第29話 亮介と琴乃

 結論から言うと、八月に入ってから唯一亮介と会っていなかったあのお盆の日に鍵は隠されていた。夏の境目に、亮介は私と詩織の真実に迫っていたのだ。

 あの二日間、私はとある別の作業に明け暮れていた。詩織の勉強机に向かい合い、少し腰が痛くなるくらいにその作業は長引いた。だから私の脳からは、その間に何が起きていたかを考えるだけの処理能力的な余裕がなかったのだ。あるいは、私がずっと亮介に嘘を並べ続けてきたからこそ相手の発言を疑うだけの気持ち的な余裕がなくて、彼がついたたった一つの嘘に気が付けなかっただけなのかもしれない。「家族と旅行」、柴原琴乃なら間違いなく気がつけたはずの彼の嘘に、私はまんまと騙されてしまった。

 二人分の体重を乗せた自転車が夜道を行く。ブロック塀の大きな民家の横を抜けた時にカレーの匂いがした。常夜灯に名前もない小さな虫が集う。その灯りのもとでアブラセミの死骸が転がっている。どこか満足げなのは、夏を満喫したからなのだろうか。

「市内の部活動が完全休養日に指定されている盆休みの間にも、うちの高校は一日だけ生徒に開放される。それは図書室も同様なんだ」

 亮介が言った。私はまだ柴原琴乃だった昨年の夏休み前にもらったプリントにそんなようなことが書いてあったのを思い出す。同時に私はピンと来る。渚は図書委員だ。

「僕は一種の確信を持って図書室を訪れた。君と過ごす一日を犠牲にしてでも、僕はある人に会わなければならなかったんだ。果たして、やはり彼はいた。ただ、いつものように本を読んだり受験問題を解いたりしているわけではなかった。渚先輩は椅子に深くもたれかかって、天井をぼんやりと見つめていた。まるで、僕が来ることをわかっているみたいに」

 私は目を閉じてその光景を想像してみた。まるで森の奥みたいな静謐の中で言葉を交わす渚と亮介。私の大切な人たち。

「まず僕が渚先輩に詩織の体調を尋ねると、彼は問題ないよと教えてくれた」

 私は目を見開いた。亮介は続ける。

「ホッとしたよ。よく薬を飲んでいたものだから、もしかしかしたらまだ心臓が悪いのかと思ってさ。それなのにあちこち連れまわしてしまっていたことに、ずっと不安があったから」

 少し、綻んでしまう。拍子に入ってきた空気は、夏の香り。

「何度も、大丈夫だって言ったのに」

 一緒に過ごすようになってから亮介はずっと私の体調について気を配っていた。私はその度に心配いらないと言っていたのだけれど、どうやら彼の心配性と優しさを私は甘くみていたらしい。他にも彼には気がかりなことはあったはずだ。私が吐いてきた嘘のことだって、警戒心の強い彼が忘れ去ることなどできようはずもない。そうなのに、どうしてこんなに。少し、彼の背を包むその両腕の力が強くなる。亮介は一瞬片手運転になって、抱き締める私の手に空いた右手を重ねた。ちょっと、いやらしいさすり方だ。変な声が出てしまう。

「次に僕は、渚先輩と詩織の関係について尋ねた。なんとなく詩織には尋ねづらくて避けていたのだけれど、やっぱり、兄妹だったんだな。霊園で渚先輩と会った時少し混乱したが、二人の目鼻立ちの印象が思えば近しいことに気がついた。実は、兄妹だと知って少し安心した自分がいたりしたんだ」

 亮介は、笑った。「思えばずっと詩織に首っ丈だったんだ」、なんて軽やかに。

「そして僕は彼に、ある噂話の真偽を問うた」

「噂話?」

「清川詩織が心臓移植の手術を受けたという噂話だ。ずっと高校に籍をおいていながら心臓の病の影響で学校に来れていない、最近学校に復帰できたのは心臓移植手術が成功したからだ。そんな話を、詩織の中学校からの同級生に聞いたんだ」

「それで?」

「彼は『真実だよ』と、頷いた。『五月に交通事故で脳死してしまった同年代の女性の心臓移植を受けることができた』、彼はそう教えてくれた。それは、僕の推理をぐっと前に進めてくれる大ヒントだった。礼を言って図書室から去ろうとして、僕は最後に彼に聞いた。『柴原琴乃という女の子を知っていますか?』、だが彼は答えを濁した。」

 亮介は渚から全てを聞いたのだと私は早合点をしていた。だから亮介の話を聞いて少し意外に思った。渚が詩織の人格が琴乃のものであると亮介に伝えたわけではないのだな。

「学校から出た僕は、その足で自転車を転がして市立図書館に行った。汗で湿った学生服のまま行くのは少し億劫だったけれど、少しの時間も惜しかった。図書館に着いた僕はまずPCを借りてインターネットで今年の五月に起きた交通事故について調べた。まずは市内、それから県内、東海地方と範囲を広げていった。総合すると、東海地方内で五月中に女子高生の身に起きた死亡事故発生件数は八件、そのうち乗車中の事故だった三件を除いた歩行者対自動車の死亡事故は五件だった。無論そのうち一つが琴乃のものであるのは明らかだったのだが、僕はいまいち確信が持てないまま他にも色々調べていった。目を引いたのは、七月最初の地方新聞の朝刊に載っていた小さな記事だった。そこには、藍祥市で五月に発生した女子高生の死亡事故の第一回の公判が地裁で行われたと書いてあった。僕はそこに目を走らせる。記事の終わりの方に被害者遺族の言葉が載っていた。『娘は最後に人助けをした。父として誇りに思う』、そして被害者がドナーとして全ての臓器を難病に苦しむ人に提供したという情報で記事は締められていた。間違いなく琴乃の記事だった。何せ五月に藍祥で起きた女子高生の死亡事故は一件だ。この記事を読んだ僕は、自分の推理が間違っていないことを確信した。心臓病の清川詩織に移植された心臓は、柴原琴乃のものだったんだな?」

 亮介はすごい。私と違ってとんでもないくらいに頭がいい。私は彼が真実に迫った過程を知って、驚くと同時にすっかり感心してしまった。亮介は続ける。

「翌日、僕はまた図書館に訪れた。朝から心臓病や心臓移植に関する学術記事や書籍を片っ端から調べ上げていった。これは余談なんだが、そうして本を読んでいくと僕はあることに気がついた。実は僕が図書室を訪れたとき一度、渚先輩が見慣れない図表のたくさん載った本を必死にメモを取りながら読んでいたことがあったのだけれど、あの時渚先輩は僕と同じように心臓病について勉強していたからなんだな。それに気がついたのは、医学の学術記事や本が、信じられないくらい難しくてメモでも取らないとまともに読めないと理解したからなんだがな。慣れない活字の瓦礫をかき分けながら進んでいく中で、ある単語が紹介されていた。『記憶転移』、僕はこれだと思い記憶転移についてとにかく漁った。インターネット上で目についた記事は全部印刷した。五時のチャイムがなる頃には、僕の考えはおおよそ纏まっていた。つまり、詩織は琴乃の記憶を持っているのではないか、という考えだった。それはこれまでのどの仮定よりもずっと現実味があるように思えた。多分、そこまでこれば真実まではあと一歩だったんだろうけれどな。おそらく、『ゆうやけこやけ』が八時の『蛍の光』になるまでの三時間があれば、十分に真実を導く材料も揃ったんだろうけれど。でも、実はそこまでたどり着いて、もうどうだって良くなっていたんだ。何せ、心臓移植のハードさや心臓病の大変さを調べていく中で嫌というほど思い知ったんだ。僕は詩織の嘘や琴乃との関係の真実を頭から暴こうとするより、今すぐ抱きしめてあげたくなった。今詩織が息をしているという事実と、琴乃の心臓が詩織の中で脈を打っているという事実で十分だった。そこに、かつての琴乃の記憶なんてあろうものなら、そんな幸福に対して何もいうことはない。僕は最後に愛知県の旅行者ガイドブックを二冊借りて、ゆっくり読みながら明日以降のデートのことを考えていた」

「亮介……」

「結局僕はそれ以降あまり深く考えないように努めてはいたんだけどな。それでもチラチラと目に入るのは細かな仕草だった。髪を耳の後ろにかきあげたり、照れ臭そうに笑う表情だったり、僕はそれを見て、やっぱり琴乃を思わずにはいられなかった。記憶転移では説明できないくらいに。それどころか、多分琴乃と一緒にいる時と同じ感情に包まれた。その時間は幸せで優しくて、それでもどうしても詩織には申し訳なくて。ただ、心のどこかがその感覚を錯覚でないと、訴え続けてきていたんだ。多分、それは出会った瞬間から」

「え?」

 亮介の、自転車が止まる。そこは街灯すらほとんどない、稲の海の防波堤だった。亮介は自転車を降り、私のことも降ろした。自転車を畦道に捨てた亮介は私の手を引いて歩き始めた。視界を広く持つと、星が落ちてきそうな夜だった。あるいは、空の輝きに吸い込まれそうになる程美しい夜だった。私たちを邪魔するものは、何一つない。

 歩いていく。足音は最初からずっと重なっている。私は亮介の歩幅を知っている、亮介は私の歩幅を知っている。単調なベースラインにフェイクを混ぜたように、小気味よく虫の声がする。心臓が煩かったり鼻息が聞こえたり。こうしてみると、夜も意外と音で溢れている。でも、何もなくなってしまったみたいに空気は透き通っている。思い出すのは、詩織として初めて亮介に出会ったあの瞬間のこと。静寂という音が図書室に響いていたあの時のこと。

「僕は図書室のあの沈黙に、瞳の奥の煌めきに、琴乃を感じた」

 月の光が妙にぼやけるのは、視界が霞んでいるから。

「亮介……」

「恋をしていた。琴乃であり、詩織である君に」

 足音がずれたのは、涙でうまく歩けなかったから。

「ずっとそばにいてくれたんだな」

 亮介に抱きついたのは、亮介のことが大好きだから。世界で一番好きだから。

 眩しい夜だった。

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