異世界から追放された悪役令嬢は身も心も丸くなり過ぎた。怠惰な生活を送っている所為で長生きできないかもしれない。
八百板典人
第1話
「そろそろダイエットした方がいいと思う」
余計なお世話だと自覚しながら、俺──
炬燵の中で丸くなりながらスナック菓子を齧っていた彼女は、この世界に来たばかりの頃と比べて丸くなった顔を歪ませる。そして、俺から目を逸らすと、苦しい言い訳を口にした。
「ひ、……必要ないわ。だって、私、ダイエットなんか必要ないくらい痩せているし」
お菓子の油でギドギドになった指で自身の金髪をお嬢様っぽく払った彼女は、全力で目を泳がせる。
そんな自信満々なようで自信なさげな彼女の様子を見た俺は、思わず溜息を吐き出してしまう。
そして、少しだけ躊躇いながら、背中に隠していたものを彼女に見せつけるように取り出した。
「一年前はな」
台所から持って来た体重計を炬燵敷き布団の上に置きながら、彼女に厳しい現実を突きつける。
彼女は俺が持って来た体重計を見た途端、引き攣った笑みを浮かべた。
どうやら一年前と比べて太ったという自覚はあるらしい。
逃げるように炬燵の中に入り込む彼女を眺めながら、俺は彼女の愛称を口に出す。
「……リリィ 。認めたくない気持ちは分からんでもない。この世界に来たばかりのお前は、読モも裸足で逃げ出すくらいに痩せていた。……いや、痩せていたっていう表現はおかしいか。ここに来たばかりのお前は拒食症を疑うくらい細かった。……心配になる程にな」
初めて彼女と会った日──新型コロナウイルスの流行で高校の卒業式が潰れた翌々日──の事を思い出しながら、俺は炬燵の中に篭った彼女に語りかける。
「あの時のお前と比べたら、今のお前は健康的な方だと思う」
「だ、……だったら、ダイエットなんて必要ないんじゃ……」
弱々しい反論が炬燵の中から聞こえて来る。多分、彼女も薄々ながらダイエットの必要性を感じているのだろう。
……必要性を感じた上でスナック菓子を食べているのだろう。
本当、タチが悪い。多分、この腰の重さと苦しい言い訳が異世界から追放された要因の一つなんだろう。
体重計を炬燵の中に投入しながら、彼女の反論に反論で返す。
「今は別の意味で不健康になりつつあるんだよ。傷つくだろうから、これだけは言いたくはなかったんだけど、……お前、最近、お腹が出て来ただろ」
「うっ!」
俺の指摘により、炬燵の中にいた彼女は踏まれた猫のような断末魔を上げる。
「お前はバレていないと思っているんだろうけど、俺は知っているぞ。お前が事ある毎に自分の腹肉を揉んでは溜息吐き出しているのを」
「うぐっ!うぐっ!」
オットセイでも出さないような悲鳴を上げながら、彼女は体重計を炬燵の外に追い出す。
……どうやら体重計を丁寧に追い出すくらい精神的に余裕はあるみたいだ。
これが異世界で自称悪虐の限りを尽くした悪役令嬢の末路だと思うと、頭が痛くなる。
乙女ゲーをやった事がないから、断言はできないが、多分、ここまで間抜けかつ自業自得な末路──異世界に島流しされた挙句、こっちの世界で怠惰の限りを尽くした結果、下着の上に腹肉が乗るくらいに激太りしてしまう──を辿った悪役令嬢は
恐らく異世界で彼女に虐げられてきた人達は、今の身も心も丸くなった彼女の姿を見て、スカッとするに違いない。
「べ、……別にいいじゃん。太ってたって。モテようとか容姿で金稼ごうとか一ミリ足りとも思っていないんだし。……ほ、ほら、テレビの人も言っていたわよ。これからの時代は多様性だって。ルッキズムなんてクソ喰らえって」
「別に太っててもいい。腹が出ようが、百キロ級のデブになろうが、お前が魅力的な人間である事には変わりないからな」
俺の言葉を聞いた途端、今の今まで炬燵の中に引きこもっていた彼女は、嬉しそうな表情を浮かべながら顔だけを炬燵の外に出す。
