第30話 テレパシー
しばらく歩くと踏切があって、そこを渡ると一転住宅街が広がっていた。どこにでもある住宅街、例えるならインターネットか画像カタログかに載っていた写真をそのままペーストしたかのような何でもない通り、でもその場所を私はよく知っていた。たった一度しか来たことのない街、それでもその一度を忘れることなんてできるはずがないんだ。
寂れた公園だった。かつてここに来た時よりも雑草が伸びて鬱蒼としているのは、今が夏だからだろうか。冬ならもう少し快適だったのかもしれない。私と亮介はベンチに腰をかける。こんなにこのベンチは窮屈だっただろうか。こんなに狭い公園だっただろうか。いや、時間が流れただけだ。季節が変わるように、命が終わるように、次の季節へと、次の年齢へ、次の関係へと。でも、変わらないものだって一つくらいあってもいい。その一つが、大きく変化した皮を剥いだその内側で体操座りしていたっていい。見つけ出してもらえて、やっとあるべき姿に帰ってきたって、いいんだ。きっと。
「あれが、夏の大三角」
私は真上を見上げ、星をなぞる。亮介は私の言葉を繰り返す。
「あれが夏の大三角」
おかしくて、二人で笑った。背が伸びても、声が変わっても、姿形が変わっても、季節が変わっても、私と亮介の心は帰り道を覚えていたんだ。
「最初は、柴原琴乃が抱いていた好意を亮介に伝えることができれば、それでいいと思っていたの。だから、転校生で琴乃の文通相手の清川詩織として亮介の前に現れた」
私の言葉に亮介は頷く。その相槌が心地よい。
「でも、目があった瞬間二度目の恋に落ちた。亮介が琴乃に恋をしていたことを知り、あなたの恋人になりたいと思った。私の人格が消えてしまう前に、亮介の恋人になりたかった。そんな日々の中で、亮介がどれほど琴乃のことを大切に思ってくれていたのかを、思い知った。そればかりか、今の詩織の姿である私のことも抱きしめてくれた。キスしてくれた」
思い出が通り過ぎる。田舎の夜、見上げれば満月を覆う光のカーテンも、七夕に出会う幸福な恋人たちも、星々のせせらぐ天の川も全部見渡せた。
亮介は私の手をぎゅっと握って、その結び目を確かめるように視線を落とした。
「君の演技が上手すぎるのがいけないんだよ」
「ファミレスで褒められた時、泣いてしまうくらい嬉しかったよ」
「こんなに上手いと、お手上げだ」
亮介はおどけて見せた。
「最後まで気が付けなかったなんて、幼馴染みとして情けないや」
「ううん、二回も私のことを好きになってくれてありがとう。幸せだったよ」
本当に幸せな日々だった。幸せとしか言いようがないほどに、幸せで幸せだった。
「君の人格は、いつか消えてしまうんだな?」
亮介は寂しげに言った。
「明日には、きっともう」
唖然としてわかりやすい絶望が浮かんだ亮介の顔は、すぐに悟ったようになり、何かを堪えて、決壊して少し泣いて、また元の優しい顔になった。
「僕はいつも、いつでも鈍くて手遅れだな」
私は首を横に振る。
「ううん。間に合ったよ。だってこんなに正直に話せているんだもん」
「そっか」
「そう。敬語も、さん付けもいらない。私の亮介、大切な幼馴染み」
「恋人じゃ、ダメか」
「そっちの方が、いい」
二人で笑った。笑って、泣いた。
「私、最近人生で初めて、こんなことを思うようになったの」
「ん?」
「生きたい、って。おかしいよね、だって、一度死んでいるのに」
亮介は「そんなことはないさ」と遠い目をした。
「え?」
「思えば、琴乃くらいしか生きがいのない人生だった。そしてその琴乃すら失った。死ぬことばかり考えていた。そこに、女の子が現れた。その人は昔の琴乃を思わせる天真爛漫さと鋭さと、それでいておっちょこちょいさを持っていて、毎日退屈しなかった。生きているのも、悪くないと思えたんだ。その人に琴乃が僕のことを友人としてしか思っていなかったと聞かされた時はさすがに失恋の苦みに打ちひしがれたけど、隣にその子がいれば案外平気だった。笑う余裕さえあった。だからその人から突然キスされた時は、困惑しつつも多分嬉しかったんだと思う。そして、その人を守ると決めた時、僕の中には生きがいがキラキラ光っていた。消極的な生き方しか知らなかった自分が、気がつけばやっと誰かと幸せになる選択肢を選び始めていたんだ。霧が晴れた気分だった」
「亮介……」
「僕は、君のおかげでこの一ヶ月。やっと幸せになれたよ。本当は琴乃と一緒に幸せになれたらよかったのだけれど」
「ばか。何言ってるのよ」
精一杯、震える声で、笑い飛ばしてみた。
「こんな幸せじゃ足りないでしょ? 私の分まで、幸せになってくれないと」
「琴乃……」
「じゃないと、化けて出るから」
「はは……。琴乃が化けて出るなら、それもいいかもな」
「もう。そんなこと言って」
もの寂しい二本の笑い声が遠くまで伸びる。私たちはどちらともなく目を合わせ、唇を重ねた。唇越しに、余すところなく全てを伝えた。二回分の人生で培った愛と、恋の全てを。それは手紙に落としたどんな言葉よりも不格好で歪で間違いだらけで、それでも繊細で確かで間違いなかった。私はこの人に恋したんだ。うんざりするほど長くて、呆れるほど短い二回の恋。私はこの人と恋をするために、恋を確かめるために、このたった数時間を一緒に過ごすためだけに生きてきたんだ。今、世界の秘密の鍵は開く。幸せの答えを知る。そこには哲学も心理学もなくて、ただ恋だけがあった。
「この幸せをこれからの人生で超えるなんて、そんな約束はできないけれどさ」
「うん」
「生きるよ」
「なら、よし」
私は亮介にもたれかかる。亮介が膝枕してくれる。短い二度目の人生はもう終わる。それを亮介の膝の上で迎えられたら。詩織には申し訳ないけれどこれが本当に最後のわがまま。
「死にたくないなあ」
あ、また泣いてしまった。本当に、すぐ泣く。昔から私は
「泣き虫だなあ」
亮介がポロポロと涙をこぼしながら呟いた。あ、通じ合った。テレパシーで繋がった。私は泣きながら笑った。涙に霞んだ夜空から、燦々と光が降り注ぐ。私の人格は、空っぽに近づく。だからできるだけ亮介を詰め込もう。真っ白なら、亮介の色で塗りたくればいい。目を閉じて三つ数える。目を開けてもまだ亮介がいる。うれしいな。
私は私を抱く亮介の手の甲に控えめにキスをした。亮介はくすぐったそうにして、それから仕返しするみたいに私の髪の毛を撫でた。こうされるのが本当に好きだった。
私はあなたが、大好きなんだ。
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