初恋は泡沫に消えて
乙島紅
初恋は泡沫に消えて
「初恋だったんだよお……」
ぎらつく日差し。入道雲が堂々とそびえる青空。白い浜辺ではしゃぐ人々の声と、寄せては返すさざ波の音。
夏休み初日。これから夏が始まるというのに、男子高校生三人が囲むテーブルだけは一つ季節が戻ったかのようにじめじめとしていた。
今日は同学年の女子と三対三で海に遊びに来た。つまりは合コン。しかしそのうちの一人、由晴が狙っていた女子につい最近彼氏ができたらしい。それも昨晩、「明日は楽しみだね」なんて微笑ましいメッセージを送り合っていた
颯太は由晴を慰めながらもう一人の女子側の幹事にメッセージを送る。
『知ってた?』
『ううん、全然。ほんとゴメン』
返事はすぐに返ってきた。
だよなあ、と思いつつ颯太は海の家の天井を仰ぐ。
『とりあえず女子もう少しで着替え終わるから、今日は楽しも?』
『りょーかい』
メッセージを送って顔を上げると、腹いせか由晴がもう一人のバンドメンバー・
「そ、颯太の話も聞こうっ! ほら、な?」
「颯太はどうせ
(そうだよ。初恋の話なんて、
内心ほっとしていた。
初恋のことは、あまり聞かれたくないのだ。
まるで夢みたいに曖昧で、一瞬で、それでいて忘れられない。
(彼女はきっと遠くに行ったんだ。約束、守ってくれなかったし……)
チクリと胸を刺す痛み。
初恋は、呪いみたいなもんだな。
そんなことを考えていると、店主がトレーに何かを載せてこちらへやってきた。
「よーう、ガキども! 暇なら新作の試食に付き合えや」
勢い良くテーブルの上に置かれたのは、駄菓子屋も真っ青の人工的な色合いをした炭酸ドリンクだ。
「どうよ! これぞ
「まずそう」
「しかも映えない」
「そもそもこの店で観光客なんて見たことないし」
「うぐっ……」
男子高校生たちの辛辣なコメントに店長は胸を押さえてうずくまる。
「いいもん、新しく入ったバイトの子ならきっと褒めてくれるもん……」
「パワハラだ」
「うるさい。おーい、
返事はなかった。が、厨房の方で何か作業する音が
「あ」
思わず声が出た。
忘れるはずがない。艶やかな金髪に海を映したような藍色の瞳。日焼けなど知らない陶器のような白い肌。七年前と何一つ変わらない面影。
呼吸が速くなる。表情が綻ぶのを隠せない。自分でも興奮しているのが分かる。
彼女の方も気付いたのかもしれない。ほんの少し頰に紅が差した。
だけど、何か言おうとして口を開いたかと思うと、次の瞬間には長いまつ毛を伏せて口を閉ざしてしまった。
(あれ……?)
その時、海の家の入り口の方で賑やかな女子たちの話し声がした。
「お待たせ! 遅くなってごめんね」
振り返ると、着替え終わった女子三人が手を振っていた。
真ん中に立つウェーブがかったショートボブの少女が、莉玖。颯太の彼女で、今日の合コンの共同幹事である。
「うおー! 三人とも水着姿が素敵っすね!!」
「ははは、なぜ敬語だし」
鼻息荒く食いつく由晴。黙って見とれる宏斗。実際、よく似合っている。特に莉玖には持ち前の明るさと向日葵のような黄色とオレンジのデザインがぴったりだった。ちらりと上目遣いで颯太を見つめてくるのがまたいじらしい。どんな水着を着るかは今の今まで内緒にされていたのだ。颯太はグッと親指を立てて率直な感想を伝える。すると莉玖はぱぁっと太陽のような笑顔を浮かべた。
「か〜っ、いいねぇ、青春だねぇ。存分に遊んでいきな!」
店主は気前よく笑うと、他の客に呼ばれてオーダーを取りに行った。憂未と呼ばれた彼女も仕事があるのか厨房へ戻ろうとする。
「あ、あの!」
颯太は反射的に彼女を呼び止めようとした。せめて知りたい。あの時の彼女なのかどうか。
しかし彼女は首を横に振ると、颯太の後ろに視線を向けた。莉玖だ。莉玖本人は何のことかわからずきょとんとしている。
もう一度憂未の方を見ると、彼女はどこか寂しげな笑みを浮かべてくるりと背を向けてしまった。仕事のために後頭部で束ねているポニーテールがゆらゆらと揺れるさまを、颯太はただ眺めていることしかできなかった。
「どうしたの?」
さりげなく腕を組み、尋ねてくる莉玖。
「なんでもないよ」
言えるものか。言えるわけがない。
初恋が、たった今終わってしまったみたいだなんて。
.+゚。oO.
