最終話 バレない浮気
その夜、寝静まった後。
ふと喉が乾いて冷蔵庫を開ける。ペットボトルの飲み物を飲んで、ふとスマートフォンを見る。
何か通知が光ったような気がして覗き込んだ瞬間、
ジー、ジー。
例の通知音が鳴り響いた。咄嗟にスマートフォンを手にし、おそるおそる凛音の方を覗き込む。幸い、まだ寝息を立てていた。
そして、通知から地図アプリに画面が映ると、そこには前回と違った場所が指定されていた。どうやら近所のアパートのようで。
「……どうする」
隼也は悩み、葛藤した末、軽く着替えて家を出た。
気づかれて、後で問い質された時はその時だ。寝苦しくてちょっと散歩してた、とでも言えばいい。そして、何よりこのアプリの特殊性に賭けていた。
ホテルから出た瞬間、家に戻る。そういうシステムなのだとしたら、いわゆるアリバイがあると主張できる。けれど、今回はただのアパートだ。そんなに都合よく彼女がいるとも限らない。ただ、それに縋りたい思いだった。
そうして歩いて数分、着いたアパートは、どちらかといえばボロい建物だった。その1階の一番端。表札に何も書いていない。
そうして覚悟を決めて呼び鈴を鳴らすと、ゆっくりと扉が開いた。
「……また会いに来てくれたんだ、隼也くん」
「はは、俺もびっくりしてる。魔法のアプリのおかげだよ」
そうして二人、それが当たり前のようにして部屋に中に消えていく。
相応の年数が経っているアパートで、一枚敷いただけの布団の上で、二人は求め合っていく。声は隣室や外にまで響いているかもしれない。
それでも現実逃避を体現するみたいに、何度も彼女のことを求めていく。
「美咲さん……美咲っ……」
「はぁ、隼也くん……!」
そうしてお互いが何度目かに果てて、その夜は明けようとしていた。
「……朝になっちゃうね」
「そうなったら、どうなるんだろう。俺、ついに足がつくかな」
「大丈夫だよ、きっと。だってここ、近所なんでしょ? 元々私、こんな場所に住んでなかった。監禁場所もいろいろ移されてきたけど、ここは初めて。まるで隼也くんと浮気するために選ばれたみたい」
「……だとしたら、本当に別世界とか、異世界なのかもね」
「そうそう。ほら、竜宮城みたいな。でも、竜宮城は逆かな。浦島太郎になったら困るもんね」
「それは困るけど、この時間が続くなら」
「……現実を捨てて、私と暮らす?」
彼女の言葉に、言い淀んだ。それを見てすぐに、彼女はくしゃっと笑って。
「いいよ、無理しないで。私は都合のいい女でいいんだ。それでも価値があるってことでしょ?」
「……ごめん」
「隼也くんが悪いことなんてないよ。この世界なら、浮気したって平気なんだから」
「……そうだね」
そうしてゆっくりと服を着替える。
彼女を置いて、一人だけ元どおりの寝巻きに着替えて部屋を出るのが違和感だった。
「……」
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない。出来たら、また会いに来る」
「うん、待ってるね」
彼女の手を引いて、この場所から逃げようと告げたかった。
けれど、この得体の知れない状況を作っている相手が、自分にとって手に負えない可能性が高かった。
そもそも、妻帯者である自分に、セフレを、不倫相手を連れ出して、何の大義名分があるんだろう。そう自問自答して、分かった。彼女とは、この異様な空間でしか、欲を満たし合えないのだと。
だからまたこの部屋から逃げ出した。自分の欲を満たすために。現実とのバランスを保つために。
*
「おはよう」
「おはよう。朝ごはん、出来てるから」
「ありがとう」
いつも通りに挨拶をする朝。凛音は模範的な主婦だ。夜の営みに関して言えば、様々な不満があったかもしれない。貞操観念が高く、潔癖。けれど同時に、教養もあり、女性としても魅力的な人だった。
凛音はこれまでと変わらない毎日を一緒に送ってくれる。その日も、次の日も、そのまた次の日も、毎日一緒に朝食をとって仕事に行き、時間が合えば夕食を一緒に取って眠りにつく。
その合間で、何度も通知音が鳴り響く。
ジー、ジー。
ある時は仕事の昼休みに、使われていない資料室で。
ジー、ジー。
ある時は日曜日の朝、近所の学校に忍び込んで。
ジー、ジー。
ある時は彼女が華道に向かう日、自宅のベッドで。
そうして激しく、互いに境界線がなくなるほど愛し合い、お互いの劣情をぶつけ合った形跡は、次の日には跡形もなく消え去っていた。
あの潔癖な凛音が気がつかないのだから、これは本当に魔法か何かなのだろうと、信じて疑わなくなっていた。
そして、それを良しとして生きる自分は、気がつけば毎日の気持ちにゆとりができていることを知って。自分が自信を持って生きているからこそ、凛音もストレスを感じることなく、結婚生活に満足してくれている、そんな実感が湧いてきて。それならこの関係こそが、きっと理想なのだろう。美咲さんにも、凛音にも、そして自分自身にも、より善い生き方なのだと。
「凛音、いつもありがとう。もう少ししたら、誕生日だよね。一緒にディナーにでも行こうか」
「そうね、いいお店があったら、予約しておいてもらえたら嬉しい」
二人は、表面上は理想の夫婦だった。毎日の朝食、準備を進める彼女を他所に、自分は昨夜の余韻に浸る。時には彼女の容姿に重ねながら、激しい情事を思い出す。
そうして男としての自尊心を取り戻した隼也は、いつものように自宅を出る。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
バタン。
扉が閉まる。
*
凛音は玄関に鍵を閉めると、ゆっくりリビングに戻る。
ダイニングに残った朝食の後片付けをしながら、ふと思い出したように笑みを浮かべる。
そうして、ふとテーブルのスマートフォンに目を向けた。
ジー、ジー。
ゆっくりとスマートフォンの通知を確認した彼女は、エプロンを外して。
ピンポーン。
「はーい」
続け様に鳴ったインターフォンの音に駆け出して、玄関の鍵を開けた。
了
バレない浮気は異世界で eLe(エル) @gray_trans
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます