髪が軽く揺れた。棒立ちの美宝に冷たい一瞥をくれ、を進める。ほねぼそな印象の割りに、ふっくらした真白いあうらの、くっきりと陰翳を刻む土踏まずに、美宝は清潔な色気を感じた。男性の顔以外のパーツに魅せられたのは初めてだった。

 不承不承、部屋に帰ると、ただの壁だと思っていた一角が刳り抜いたように開かれ、液晶モニターが出現していた。年季の入った、褪せた映像が古老の昔語りを開陳する。葛城家の来歴と祭りの謂われを学習しろというつもりか。

 突っ立ったまま、ノイズ混じりの音声に耳を傾けながら青年の所作に見入った。しきに抹茶茶碗と菓子皿。いつの間にか差し出された座布団の上で、美宝は居心地悪く身を竦め、作法について聞き齧った覚えはあるが、敢えて無視しようと決めた。家風にそぐわない、がさつな小娘だとアピールして早々に放免してもらう腹積もりだった。だが、

「ご理解いただけましたかね」

 青年は背筋をピッと伸ばし、割り膝の上に拳を載せて問いかけてきた。美宝は無造作を装い、添えられたくろには触れず、トウモロコシをかたどった練り切りを手掴みでヒョイと口に放り込んでかぶりを振った。彼は動じる気色もなく、

「あなたは葛城家のいちもん屋敷神をもてなす祭儀の巫女です」

「初耳」

「現状、他に適任者がいないので」

「だからって、拉致監禁だなんて――」

「お怒りはごもっとも。訴えたければ祭りの後にどうぞ。一部始終、記憶していられたら、ですけど」

 美宝は得体の知れない悪寒に襲われた。

「離れはおうの字型に造られていて、窪みの位置に祠があります。葛の蔓に取り巻かれて普段は定かに見えないほどですが、儀式のときだけ刈り取ってしろの姿を明らかにします」

 抑揚を感じない淡々とした口調が睡魔となって襲いかかった。ガクッと前のめりに頭が下がった。一人娘を平然と人身御供に差し出した父親を呪いながら、美宝は眠りに落ちた。

 気がつくとに横たわっていた。青年の姿はなかった。モニターの電源が入ったままでブルースクリーンになっていた。対処の仕方がわからない……と、まごまごしていたら、動画の再生に戻った。分家の嫁と名乗った女性が自宅で撮影したらしい。彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げ、

「私は葛城けいといいます」

 小さなスケッチブックに名を書き込んだ。

「ごめんなさいね。こんな方法でしか、お伝えできなくて。祭りが終わるまで、本家の人間以外は直接あなたに話しかけてはいけないの。は唯一の例外。あなたはきっと不審がっているでしょうから、その点だけ。名前はつたもりいちろう君」

 絅子は画帳のページを捲り、彼の氏名を明かした。

「葛城家からよそへ嫁いだ女性の義理の息子。旦那さんの連れ子、ね。だから、彼とあなたに血の繋がりはないし、元来、彼が本家の都合に支配されるはずはなかったのに……医大に在学中、友人間のトラブルに巻き込まれて退学を余儀なくされ……嫌な言い方だけど、本家が介入して、お金の力で解決したとか。医師になりそびれた彼は捨て鉢になって、指図されるまま、今の身分に……」

 不意に投げかけられた痛ましい話に、美宝はとまどった。

「祭りの準備から本番までは巫女の介添え。だけど、それ以外の期間は雑用係。本家の面々は彼を顎で使ってるわ」

 そんな理不尽な扱いが許されるのか。というより、どうして逃げ出さないのだろう。

「彼の内心を推し量るのは難しい。元々、頭のいい人なんで、どこかで反転攻勢に出る心算かもしれないけれど……。進路を断たれ、交際していた女性との仲も引き裂かれて、自暴自棄になったとも考えられる。その、医大時代の騒動というのが、いわゆる刃傷沙汰で……自ら大成する資格を失った、とでもいうか……だから、ひょっとして、現在の境遇に甘んじていることには自罰の意味があるのかもしれない」

 本家の連中は、彼のそんな性情や心境に付け入ったに違いない。悪辣だ。美宝は胸の奥に怒りの火が点り、見る間にメラメラ燃え盛るのを感じた。

 家族なのか、動画の端で誰かが絅子に呼びかけた。彼女はそちらに軽く返事して、カメラに向き直った。

「とにかく、彼は怪しい人物じゃないっていうのをわかってほしくて。気になることがあったら遠慮しないで言ってみて。きちんと対応してくれるはずだから。それじゃあ」

 モニターが再び青褪めた。美宝は端座し、考えを巡らせた。足りないものを調達してもらいたかった。音楽、漫画、アロマ等々……。しかし、ザックリとではあるが彼のいきさつを知って、あれこれ要求したい気持ちが萎んでいった。他方、まだまともに顔を合わせてもいない本家の一団とやらを、例えば一人一人の独立した人間たちではなく、葛城家と名乗るゲル状の邪悪な集合体のようなイメージとして捉え始めていた。

 素足が階段を踏み締めるのが聞こえた。一稜だった。彼は箱膳を捧げていた。もうそんな時分かと、美宝は天窓を見上げた。四角く区切られた空はこんじょう。視線を戻すと夕餉の支度ができていた。一見して精進料理とわかった。

「いただきます、

 眉がピクリと動いた。美宝は澄まして椀の蓋を取った。茸と油揚げの味噌汁だった。ご飯は枝豆の炊き込み。

「もち米入ってる? あ、敬語やめようね、イチロウくん」

 空腹ではなかったが、美宝は食欲を奮い立たせて箸を動かした。五色あられを衣にした天ぷらは茄子、グリーンアスパラガス、湯葉……。

 ふと目が合うと、一稜はごく微かな笑みを浮かべ、

「なかなか図太そうで何より」

 嫌味ではなく、心から安堵した様子だった。美宝は青もみじ麩の含め煮を頬張りつつ、

は違ったの?」

 一稜は小さく頷き、

「泣くは喚くは、挙げ句、ほうけるは。そりゃ普通そうだろう」

「ヒトを珍獣扱いしないでよね」

「恐るべき胆力だな」

 美宝は木の匙で胡麻豆腐を掬って、

「だって……逃げ出したところで帰る家なんて、ないんだもん」

「ごもっとも」

 さっきの絅子の話では、彼にはきちんとした両親が揃っている風だったが、あるいはの結果、敷居が高くなってしまったのか。

「ごちそうさまでした。おいしかった」

「お粗末さま」

 一稜は温かい麦茶を注いで膳を片づけた。彼が階段を下りる音を聞きながら、美宝はこの町に着いてから飲み物を与えられるたびに人事不省に陥っていると思い返した。眠りたくなかった。もっと語らいたかった。が、自分を就眠させるのが彼の務めなら、従うべきだと腹を括った。

 シャワーを浴び、新しい浴衣に着替えた。またしても葛の花の模様だった。案に相違して、なかなか寝付けなかった。退屈凌ぎに掛け布団の外に脚を投げ上げた。ペディキュアが、ところどころ剝げている。祭りの際の履き物は下駄か草履か。それとも裸足で祠へ向かうのか。いずれにしても整えておかなければ。誰が見ていようといまいと関係ない。これはというものだ。赤いマニキュアがいい。唐紅からくれないしょうじょうおもいいろ……。一稜の手で丁寧に塗ってもらいたい。くすぐったいのを我慢して身悶えするのもオツだ。袖を噛み締め、声を立てないようにグッと堪えて――。

 ようやくヒュプノスが迎えにやって来た。乙女の世話を焼くに当たって劣情を催さぬよう、自身に禁欲を課すことが彼に与えられた罰だと耳打ちされた。


 目覚めてふと気づいた。放置した買い物袋の横に古びた和綴じの冊子。寝ている間に一稜が置いていったのか。パラパラ捲ってみた。とても読めたものではないが、昨晩観た記録映像と重ね合わせて何となく内容を把握した。クライマックスは盛大な火焔の乱舞。彼が進んで身を捧げ、生贄となる。あたしは焼け爛れた彼を貪り食って、居並ぶ人々の度肝を抜く。炎は徐々にあたしを包んで更に激しく燃え上がり、二人が一つの炭となる頃、屋敷も無惨に崩落する……美宝はそんな幻像を脳裏に描いて恍惚とした。


 差し向かいで一服したいと美宝がせがんだので、一稜は二人分の薄茶をてて運んできた。

「今日はだから、潰せる時間はたっぷりある」

「お休みの日があったんだ」

「稀にだけど。さすがに奴隷ではないから。ところで、六曜と天候の兼ね合わせで祭りの日が決まる。その二、三日前に満月が赤く染まるのが望ましいとされている」

「ふぅん。ねえ、ちょっと寒い」

 甘えた声を出すと、一稜は立ち上がってエアコンの温度を調節した。その隙に、美宝は折敷の向きを逆転させた。戻って対座した彼は、何が行われたか瞬時に察した目つきながらも無言だった。二人は優雅な時間を共有した。

 異変が生じたのは彼が茶器を下げた後だった。洗い桶に水を溜めていたはずが、途中で水流の音を断ち割る鈍い振動。美宝は爪先立ちで出来る限り急いで階段を下りた。彼は簡易キッチンの床にうずくまっていた。

「イチロウくん、どうしたの。大丈夫?」

「うん……」

 美宝は水を止め、彼が立ち上がるのを手伝った。よろめく彼を支えて手摺りのない階段を上るのは至難のわざだったが、愉快で堪らなかった。すぐさま横になるよう促した。彼は「うん、うん」と機械的な返事を繰り返すばかりで、美宝が誘導したとおり、和ベッドの上に大の字に寝転んだ。

 やはりを仕込んでいたのだな、と美宝は了解した。不慣れな環境で不条理な目に遭わされる娘になさけをかけたつもりだったか、否が応でも熟睡できるよう、些か乱暴な配慮を示してくれたらしい。

 美宝はそっと寝台に上がって彼に寄り添い、藍染めの胸に耳を当てた。健康的な心音に聴き入りながら、釣られて眠ってしまいそうだった。振り仰ぐと天窓から凝血を思わせる満月が二人を見下ろしていた。残された時間は僅かだ。離れたくない。この関係が秘密のまま炭化してしまえばいい……。

 止めどなく溢れる涙もそのまま、泣き寝入りする刹那、彼の手が静かに動いて美宝の髪を優しく撫でた。



                  【了】



*2022年6月 書き下ろし。

*雰囲気画⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/PNNz4OtN                          

*縦書き版はRomancer『月と吸血鬼の遁走曲フーガ』にて

 無料でお読みいただけます。

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116522&post_type=rmcposts

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