夜の防波堤。あたりは暗く、コンクリートブロックと海の境目は溶け合って見えない。普段ならば波音しか聞こえない静寂を下手くそなギターが破る。
七年前――小学四年生の夏。颯太は生まれ育った東京の街から、母の実家のあるこの街へと引っ越してきた。
理由は、両親の離婚。父親の浮気。
母は被害者だが、彼女を受け入れたこの街は子どもにも分かるくらい冷たかった。両親の反対を押し切って結婚し、飛び出すようにこの街を去った母こそ、この街の人々にとっては浮気者なのだ。
そんな街に早く馴染もうと、聞き覚えのない方言を突然使いだす母。
都会っ子とラベルを貼ってのけものにしてくるクラスメート。
颯太を見るたびにヒソヒソと何やら噂話をする街の人々。
何もかもが潮風に錆びて、時計の止まったような街並み。
全部、くそったれだ。
怒りを弦にぶつけるように、颯太はがむしゃらにギターをかき鳴らす。
何より一番腹が立つのは、父が誕生日にくれたアコースティックギターを未練ったらしくここまで持ってきた自分だった。
いっそ、めちゃくちゃに弾いて、壊れてしまえばいい。そうなれば諦めもつく。諦め? ……何に。
自嘲気味に笑い、ストロークに力を込める。
その時、ピックがするりと滑った。
貝殻の裏みたいな光沢のある白色のピック。真っ暗な海面に向かって月明かりを反射しながらふわりと落ちていく。
(だめだ、あれは父さんの……!)
颯太は無意識に手を伸ばしていた。膝の上で抱えるギターと共に前のめりに傾く。
落ちる。
そんな当たり前のことに気づいたのは、重力に引っ張られ始めた後だった。
コンクリートにつけていた足が宙に浮く、その刹那。
「危ないよ」
隣で凛とした声がして、颯太の身体はぐいと後ろに引っ張られていた。
足は、ちゃんと地に着いている。
それを確認した直後、ちゃぷんと小さな着水音が響いた。ピックが落ちたのだろう。あのままだったら自分も続けて海に呑まれていた。
「大丈夫?」
再び、風鈴の音のような涼やかな声。
颯太はそろりと命の恩人の方を見て、思わずあんぐりと口を開けた。
美しい少女だった。
海沿いの街に住む素朴な少女たちとはもちろんのこと、かつて東京で見かけた垢抜けた少女たちとも一線を画す。オーラが違う、とでも言うのだろうか。
長い金髪と、くらげのような光沢のあるワンピースを潮風になびかせるさまはとても絵になっていて、この世のものとは思えない美しさだった。
年齢は、高校生くらいだろう。大人になりきれていないその表情には無邪気さが宿っている。
「もしかして、余計なことした?」
「う、ううん、そういうわけじゃ」
「そっか。なら良かった。キミのギター、聞けなくなっちゃうのは寂しいから」
「えっ」
聞かれて、いた。
颯太の顔がみるみるうちに赤くなる。
少女はそれを見て「タコみたい」とくすくす笑った。
「バカにしないでよ」
「そんなつもりはないって。キミのギター、好きだよ。言いたくても言えないことぶつけてるって感じで」
「……そういうお姉さんは、なんでもはっきり言うタイプ?」
「あは、バレたか」
初対面のくせに何もかもお見通しで嫌になる。颯太が拗ねて口を尖らせていると、「機嫌直してよ」って彼女の細い人差し指が唇にトッと軽く触れてきた。その仕草にまたドキドキしてしまって、耳の先まで熱を帯びるような気がした。
「ねえ、一曲弾いてよ。いつも遠くから聞くだけだったから」
「できない。ピック落としちゃったし」
「ああ、さっき……」
少女は黒い海面に視線を落とす。ピックの行方はもう分からない。
「じゃあさ、ギターの代わりに私に話してみてよ」
「は?」
「キミのこと。何か言いたいことがあって、あんな風にギターを弾いていたんでしょう」
言いたいこと。確かにあったのかもしれない。でもなんて言えばいいのかわからなかった。だから楽器に頼っていた。
気づけば、颯太は離婚が決まった時から今までのことをつらつらと彼女に話していた。藍色の瞳に見つめられると話さずにはいられない気がして、口が止まらなかった。一時間はずっと話し続けていただろうか。とりとめもなく話して息が上がる颯太の肩を、彼女は優しく叩いた。ひんやりと冷えたその温度が妙に心地が良かった。
「つまりキミは……お父さんのことが大好きだったんだね」
「そんなわけない。だってあいつ、ちっとも遊んでくれないし、母さんのこと大事にしないし、タバコ臭いし、それから、それから……」
否定が虚しいことは、両目からこぼれ落ちる涙が物語っている。
颯太の言葉を優しく受け止めて、少女は言った。
「失ってから大切なものに気づくことも、あるんじゃないかな」
颯太は黙って鼻をすすった。そうだ、だからギターを捨てられなかった。どうでも良かったはずのピックに手を伸ばした。
「実はね。キミのギターに勇気づけられてたんだ」
少女は海面を見つめながら、独り言のように呟く。
「私、すっごく歌がヘタで。周りはみんな上手だからとにかく居づらくて、いっそ歌うのなんてやめようかと思ったの。でもキミのギターを聴いて、ヘタでも歌っていいんだって分かった」
「それって嫌味?」
「違う違う。響いたってこと。ここに」
とんとん、と彼女は自らの心臓のあたりを叩く。
「キミのギターはヘタだけど、想いがこもってる。だから響くの。私もヘタだけど、歌うのは好き。ならまだ諦めなくてもいいかなって、歌を習いに遠くの学校に行くことにしたんだ。その前にもう一度キミのギターを聴きたくて……そしたら海に落ちそうになってるんだもん。驚いたよ」
少女はけらけらと笑ったが、颯太は俯いて口を結んだ。
「……遠くに行っちゃうんだ」
せっかく、理解してくれる人に出会えたのに。
「うん。次の夏には戻ってこれると思うけど」
「じゃあ約束して。次会うときにはちゃんと弾くから、お姉さんの歌も聞かせてほしい」
「いいよ。約束する」
小指同士を絡ませる。指切りげんまんなんていくらでもやったことがあるはずなのに、この時ばかりは特別に緊張した。
ふと時計を見ると午後十一時。そろそろ家に戻らないと母に見つかった時に叱られる。
彼女に別れを告げ、帰路につく。その一歩目を踏み出そうとして、颯太ははっと振り返った。
「そういえば、お姉さんの名前――」
そこにはもう、誰もいなかった。
海に落ちてしまったのかと思うくらい、痕跡が何一つ残っていなかった。
そうして次の夏、その次の夏、そのまた次の夏……。
颯太は待った。時には街中を探し回った。
だが、彼女は二度と現れなかった。
初恋の淡くほろ苦い後味だけを残して、約束を破ったのだ。
.+゚。oO.
あれから一か月。
憂未のことは週に一度は海の家で見かけた。
颯太は八月末にやる海の家のライブに出演予定で、店主やバンドメンバーとの打ち合わせでまめに出入りしているのだ。
ただ、彼女に話しかけてみたいと思ったのは最初の一度きりで、それ以降は気にはかかるものの熱は冷めていく一方だった。
まず、あからさまに避けられている。厨房に引っ込んだり、掃除に夢中になっているふりをしたり。
それに、よくよく考えるとおかしなことがある。彼女の見た目があまりにも変わらな過ぎるのだ。初恋の相手に会ったのは七年前。いくら美人でも、七年経てば少なからず風貌が変わるもの。だが、憂未の顔つきはまだどこか幼さが残る、女子高生くらいの若さのままだった。
やっぱり他人の空似か。あるいは思い出の方が幻か。
「どうしたの、颯太。最近なんだかぼーっとしてない?」
熱中症かな、と海の家のテーブルの向かいに座っていた莉玖が心配そうに颯太の額に手を当てる。
彼女の手はいつもじんと温かい。よそ者で浮いていた颯太をよく気にかけてくれて、中学を卒業した時に付き合い始めた。可愛らしくて、明るくて、献身的な彼女。
そんな彼女が目の前にいるのに別の子のことを考えていただなんて、まるで父親みたいだと嫌になる。
「なんでもないよ。そろそろ帰ろうか」
立ち上がろうとすると、莉玖は「ちょっと待って」と言って鞄から丁寧にラッピングした小包を取り出し、厨房の方へと向かう。莉玖が声をかけると、奥で皿を洗っていた憂未がひょっこり顔を出し、莉玖から小包を受け取ってほっと表情を綻ばせているのが見えた。
莉玖に手を引かれながら、海の家を出る。もう日は落ち始め、海面は橙色に染まっていた。振り返れば、憂未がどこか寂しげな表情で手を振って颯太たちを見送っている。
「さっきの何?」
「何って」
「あの人に何か渡してただろ。あんな嬉しそうな表情、初めて見た」
正確に言えば、再会してから初めて、だ。
記憶の中の彼女は、いたずらっ子のような笑顔のまぶしい人だったはずなのに。
「大したものじゃないよ。小さいメモ帳。筆談しやすいかなと思って」
「筆談?」
颯太が聞き返すと、莉玖はこくりと頷いた。
「店長さんに聞いたんだ。憂未ちゃん、話せないんだって。声が出ないの」
翌日。颯太は再び海の家を訪れた。
朝から雨模様で、浜辺には人が少ない。そんな日は当然海の家も閑古鳥で、店長が買い出しに出ると店内は憂未と二人きりになった。
憂未は相変わらず颯太の存在に気づいていないかのように仕事に没頭する。このまま何もしなかったら、八月末のライブを最後に今年の海の家の営業は終わり、憂未とはそれきりになってしまうかもしれない。そんな終わり方はごめんだ。どうせ終わるなら、サイダーの泡のごとく潔く弾けてほしい。
ポロン。
颯太はケースからギターを取り出し、おもむろに爪弾いてみせた。
七年前から変わらず使い続けているギター。だが響く音色はだいぶ変わった。ヘタなりに練習を重ねて、人に聞かせられる程度には弾けるようになったのだ。
厨房で皿洗いをしていた憂未の肩がぴくりと反応する。
颯太はそれを見逃さない。
アルペジオから初めて、ゆるやかにテンションを上げ、興に乗ってストローク。作りかけの曲。だけど彼女には伝わるはずだ。この音に込めた思いが。
初恋の相手への期待と、落胆と、そして怒りが。
ガシャン!
サビの終わり、ガラスが割れた音が静かな店内に響く。
憂未が洗っていたコップを落としたのだ。ガラスの破片が床に散らばり、憂未は黙ってその場で震えている。
少し、いじわるが過ぎただろうか。
なんとなく罪悪感を覚えた颯太は、ガラスを片付けるのを手伝った。憂未もやろうとしたが、彼女の指先に薄く赤い血がついていることに気が付いて、颯太は彼女の手を取った。
「座って待ってて。片づけておくから」
ひんやりと冷たい温度。やっぱり、七年前と何一つ変わっていない。
「……どうして約束破ったんだよ」
もっと他に言うべきことがあっただろうに、そんな恨み言が口を突いて出た。
憂未は藍色の瞳を震わせながら颯太を見上げ、莉玖からもらったメモ帳に走り書きをした。
『歌より大切なものができちゃった』
そこにはそう書いてあった。
大切なものってなんだよ。どうして声が出なくなったんだよ。なんでもっと早く会いに来てくれなかったんだよ。
言いたいことは山ほどある。だが上手く言葉にならなかった。
颯太が押し黙れば、雨音だけが響く静寂。
「……せめて、ライブは来てよ。曲、ちゃんと完成させるから」
憂未は頷く。そして「いくよ」と新しい紙に書き綴った。
夏休みを締めくくる海の家のライブ、その一週間前。
珍しく夜更けに莉玖から「会って話したいことがある」と連絡が来た。
待ち合わせ場所は奇しくもあの防波堤のあたりだった。
先に来てコンクリートブロックの上に座っていた莉玖のたたずまいが、いつもより暗い。
「九月から、東京に行くことになったの」
暗闇に目が慣れてきて、彼女の目の周りが赤く腫れていることに気づいた。
話を聞くと、母親に難病があることが分かり、先端治療を受けられる東京の病院の近くに家族で引っ越すことになったという。
「私だけこっちに残ってもいいって言われたよ。でも、お母さん……本当に治るかどうかは分からないから……」
言葉の途中で嗚咽する莉玖。彼女の不安は颯太には痛いほどよく分かった。
家族の変化、なじみのない土地、見知らぬ人々。
そんな中で、莉玖だけはいつも颯太の味方でいてくれた。理解者であろうとしてくれた。彼女の存在がどれだけ心強かったことか。
一瞬、憂未の顔が脳裏をよぎる。
莉玖が遠くへ行くのなら、彼女に率直な思いを伝えるチャンスなんじゃないだろうか。
いや、それでは莉玖は。
いずれにしても、ライブはもう一週間後に迫っていた……。
八月三十一日。
海の家は毎年このライブイベントを楽しみにしている地元の人々でごった返している。颯太たちの出番は夜七時頃。ちょうど日が落ち始め、浜辺にムードが漂い始めた時間帯だ。
今年はコピー曲が三つに、初めてのオリジナルが一曲。
フロアには親戚一同に高校のクラスメートたちと、ずいぶんと内輪な客層で温かく見守ってくれている。
その中には莉玖と憂未の姿もあった。
莉玖は最前列で女友達と談笑しながら楽しんでいて、憂未は最後列に一人でいるが、それなりに楽しんでいるのか、リズムに合わせてゆらゆらと体を揺らしていた。
最後の曲も終わり、会場は心地良い熱気と疲労感に包まれていた。
憂未のほうをちらりと見やれば、ほんの少し頬を上気させている彼女と目が合った。颯太は自然とほぐれた笑みをこぼした。
やっと、呪いが解ける。
そう安堵したのも束の間。
「以上で僕たちの演奏は終わりでーす! が、ここで颯太くんからサプライズ!」
由晴の調子の良いMCに会場も沸き立つ。
だが、当の本人の颯太だけは一瞬のうちに血の気が引いていた。
「何言ってんだよ、打ち合わせてないだろ!」
小声で咎めるも、ライブの熱気にあてられた由晴は聞く耳も持たない。
「聞いたぜ。莉玖ちゃん東京に行っちゃうんだろ。だったらこの場で男見せろよ。な? 彼女の不安を和らげてやるのが甲斐性ってもんじゃねえの」
女子と付き合った経験もないくせに、こういう時はぺらぺらとよく喋る。
「颯太……?」
莉玖が期待と不安のせめぎあう眼差しでこちらを見ていた。
七年前の自分を見ているようで、ずきりと胸が痛んだ。
颯太はマイクを手に取り、胸いっぱい大きく息を吸う。
「えーー。
.+゚。oO.
あれから、また七年が経った。
東京のとある結婚式会場で、颯太と莉玖の披露宴が開かれている。
新郎側の旧友の席に座る由晴は、細長いグラスに注がれたシャンパンの泡を見つめながらぼそりと呟いた。
「そういやさあ、颯太の初恋相手って結局誰だったんだろうな」
「え? 莉玖ちゃんだって、言ってなかったっけか」
隣に座る宏斗はきょとんと首を傾げる。
「いや、それがさ。どうもつじつま合わんのよ。お前、七年前のライブでやった颯太のオリジナル曲のこと覚えてる?」
「ああうん。初恋がテーマの曲だっけ」
「そう、それ! あいつ、練習と本番で全然違う歌詞歌ってさ、びっくりしただろ。この前たまたまあのライブの録音見つけて、聞き直してみたんだよ。そしたらどうも歌詞で歌ってるのが莉玖ちゃんじゃないっぽいんだよな。金髪とか藍色の瞳とか……」
「ええ、怖くない? それ」
「けどさあ、そのこと颯太に聞いてみたら全く覚えてないって言うんだよ。それどころか堂々と莉玖一筋だって言い張るから、余計引っかかるちゅーか」
その時、新郎新婦が各テーブルを回ってくるのが見えて、二人は慌てて口をつぐんだ。
「何こそこそ話してたんだよ」
白いタキシードに身を包んだ颯太が由晴の脇を小突く。
その隣を歩くウェディングドレス姿の莉玖は純白の天使のように美しかった。
ただ、目を引くのは、煌びやかな装飾と比べると若干浮いている、胸元の一風変わったネックレス。ありきたりのシェルホワイトのピックに穴を空けてチェーンを通しただけのものだ。莉玖が上京する際、遠距離恋愛のお守りとして颯太がプレゼントしたものらしい。
「にしても、ピックはなくね?」
「うっさいな。誰かさんが突然サプライズとかするもんだから、その場で持ってたのがそれくらいしかなかったんだよ」
颯太曰く、薄汚れてはいるがそれなりに大切なものだったという。数少ない父親からもらったものだそうだ。
新郎新婦が司会に呼ばれて再び
「でも高校の時、颯太がピックで弾いてるのなんて見たことなかった気がする」
妙に指弾きが上手いので気になって尋ねたことがあったのだ。その時は確か、昔一つしかなかったピックをなくしてしまって以来、指で弾くようになったと言っていたような。
「ま、知らん方が幸せってこともあるのかもしれんね」
ケーキカットに移る二人に口笛を吹きながら、由晴が言う。
「そうかな。僕だったら、知らない方が気持ち悪い気がするけどね」
宏斗はシャンパンをごくりと飲んで、ぼそりと言った。
だれも、真実を知る者はいない。
たゆたう泡だけがそれを知っている。
〈おわり〉
初恋は泡沫に消えて 乙島紅 @himawa_ri_e
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます