震える舌
嵯峨嶋 掌
申す輿岳(こしだけ)
前方に
……遠くから離れて眺めれば、乗り物の
かつて、その山を、
……その当時から、すでに、喋る山、もの言う山であったと伝わる。やがて、物言う山……〈申す
○
「ひゃあ、まいったまいった……」
山の麓の里の
いつものことである。
そばにいる
つまり、
……じつは先代里長の時代、一つの光明が
それはおそらく
熱水でも温水でもなかった。
熱くもなく、さりとて冷たくもなく、あえて
『こ、これは売れるぞ!』
先代の里長は、高らかに宣言した。
『このようなうまい水を……他郷、他村……いや遠く都にまで売りに行き、わが里の名を高らかしめん』
名物名産がなに一つ無く、
水を売りに行き、里の名を広め、なろうことなら交易と人材交流へと
さっそく、
ところが。
……この先代里長の
それには理由がある。
さまざまな
『じゃ、この里の美しい
先代里長が思いついた新たな作戦によって、里の若い
「おいしい水です、一口のめば、極楽ごくらく……」
と、声を張り上げ、胸元をほんの少しばかりチラリと見せながら売り続けた。都の濁った水とは大いに異なり、
さらに、まずいことが起こった。
一度、都へ足を踏み入れた
大通りで娘らを
『
ことの
やがて里人らの
いまの里長が……三十三歳の頃である。
先代里長はお山の麓に手厚く葬られた。
その山は……いつしか、里人たちの間で、
〈もう少し
と、呼ばれるようになった。先代の
それだけではなく、形状がどこから見ても山らしくないお山に対する怨みつらみというものもほんの少しは含まれていたにちがいあるまい。
『……もう少しだけ、てっぺんがキリッとしておれば、本当の山らしいのに……』とは、亡き里長の口癖であったはずである。
それはそれとして、新たな里長のもとに新たな課題が出現した。
文字どおり、それは出現という表現しか適さない出来事であった。
先代のとき、都に居着いてしまった娘たちの
いや、官警に追われてきた……といったほうがより正確であったろうか。
その若者……は、まだ十五、六の歳であった。
里の
・・・・・事情? ふん、笑わせるなっ。そんなもんないぞ。おれは、五年前、
ざっと話を聴いた里人たちは、すぐさま、この里で生まれた娘が先代里長の計画で都で水を売らされていたことを、昨日のごとく思い出した。
だれもかれも
ところが。
十日ほどは薪割りや芝刈りを黙々と手伝っていたこの若者の姿が
「よし、
里長の怒声には小枝を揺るがすほどの憤りのほかに、ほんの少しだけ哀しみの
翌朝には若者は後ろ手に縛られ、この里固有の
すなわち、お山、いや、いまはもう少し岳の中腹の樹林のなかで、もっとも長寿の大木にくくりつけられた。おそらく、
あたりには独特のにおいが
腐臭でもなく
どこかしら
百年ともう少しだけ前の時代まで、年祭の一つとして続けられてきた生き物を捧げ
神木の
異変は……その
月はない。
……里長は夢をみていた。
もう少し岳が呼んでいた。
岳があたかも背中についた虫を追い払うがごとくにくねくねと本体を
さらにさらに耳を近づけた。
『もう少しだけ……この名を変えてくれぇ』
そう聴こえた。
『“もう少し岳”? そんなヘンな名は
確かに岳はそのように言っていた、言っておられた……。
ハッとして、そのとき、里長は目が覚めた。
慌てて里長は立ち上がり、
「どうしたというのだ? こんな
「里長、聴こえませんか? もう少し岳が、ぼそぼそひそひそ、何事かを喋っていますぞ」
「おお、夢ではなかったのか?」
「里長、しっかりなさってください。わたしらも最初は夢だと思ったのです。でも、皆の衆も同じように聴こえます。それにしても、なんという
「うん、まことに」と、里長も
……いや誰も本当に岳が喋っているなどとは思ってはいないのだった。
たぶん、神木に縛ったあの若者が怨みつらみを吐き出しているのであろう。ところが、その声が、その響きが、そのこだまが……聴く者の
「ひゃあ、そうか!」
突然、里長は叫んだ。
叫ばずにはいられなかった。
「やはり、あの夢は、お告げだったのかぁ!」
一体、なにごとかと里人たちは里長の
「いや、決まった、つかんだ、
「里長、里長、そのように
その
おもむろに里長は咳払いすると、この里の百年の
すなわち、もう少し岳をこの里の重要なる観光資源として位置づけ、岳の名をさらに改め、しかも、世にも珍しい喋る山として、大々的に売り出すべし……と、里長は言った。
「ええっ? 再び、岳の名を変えるのですか?」
そこが里人には
「そうだ。夢で、いまの名は大嫌いだ、と、かように仰せであった……」
「・・・・・・・・?」(一同)
「それに、広く
すると、里長の娘が突然、へんな声で叫びはじめた。まるで、大きな問題を即座に解決してくれるような、そんな声であった。
「申す…
「ん、もう少し
「申す……輿岳」
里長の娘は同じことを繰り返すだけだ。
「あ、わかった、わかっぞ」
叫んだ里人の一人は、かつて都へ水を売りに行ったことのある者で、かれは里長の娘が何を言おうとしていたのか、即座に理解した。
「
これを聴いた里長は飛び上がって喜んだ。
「なるほど、名案だ! ただ、あの声だが、もう少しだけ、
そのとき里人たちは、先代の里長の
○
今日もまた……四方から大勢の旅人たち、家族連れ、富貴の者らが〈
すでに都では、〈申す輿岳〉の声を聴いた者には長寿と繁栄がもたらされる……と
しかも、〈申す輿岳〉の声を聴いた者たちは一様に
『……申す輿岳の声を耳にしたとたん、ぶるぶるっと躰がね、ぞくぞくっと躰がね、しゃしゃっと躰がね、こう震えてくるのさ……声に揺らされているような心持ちになるんだ。ん……? いや、申す輿岳が何を喋っていなさるのか、それは、わからない。もう少しだけ、はっきりと喋ってくださりゃいいんだが……。いや……でもな、わからないからこそいいんだと、いまは思うぜ。あの声を耳にするだけで、そりゃあ、これまでのちっぽけな自分を恥じてしまうというか、もっと、あくせくしないで、ゆったりやっていこう……そんな気にさせられたんだ。まるでからだの中の邪気を
もっとも、かれらの中には、里長によって送り込まれた仕掛け人も居たはずなのだが、それにしてもこの評判の熱気というものは、一生に一度は、
〈申す輿岳
をしないとソンするような、そういう独特の熱さ、というものが含まれていたのであった。
しかもその一方で。
里の者らが、屋台を
水を飲んだ百人が百人ともに、うまいと感嘆する。餅や
『ん……? もう少しだけ、うまかったら言うことないのに……』
と、残念がる人もいるにはいるのだが、それでも売り上げはいっこうに落ちない。
ところで。
すでに六十の坂を越えた里長は、いまなおすこぶる健康であった。遠くの里まで出かけていって、依頼された
それに。
講演先の未知の村々で、いかにもいい声を出しそうな体格のいい、しかも素直そうな若者を見つけると、里長はそっと近寄っては、
『一生、飢えないで暮らせるいい方法があるのだが、どうだね、興味はあるかね。若い
と、相手の耳元で意味ありげに囁くのだった。
( 了 )
震える舌 嵯峨嶋 掌 @yume2aliens
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます