エピローグ

おまじない

 眠ってしまった詩織と一緒にタクシーで家に帰った。詩織をベッドで寝かせ、僕は床で座りながら寝つこうとしていた。が、ある意味で十七年間も、ある意味で一日だけ交際をしていた恋人のことを想い、育ててきた幸せと育ちきってしまった悲しみで胸がいっぱいだった。比喩ではない部分で何かが本当にいっぱいだったらしく、二時ごろ堪らずトイレで吐き出した。胃酸だけの空っぽの吐瀉物を流した後、リビングに光が残っているのに気がつく。覗いてみるとイズミさんがテーブルの上で何かを広げていた。こちらに気がついたイズミさんはそっと広げていたものを閉じたが、それが家族アルバムであることは明白だった。

「起きていたんですか?」

 僕が尋ねる。イズミさんは「眠れなくて」と微笑んだ。

「アルバムなんて広げて、どうしたんですか?」

「数日前に、あなたの恋人に、『亮介をよろしくお願いします』って言われちゃってね」

 僕はイズミさんが閉じたアルバムをもう一度開けた。いつからか僕が写真を徹底的に拒むようになったので、どれも隠し撮りされているような角度ばかりだった。父と一緒に写っているのもあるから、おそらくここに納められた大半の写真を撮ったのはイズミさんなのだろう。その中の一枚に、詩織と写っているものもあった。キッチンで楽しそうに料理をしている僕と詩織、そういえばパンケーキを作っている時にイズミさんが帰ってきたことを思い出した。

「盗撮ですか」

 いつも通り皮肉っぽく言ったが、その実案外悪い気はしていなかった。

「素敵な恋人を持ったのね」

 優しく言う。「ええ、素敵です」僕が胸を張ると、和泉さんはニコニコ笑った。


 目を覚ましたのは渚先輩からの着信音が携帯から鳴り響いた時だった。朝の五時だった。寝ぼけた頭でいつ電話番号を交換しただろうかと考え、夏休みに図書室で会った時だと分かった。僕は身体のあちこちに遊び疲れと睡眠不足の筋肉痛を覚えながら電話を取る。

「詩織はそこにいるか?」

 挨拶もせずに、先輩はそう尋ねてきた。僕はベッドで寝息を立てている詩織をチラリと見た。彼女は、詩織だ。

「ええ、います。詩織が」

「迎えにいく。君のいる住所を教えてくれ」

 まるで身代金交渉の終わった誘拐犯にでもなった気分だった。数分後には渚先輩が父親の車で僕の自宅を訪れ、眠っている詩織を連れて帰った。ボサボサの頭で外に出て詩織を見送った後、澄み切った空を見つめた。秋の空だ。夢から醒めたような明るい空。

 学校に行くまでに、もう一度眠れそうだった。

 



 劇的な程に日々の流れは加速した。学校が再開してから一週間、詩織は詩織でうまくやっているらしい。僕の耳には嫌でも情報が入り込んでくる。やれどの男が話しかけていただの、やれどの男のことを恋しげに見つめていただの、くだらないものも多いが。実際時折廊下で見かけても友達と一緒にいることが多い。とりあえず、人生で初めてのきちんとした学校生活を満喫できているようでよかった。僕がそんなふうに遠目から彼女を見ていると、やはりちょっかいをかけてくるのは浅間だった。

「そんなに気にするなって」

 何かいらない勘違いをしているらしい。僕は彼のよく日に焼けた額を手加減なく叩く。浅間は文句を言いながらもヘラヘラ笑っていたりする。

 僕は僕で案外うまくやれている。学校生活もそれなりに楽しい。学校に来るのが億劫じゃなくなっただけ進歩だろう。でも、ふとした瞬間よぎるのは、素敵で嘘つきで演技達者な郵便屋と過ごした二週間のことだったりする。

 彼女の余韻は僕の中から消える日は来ないのだろう。その方が、いいと思う。

 ところで、最近図書室には行っていない。渚先輩も、そうらしい。


 二つの出来事が重なったのは九月の十日だった。その日の昼休み、教室で食事をとっていた時僕は初めて詩織に話しかけられた。おちょくる浅間たちをこづいてから、彼女の方にいく。少し緊張した面持ちだったが、表情に宿した優しさには見覚えがあった。

 僕と詩織はいつもの空き教室に向かった。いつものように机を向かい合わせにして彼女の言葉を待つ。詩織は言葉を整理している様子だったが、意を決して話し始めた。

「小野寺亮介さんに、お尋ねしたいことがあります」

「うん、なんでもいいよ」

「じゃあ、遠慮なく。あなたは、柴原琴乃さんのお知り合いだったんですか?」

 僕は予想外の角度の質問に驚いた。てっきりそのくらいは共通認識で存在していると思っていたが、冷静に考えてみれば今の詩織が僕と琴乃の関係を知るはずがない。となると、どうやって彼女はその事実を知り、どうしてこんな風に僕を呼び出したりしたのだろう。

「僕たちは恋人だったんだ。それがどうかしたのか?」

 嘘偽りなく答えると、詩織は「やっぱり!」と両手を叩いた。

「実はこの学校に通い始めて数日経って、いろいろな人に出会いました。でも偶然通りかかったあなたを一眼見た時に、明らかに特別な気持ちになったんです。心臓が煩くて仕方がない、こんな気持ちは初めてでした。そこでもしかしたらこの気持ちは私の恩人が抱いていた感情の忘れ物ではないかと、そう思って勇気を持って話しかけたんですが。やっぱりそうでしたか。私冴えてますね」

 僕はおかしくなって吹き出した。詩織がきょとんとした顔でこちらを見ている。僕は目尻の涙を拭きながら肩を揺らした。こっちの詩織も、なかなかに抜けてるやつだ。

「琴乃は僕のことが大好きだったんだ」

 懐かしむように呟く。詩織は頷く。

「そして、僕も負けないくらいに琴乃のことが好きだった」

「どういうところがお好きだったんですか?」

 そう聞かれると、照れ臭い。僕が言葉を濁していると、詩織は真っ直ぐに僕を見た。

「私には、恋がわからないんです。ずっと病院の中で生活してきて、受け取るラブレターの意味すらわからないまま。でも、琴乃さんのおかげでやっと世界に踏み出せた、私の命が始まった。だから、琴乃さんがしていた『恋』の形を、教えていただきたいんです」

 本当に、詩織は変なやつだ。でも、

「相当長くなるぞ。昼休みをいくつも跨ぐくらい」

「構いません。教えてください、恋のこと。そして、私の恩人の、柴原琴乃さんのこと。彼女がどんな人で何を考えていたのか」

 余す所なく教えようと思った。僕と琴乃の間にあったこと。積み重ねた時間と、温もりと、恋と思い出と、その全てを詩織に伝えよう。琴乃の心臓を引き継いだ、清川詩織という女の子に。もしかしたら、少しだけ惚気てしまうかもしれないけれど。

「詩織は『郵便屋』の話を知っているか?」

 彼女は首を横に振る。僕はふふと微笑んだ。

 次は僕が郵便屋になる番だった。

「それじゃあ、お喋りをしよう」


 その日、詩織と一緒に帰り道を辿った後に別れ、一人家路についていると、なんだか懐かしい感じがした。なぜだろうと原因を探すと、おそらくは対向の歩道を歩く二人組の小学生の男女だった。小学校低学年くらいだろうか、楽しそうに手を繋いで歩いている。赤と黒の大きなランドセルが背中で揺れている。歩幅もペースも全く同じで以心伝心という感じだ。

 僕は試しに左手をそっと握る。当たり前だけど空気を掴んで何もなかった。少しだけ寂しくて、少しだけ切なかった。そのまま、とぼとぼと家に帰った。自転車のない下向路は、今の僕には些か長すぎる。

 やっと着いて、ドアを開け、中に入ろうとした。精神的にも肉体的にもヘトヘトだった。そうだというのに、僕の身体はそこで固まる。誰かが僕の背を掴んで言っているような気がした。「やっぱり気がつかなかった」、悪戯っぽい笑い声まで聞こえた、気がした。「鈍いんだから」。

 慌てて鞄を投げ捨て、見渡す。郵便受けが目に止まる。恐る恐る中を開け、そこには郵便広告やくだらないチラシと一緒に封筒が入れられていた。薄い藤色の洋封筒。「亮介へ」の文字。送り主には、「琴乃」。

 それは琴乃から送られてきた、配達日指定をされた手紙だった。

 中には、彼女が詩織として過ごした数ヶ月間に何があったかと、僕へのありったけの恋心が綴られていた。「拝啓」も「敬具」もない彼女からの手紙は、「大好きな亮介」から始まって、「大好きです」で締められていた。

 手紙を読み終わった僕は部屋で一人、静かに泣いた。

 この日のことも、いつか詩織に伝えられるといい。

 僕はボールペンを取り出し、便箋に辿々しくも丁寧に、言葉を乗せていった。文章が下手くそな僕では、納得いくまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。書き上がる頃には、もう夏の残響もなくなっているかもしれない。「待たせすぎじゃない?」、彼女はそう笑うかもしれない。この手紙を出しに裏山に行く頃には、八月の頭に訪れたあの時よりもずっと涼しくなっていることだろう。

 僕は窓の外に目を向けた。

 次の季節が、やってくる。





 昨年、角膜の移植手術を受けた時から、私にできた習慣がある。

 辛い時、苦しい時、瞳を閉じて三秒数える。

 例えばそれは、消えてしまいたいと思った時。

 別に何があるわけでもないけれど、そうすると少しだけ落ち着く。


 教師になったことに後悔はなかった。でも、責められることはあっても褒められることはない、笑われることはあっても感謝されることはない、そんな毎日に。少し。

 今年赴任してきたこの学校の生徒は、皆勉強がとてもよくできる。それ故に新米教師の私の力など期待していない節がある。授業すら聞いてもらえないことだって珍しくはない。

 消えてしまいたい。職員室の机の上でそう思った。いけない、今は仕事中だ。いくら辛くたって、でも、少しだけ。目をとじて、三秒。一、二、三。

「裕子先生?」

 ちょうどその時呼ばれて目を開けた。そこにいたのは三年生の男子生徒だった。名前は確か。

「小野寺君。どうしたの?」

「数三でまたわからない所があって」

 彼はこの学校の生徒でも敬遠するような難しい参考書を手に持っていた。これは大変だ、と思いながらも、頼ってもらえてちょっと嬉しかった。

 私はしばらく頭を捻って何パターンかの解法を彼に示した。彼は一つ聞くたびに大袈裟に頷き、理解できたことが心底嬉しそうな表情を見せていた。

「ありがとうございました。先生本当にすごいですね。とてもわかりやすいです」

 彼は、温かい笑い方をした。いくつ下なのかもわからない男の子の笑顔にドキッとした。

「こんなに難しい問題を解いて、どこを目指しているんだっけ?」

 彼は旧帝国大学の医学部の名前をあげた。

「恋人といつも一緒に勉強しているんですけど、相手の方が勉強が出来て」

 へへへと彼は笑った。惚気られてしまった。私は高校生の瑞々しい恋愛に気恥ずかしくなりながら、その一方で彼に恋人がいることをなぜだか少しだけ残念に思ってしまった。それでも

「ありがとうございました。また聞きにきます」

 彼はニコニコして職員室を出ていった。その笑顔が、絶対に失われて欲しくないと思った。生徒の幸せそうな顔を見ていると、こっちまで嬉しくなる。教師をやる理由なんて、それだけで十分だ。彼の眩しくて温かい笑顔に救われ、気がつくと私は涙を流していた。

 もうすぐあの子たちの受験だ。

 私も頑張ろうと思った。

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消えない言の葉 藤琳吾 @fuji-ringo

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