その姿は擬似餌に食いついた魚みたいで非常に可愛らしいものだった。
「……だが、どうせ太るなら、健康的に太ってくれ。今のまま太ったら、間違いなく生活習慣病になってしまう」
"もっと褒めて!"というオーラを醸し出す彼女に追い討ちをかけるように体重計を差し出す。
彼女は怯えた様子で体重計を手で払うと、再び炬燵の中に閉じ籠もってしまった。
炬燵の中に手を突っ込んだ俺は、素早い動作で彼女の手からスナック菓子を取り上げる。
「あー!それ、まだ食べている途中だったのに!!……ったく」
炬燵の中から菓子袋の開く音が聞こえて来る。もしやと思った俺は、慌てて炬燵の中を覗き込む。
新しく開けたお菓子を頬張る彼女の姿と沢山の菓子袋のゴミの姿が視界に映り込んだ。
「おい、リリィ 」
「て、……てへぺろ☆」
かなり昔に流行ったネットスラングを口にしながら、彼女は炬燵の中にある菓子のゴミを少しでも隠そうと足掻く。
「……最近、ご飯のおかわりを要求しないなって思っていたら、そういう事だったのか」
怒りと呆れがふつふつ湧き上がる。
「い、いや、これには理由があってね……ゲーム中、口元が寂しいなーって思ったら、台所の食器棚の下に山程のお菓子があったの。賞味期限切れたら、美味しくいただけないだろうなって思ったから、私が消費してあげたのよ、うん」
「言い訳はそれだけか?」
俺の様子が変わった事をいち早く察した彼女は、慌てて炬燵から出ようとした。
が。
「あっ!痛っ!!足攣った!?」
運動不足がたたったのか、彼女は炬燵の中で足を攣ってしまう。
その姿はアスファルトの上に転がる蝉みたいで非常に憐れだった。
情けなく攣った足を押さえる彼女を見て、さっきまで感じていた怒りは消え失せ、逆に呆れの方が強くなってしまう。
本当、見ていられないくらいに無様だった。
(……甘やかし過ぎたのかな)
出会ったばかりのトゲトゲしかった彼女を思い出しながら、俺は溜息を吐き出す。
彼女と出会ったのは今から約一年前──新型コロナウイルスの国内累計感染者が千人を超えた頃だったと思う。
当時、大学進学を機に一人暮らしを始めたばかりの俺は、コロナの流行により暇を持て余していて、新しく引っ越して来たばかりの町を隈なく歩いていた。
そして、俺は異世界から来たばかりの悪役令嬢──リリードルチェ・バランピーノ──と
彼女曰く、王子様のお気に入りである平民の女の子に嫌がらせをしまくった結果、異世界から追放されたらしい。
あまり乙女ゲームに関して知識がないため断言はできないが、異世界に追放された悪役令嬢は、多分、フィクション含めて彼女が初だろう。
……本当、何やらかしたんだろう、こいつ。
"事実は小説よりも奇なり"とはよく言ったものだ。
異世界から来た悪役令嬢、そして、パンデミックものの映画に出てくるウイルスよりも凶悪な新型コロナウイルス。
この一年で虚構を超えた現実を目の当たりにし過ぎた所為で、俺は滅多な事では驚かなくなったと自負している。
それくらい異世界から来た悪役令嬢もコロナも日常の中に埋没してしまったのだ。
「……何で外に出なくちゃいけないのよ」
思わず震え上がりそうな程に冷たい風が俺らの肌を撫でる。2度目の緊急事態宣言が発令された所為なのか、アパート近くにある河川敷には人っ子1人いなかった。
お天気予報士曰く、今日は一月の中では比較的暖かい日だと言っていたが、あれはガセだったのだろうか。
ジャージだけではこの冷風を対処する事は難しそうだった。
「ねぇ、コウ。緊急事態宣言って知っている?不要不急の外出はダメなのよ。異世界生まれ異世界育ちの私でさえ分かっているのに、何であんたは私を外に連れ出したの?」
俺も彼女も両腕を摩擦熱で温めようと試みる。
だが、幾ら両掌で両腕を擦っても体温は上がらなかった。
「不要不急じゃないからだ」
「私は痩せる事を要していないし、急いでもないんだけど……」
「別に痩せる事は求めていないって。運動する習慣をつけさせるために歩かせているんだよ。……言っとくけど、生活習慣病は怖いからな。お菓子ばっかり食べていたら、糖尿病・肥満症・高脂血症・高血圧症・大腸がん・歯周病になる可能性高くなるし、運動不足だったら、糖尿病・肥満症・高脂血症・高血圧症などを発症する可能性アップするし。最悪、心筋梗塞や脳卒中で死んでしまうからな。生活習慣病舐めんじゃねぇぞ」
舗装された道の上をゆっくり歩きながら、隣を歩くジャージ姿の彼女を脅す。
彼女は不機嫌そうな表情を浮かべると、吐き捨てるようにこう言った。
「あんたって時々真面目過ぎてつまらない時があるよね」
「うっ!?」
物心ついた時からずっと気にしている事を指摘されて、思わず声を上げてしまう。
「そんなに真面目過ぎるとストレスに押し潰されるわよ」
「不真面目過ぎるのも問題なんだけどな」
彼女がジャージのポケットから取り出した一口サイズのスナック菓子を素早い動作で奪い取る。
「ふっ、甘いわね。まだ私のポケットには沢山のお菓子が眠っているわ……!」
「身体よりも先に心の方が豚になっちまったか」
「誰が豚よ!!」
彼女は両腕を天に掲げると、怒りを身体全体を使って表現する。
「お菓子を食べるなとまでは言わないけど、もう少し量を押さえてくれ。一日八袋は食べ過ぎだっての」
「じゃあ、一日何袋が適正なのよ」
「一日一袋だな」
「私に死ねって言っているの?」
「気づいていないんだろうけど、もうお前は立派なデブだよ」
「この世界の料理が美味し過ぎるからいけないのよ。あっちの世界じゃ、塩や砂糖みたいな調味料でさえ貴重品だったんだから」
隣を歩く彼女は肩にかかっていた自身の長い金髪をお嬢様っぽく振り払う。
「そういや、あっちの世界の文明レベルって、こっちの世界でいう中世ヨーロッパに近いって前に言ってたよな。……そんなに調味料が不足していたのか?」
「名家の娘である私でさえも調味料を使った料理なんて、お祝い事の時しか食べられなかったんだから。普段の食事は食材の素材そのものの味を楽しまなきゃいけなかったのよ」
「素材そのものの味……?」
「焼肉にタレどころか胡椒も塩もかけない料理って言ったら分かりやすいかしら?」
その喩えのお陰で、素材そのものの味という意味を完璧に理解する。
「じゃあ、お刺身とかも醤油や山葵使わずに食べるのか?」
「魚を生で食べる事自体無理だったわ。私の住んでいた場所は港から百数キロ離れた所にあった上に、この世界みたいに鮮度保って運ぶ事は難しかったから」
「え?お前が元々いた世界には魔法があるんだろ?魔法で凍らせて運ぶ事はできなかったのか?」
剣と魔法が蔓延る異世界から来た彼女は、コロナが蔓延る世界で生まれ育った俺の発言を鼻で笑う。
「んなの無理に決まっているじゃない。あっちの世界の魔法は、こっちの世界のフィクションみたいに万能じゃないの。"傷つける事に特化した"と言えば良いかしら?もし魔法で凍らせたとしても、魔法自体に破壊力があり過ぎるから、運んでいる間に魚の身体が塵になってしまうのよ」
「不便過ぎるだろ、そっちの魔法。……魔法で作った氷を側に置いておくのもダメなのか?」
「ダメね。魔法で作った氷を長時間接触させても塵になっちゃうから」
「RPGでよく見る回復魔法や蘇生魔法とかもない……よな?」
「ええ、ないわ。だから、もしガンやコロナにかかっても、寝て治すしかないって事。あっちの世界の魔法ってのはね、"戦争するための技術"であって、"文明の発展を促進"させるものじゃないのよ」
「は、はあ……」
あっちの世界の魔法を見た事がない──彼女ほ魔法の授業をサボっていたらしく、簡単な魔法さえも使えないらしい──俺は、彼女の話をあまり理解できなかった所為で曖昧な言葉で返す事しかできなかった。
「つまり、お前が元いた世界は食事情も衛生環境も最悪だったと」
「ええ。甘いものなんて果実くらいしかなかったし。よく乙女ゲーとかでお嬢様達が紅茶なんてお洒落なもん飲んでいるけど、あっちの世界じゃ紅茶の"こ"さえなかったわ主食のパンもバターやジャムがないから、小麦の味を味わなきゃいけなかったし。本当、今思うと食えたもんじゃないわよ異世界の料理なんて」
リリィはげんなりした様子で異世界の食事情に物申す。
俺のヘタクソな料理でさえも美味しいと言って平らげてくれる彼女が酷評する異世界料理とは一体どんなものなのだろうか。
一度でもいいから怖いもの試しで食べてみたいと思った。
「まあ、食生活なんてまだマシよ。私は貴族だったから、あっちの世界基準で良いもの沢山食べれたし。けど、もっと酷いのは衛生環境だわ」
彼女はゆっくり俺の隣を歩きながら、前方に見える野良猫に向かって手を振る。
野良猫は俺達の存在に気づく事なく、明後日の方向に向かって駆け出した。
「あっちの世界はトイレなんてもんなかったから、排泄物は下水道に流さず窓の外から放り出してたのよ」
「何その特殊プレイ。下手したら他人の糞を頭から被る事になるじゃねぇか。てか、トイレがないなら、どこで用を足すんだよ。もしかして、野糞でもするのか?」
「庶民は平気で野糞してたみたいよ。かくいう私も身の回りの世話をしてくれる付き人に四六時中"おまる"を持たせては、宮殿の廊下や庭園、道のど真ん中で用を足していたわ」
「やめろ、お前が道のど真ん中で用を足している姿なんて想像したくない」
「ほら、こっちの世界でもヨーロッパ貴族が馬鹿みたいにデカいスカート履いているでしょ?あのスカート中に"おまる"を入れて、そこで用を──」
「具体的に説明してんじゃねぇよ!否応なしに想像しちまうだろうが!!!!」
道のど真ん中でおまるに跨る彼女の姿を想像してしまった俺は、大声で彼女の声を遮る。
「と、まあ、こういった感じで、宮殿の隅には夥しい数の人糞が転がっているわ、お風呂に入るという習慣はない上に手洗いなんてしなかったわ、宮殿の窓なんて飾りだったから換気はできなかったわで、それはもう最悪なのよ、うん。もしあっちの世界でコロナなんて流行っていたら、間違いなく人類は滅んでいたわ」
「まあ、衛生環境が比較的に良い方である日本でさえ、今、一日の全国感染者数は一万人超えているからな……」
コロナの感染力が凄まじく、現在、医療は崩壊どころか壊滅寸前まで陥っているらしい。
殆どの人がマスクをしている日本でさえ、現在進行形で感染が止められないのだから、彼女の言う通り、窓から糞を放り投げる異世界でコロナが流行ったら、今の日本以上に大変な目に遭うかもしれない。
「あっちの世界でコロナが流行っても、医療体制は整っていないわ、手洗いうがいの習慣が定着してないわで、間違いなく感染は食い止められないわ。あっちの世界の治療なんて、薬草食べるか神に祈るかの二択だし。あっちの世界でコロナにかかったら、間違いなく死ぬわ」
「けど、あっちの世界じゃ、この世界みたいに全世界的に広がる事はないんじゃねぇの?あっちの世界には電車や飛行機みたいな便利かつ遠い地に移動するための乗り物なんかないんだろ?」
特に感染症なんて詳しくないにも関わらず、俺は感染症の専門家みたいな口振りでコロナについての考察を垂れ流す。
「ふっ、それがどっこいあるんですよ、これが」
そう言って、彼女は去年より脂が乗った右腕──ではなく、右手首を俺に見せつける。手首には特殊な金属でできたアクセサリーが巻き付いてあった。
「これに魔力を注げば……ほい」
そう言った途端、彼女が身につけていたアクセサリーが輝き始める。
そして、炭酸ジュースを開けた時の音が鳴り響いたかと思うと、俺と彼女の間にどこかで見覚えのある乗り物が現れた。
「こ、これは……!?」
平行に配置された2つの車輪に車輪の間にある木の板、板から上部に伸びた木の棒はT字になっており、どこからどう見てもハンドルのようにしか見えない。
この立ち乗り用並行二輪車には見覚えがある。これは──
「セグ○ェイじゃねぇか!!」
リリィが不思議な力で取り出した乗り物は、どこからどう見てもアメリカで開発された立ち乗り用二輪車──セグ○ェイにしか見えなかった。
「セグ○ェイ?そんなの知らないわ。この乗り物はね、ヘグウェイって言うのよ」
「セがヘになっただけじゃねぇか!!」
「ヘグウェイってのはね、異世界のスラングで『話題の転換』『行動の転換』っていう意味なのよ」
「セグ○ェイじゃん!紛うことなきセグ○ェイじゃん!!」
「魔力を注ぎ込む事で勝手に動き出すのよ、凄いでしょ」
そう言って、彼女はセグ○ェイ擬きを動かし始める。
ヘグウェイはセグ○ェイみたいに動いた。
「立つ姿も座る姿も動く姿も全部セグ○ェイじゃん!何オリジナル みたいな面晒してんだ、このセグ○ェイ擬き!!」
「あっちの世界は旅行する時も街の中を散歩する時も学校に通う時も全部ヘグウェイに乗って移動するのよ」
ヘグウェイに乗ったリリィは、俺の周囲をくるくる回り続けながら、あっちの世界の事情を説明する。
「中世ヨーロッパ風の異世界でセグ○ェイ擬きが蔓延っているのか!?世界観的に大丈夫なのか!?」
「流石に他の国とかに旅行する時は、このヘグウェイよりも大きいものを使っているから大丈夫よ」
「大丈夫の方向が明後日にぶっ飛んでるんだよ!会話のキャッチボールしろ!!」
ズレた返答をする彼女にツッコミを入れた所で、閑話休題。
俺はリリィを連れて橋の下に移動すると、そこでストレッチをするように促した。
「なんでストレッチしなきゃいけないのよ」
「ネットの情報が正しければ、ストレッチは生活習慣病の予防になるらしいんだよ。ほら、ストレッチ、ストレッチ」
最初からハードな運動をしても習慣にならない。
そう判断した俺は先ず簡単な運動をする事で、彼女に運動の習慣をつけさせようとする。
「ストレッチやらなくても、私、身体柔らかいんだけど……ね!」
リリィは足の爪先目掛けて手を伸ばす。
だが、彼女の手は自身の爪先を掴む事ができていなかった。
「ふんっ!ふんっ!」
何度も何度も飽きる事なく、彼女は爪先に触れようと反動をつける。
しかし、幾ら反動をつけても彼女の指は足の爪先に触れる事はできなかった。
「あまり無理すると身体痛め……」
「あ、これならできるわ」
そう言って、百八十度開脚を難なく披露した。
新体操やバレリーナが身体の柔軟性を見せつけるための開脚を容易く披露した彼女は、そのままブリッジの態勢に移行する。
そして、悪魔に取り憑かれたかのようにブリッジ歩きをし始めた。
「ほら、見て見て。超柔らかいでしょ」
リリィは得意げな表情を浮かべると、ブリッジした体勢のまま動き出す。
ブリッジ歩きをしながら、俺の周りを回り続ける彼女の姿はゴキブリみたいで非常に哀れだった。
多分、遠くから見たら何かの儀式をやっているようにしか見えないだろう。
これが異世界で悪虐の限りを成した悪役令嬢の末路だと思うと、何だか涙が出てくる。
一体どういう罪を犯したら、異世界に追放された挙句、こんなゴキブリみたいな動きをする羽目になるのだろう。
「お前が柔らかいのはよく分かった。だから、その気持ち悪い歩き方を止めてくれ。警察に通報されるから」
「気持ち悪いって女の子に言う台詞じゃないと思うけど」
「公共の場でブリッジ歩きしている奴は男女関係なく気持ち悪いんだよ」
俺の気持ち悪い発言に傷ついたのか、彼女は涙目になりながら体操座りする。
ちょっと悪い事をしているような気がした俺は、慌てて彼女を元気付けようと、励ましの言葉をかけた。
「あー、でも、さっきの百八十度度開脚とかブリッジ歩きとか、めちゃくちゃ凄かったぞ。新体操の選手みたいでカッコ良かった」
さっきの彼女の奇行を乏しい語彙力を用いて褒めようとする。
俺の言葉を聞いた途端、さっきまで落ち込んでいたのが嘘みたいに彼女は満面の笑みを浮かべた。
「え……?そんなにカッコ良かった……?」
「ああ、俺にはできない事だからな。開脚もブリッジ歩きも。お前の身体の柔軟性は人に誇れるものだと思うぞ」
「ほ、本当!?」
さっきまで落ち込んでいたのが嘘みたいに彼女は満面な笑みを浮かべる。
「これだけで登録者数百万人越えの大手ユーチ○ーバーになれるかしら!?」
「お前、この世界の人間を舐めている節あるよな」
彼女の幻想を粉々に壊した所で、再び俺達はストレッチ運動に集中する。
リリィの身体は軟体動物みたいに柔らかかった。
テレビに出てくる新体操の選手みたいに己の柔軟性を披露する彼女を見て、俺は思わず感嘆の声を上げる。
が、スライムみたいに柔らかい彼女でも、何故か前屈だけはできなかった。
「おかしいわね……前屈は得意だったのに」
地面に尻をつけながら、必死に伸ばした足の爪先を触ろうとする彼女。
「背後から押していいか?」
「ええ、いいわよ」
リリィ の了承を得たので、俺は彼女の背中を押し始める。
彼女の背中を押した途端、柔らかい感触が掌に広がったかと思いきや、俺の両掌は彼女の背中に軽く沈んでしまった。
「ふんっ!ふんっ!!ふーんっ!!」
鼻息を荒上げながら、彼女は爪先に触れようと足掻く。
しかし、幾ら彼女が反動をつけても、俺が押しても、ピクリとも動かなかった。
掌に広がる彼女の柔らかい肉が、俺にある可能性を提示する。
リリィの贅肉に促されるがまま、俺は彼女にある提案をしてみた。
「リリィ 。もう一回だけ百八十度開脚してくれ」
「え、いいけど……」
釈然としない表情を浮かべながら、彼女はもう一回だけ百八十度開脚を披露してくれた。
足を大きく開いた彼女は地面に上半身をつけようとする。
だが、贅肉がついた胸と腹の所為でピッタリ地面につける事はできていなかった。
「あー、そういう事か」
俺の視線に気づいた彼女は赤面すると、即座に開脚を止め、尻を払いながら立ち上がる。
「……どうやら暫く柔軟運動していなかったから、身体が硬くなったみたいね」
「いや、身体は柔らかいだろう。腹と胸の肉が邪魔で前屈できなかっただけ……」
「あー!!聞こえない!!聞こえません!!聞こえないったら、聞こえない!!!!」
両手で両耳を押さえながら、大声で俺の声を掻き消しながら、全力で彼女は現実逃避を試みる。
が、幾ら現実から逃避しても、彼女に纏わり付いた脂肪(げんじつ)は変わらなかった。
「……ここに来た時はこんなに肉に塗れてなかったのに……クソ、この世界の食べ物が美味し過ぎるのがいけないのよ」
彼女は頭上にある橋を忌々しく見つめると、自分の愚かさに気づいたのか、今度は苦笑いし始めた。
「……そういや、コウと会ったのって、ここだったよね?」
「……よく覚えているな」
「覚えているわよ、一年前の事だし」
懐かしがるように彼女は周囲を見渡す。
彼女の表情は明るいものだった。
(……一年前は氷みたいに冷たかったのになぁ)
この世界に来た直後の氷みたいな彼女と今の身も心も柔らかくなった彼女を比べて、思わず苦笑してしまう。
「この世界に来た直後は何度も死んでやろうと思ったわ」
彼女は橋をぼんやり眺めながら、俺と出会った時の事を懐かしがる。
「それなのに……まさか、ここまでこの世界に順応しちゃうとは……生きていれば、何とかなるものね」
ジャージ越しに自分の腹肉を手で揺らしながら、彼女は苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべる。
「死んでやろう……か」
中学の時に亡くなった姉の事を思い出しながら、俺は複雑な気分に陥ってしまう。
俺の姉はいじめを苦に自殺してしまった。
まだコロナが流行っていなかったにも関わらず。
肉体はどこにも異常がない健康体であったにも関わらず。
姉は心の病の所為で長生きできなかったのだ。
俺にとって姉は大切な家族だった。
だから、幸せになって欲しいと思っていたし、本気で"長生きしてもらいたい"と思っていた。
──思っていただけだった。
自分の思いを押しつけた結果、俺達家族は苦しんでいる姉に気づけなかった。
追い詰められている彼女のために具体的な行動をする事ができなかった。
姉は何度も俺達家族に助けての合図を送っていたのに。
俺も父も母も最期の最後まで姉のSOSに気づく事なく、彼女を見殺しにしてしまった。
人の心の中なんて想像はできても理解する事はできない。
だから、人は言葉を重ねる事で心の中を言語化しようとする。
重ねた言葉を聞く事で相手の心の中を理解しようとする。
けど、幾ら言葉を重ねても人の心の中を完全に理解する事はできない。
完全に理解する事ができないから、人は無意味な対立をしてしまうし、無価値なすれ違いをしてしまう。
だから、行動しなくちゃいけないのだ。
思っているだけでは何も変えられないから。
たとえ間違っていたとしても、最善の道を選ぶ事ができなくても。
異世界から来た自称悪役令嬢の瞳を覗き込む。
彼女と一緒に過ごして、一年以上が経過した。
にも関わらず、俺は彼女があっちの世界で何をやらかしたのか具体的に聞く事ができていない。
彼女が善人なのか悪人なのか未だに理解できていない。
もしかしたら、彼女を匿っているのは世界的に間違っているのかもしれない。
彼女と共に過ごす日々は最善じゃないかもしれない。
「なあ、リリィ 」
まだ冷たい睦月の風が俺達の肌を撫でる。
俺は何も考える事なく、思った事をそのまま口に出した。
「長生きしろよ」
俺の言葉を聞いた途端、リリィはキョトンとした表情を浮かべる。
そして、俺の過去を知らないにも関わらず、理解している風の満面の笑みを浮かべると、サムズアップを俺に送った。
異世界から悪役令嬢が来て──コロナが流行って、そろそろ一年が経とうとしている。
この一年で異常な日々に適応してしまった俺は、今日もこの魔法も剣もない──コロナが蔓延る世界で長生きしようと足掻いている。
蛇足でしかない後日談。
炬燵の中で丸くなりながらテレビを見ていた彼女は、台所でダイエット料理を作っていた俺を呼び出すと、テレビを見るように促す。
テレビ画面には任○堂のコマーシャルムービーが映し出されていた。
「ねえ、コウ。あれだったら、私、運動続けられるかも」
リング○ィットアドベンチャーに興じる女優の姿を眺めながら、彼女は剥いた蜜柑を口に入れる。
「ねえ、コウ。あれ買ってよ。あれだったら、わざわざ寒い思いして外に出る必要なくなるし」
既に精神がデブの領域に至った彼女は、怠惰的な発言を躊躇う事なく吐き出す。
"どうせ買っても数日で飽きるだろうな"と思いながら、俺は彼女に絶対飲まないであろう条件を突きつけた。
「お菓子、半年分抜くんだったら買ってやるぞ」
「あ、なら、いいです」
そう言って、彼女は蜜柑を平らげると、炬燵の中に隠していたお菓子を取り出した。
……どうやら彼女が生活習慣病になる未来は避けられないらしい。
(完)
異世界から追放された悪役令嬢は身も心も丸くなり過ぎた。怠惰な生活を送っている所為で長生きできないかもしれない。 八百板典人 @norito8989
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