第28話 真実

 八月最後の日、ひぐらしの声で私は目を覚ました。今日も朝九時に市役所近くのコンビニで待ち合わせをしている。アウトレットのショッピングモールで亮介と一緒に選んだひまわり色のワンピースを着て麦わら帽子を頭にはめ、鏡の前で確かめる。やはり、特別に可愛い。借り物のこの身体を、いつからか自分のものと同じように愛せるようになったのは、いつからだろう。私は鏡に微笑みかけ、リップクリームを塗って洗面所を出た。ちょうど渚と鉢合わせた。

「おはよう」

 渚は私に眠そうに言う。今からお出かけの私はそれに快活に返す。

「おはようございます。今日も晴れましたね」

 渚は外倒しの窓を開け、青色の空を見て目を細めた。「いい天気だ」、柔らかい笑顔を見せる。

「今日も、デートか?」

 私は頷く。渚はいいことだと嫌味っぽくない感じで笑う。

「ごめんなさい。こんな自分勝手」

 渚は首を横に振った。

「そう思うなら、しっかり恋を楽しんでこい」

 風が吹いた。渚の髪の毛がふわふわ揺れている。その横顔が凛として見えた。柴原琴乃は一人っ子だったけれど。二度目の人生は、

「渚さんが、私の兄で本当によかった」

 渚は私を見て、「そりゃどうも」と肩を揺すって白い歯を見せ、洗面所に入っていった。

 彼にも散々迷惑をかけたのに、こうして優しい言葉をかけてくれる。

 妹というのも、悪くないと思う。きっと私の一周目に亮介という眩しい太陽がなかったら、私は彼の放つ朝焼けのような輝きの前にあっけなく恋に落ちていたんだろう。

「行ってきます」

 渚が短く何かを返してくれた。


 八月最後の日にふさわしい全てを燃やし尽くすような炎天下、野暮用で郵便局に寄った後に汗だくでコンビニの中に入ると既に亮介が中で漫画を読んで待っていた。白色のTシャツに濃紺のジーパン、コンバースのスニーカー。こちらも私がアウトレットで選んだものばかり。シンプルだけど野暮ったくはない。亮介は元がいいから、こういう爽やかな洋服がよく似合う。亮介は漫画をパタリと畳むと、私の格好を見て新しい汗を浮かべながら言った。

「可愛いじゃないか」

 私は身体の内側からくすぐったくなるのを感じながら亮介の格好を同じ風に褒めた。いつもと同じやりとり。今日が始まった合図だ。

 二人でアイスを選んで外に出て、コンビニの壁にもたれかかりながらそれを食べた。私がサイダーの棒アイスで亮介がバニラのカップアイス。一口ずつ交換した。亮介のスプーンには特別な魔法がかかっていて、アイスを食べたはずなのに身体は火照ってしまった。私たちのおしゃべりをアイスがのんびり待ってくれるわけもなく、最後の一口は棒から溢れて熱されたアスファルトに小さな海を作った。夏の熱に溶けていくその様を見て何か象徴的なものを感じないわけではなかったが、隣で亮介が笑っていたのでそれでよかった。私は当たりのマークも無い濡れたアイスの棒をゴミ箱に入れた。

「今日は、どこへ行こうか」

 亮介が銀色の自転車のスタンドを蹴り上げる。私は後部の荷台に腰を乗せる。

「実は、行きたい場所があります」

「じゃあ、案内してくれ」

 亮介はペダルを漕ぎ出した。私たちは夏の風になる。私は亮介の腰につかまりながら道案内をした。時折わざと間違える。亮介は文句を言いながら笑う。だから私はちょっかいを出したくなる。亮介はジタバタと後輪を揺らして私に対抗してくる。身体は何度もぶつかる。一瞬衝撃で離され、次にはもう離れまいと先ほど以上に密着している。目的地に着いた時にはもう肌に浮かぶ水滴が自分の汗なのか亮介の汗なのかすらよくわからなかった。

「ここは?」

 亮介が戸惑うのも無理はない。そこは人目見るとなんてことない一軒家だった。強いて違うところがあるとすれば、家の前に黒板とチョークで何かが書いてあるところくらいだ。

「入ってからのお楽しみ」

 私は亮介の手を引いてドアの前に立ち、インターホンを押す。すると中から気の良さそうなおばさんが出てくる。彼女は私の姿を認めると、すぐにその隣にいる男の子に興味を持った様子だった。彼女は大はしゃぎで私たちを中に招いた。亮介はまだ困惑していたが、中に入って私の意図を理解したらしい。自らの伸びきった前髪を人差し指で丸めて見せた。

「いらっしゃい、詩織ちゃん。一ヶ月前に切ったばかりなのにまた予約かと思ったら、なるほどね。そういうことならもっとちゃんと準備したのに」

 捲し立てるようにそう言った彼女は奥に行っていろいろ準備を始めた。亮介は無言でこちらを見ている。私は気をつけして亮介と向き合うと、選手宣誓みたいにハキハキ言った。

「今から髪を切ってもらいます」

「まあ、そうだろうな」

 亮介は大きな二枚の鏡とそれに向かい合う形の大きなシングルソファに視線を向けた。確かに、これを見て美容院だと思わない方がどうかしてる。

「で、私の希望の髪型にして欲しいんです」

「ああ、構わないよ」

 どうせ髪型になんてさしたる興味もない、とでも言うかのように亮介は快諾した。私は喜んで希望を事細かに美容師のおばさんに伝える。彼女は「あ、似合いそう」など、こちらが気持ち良くなるくらいの相槌をして私の希望を聞き入れてくれた。この人は、学校に通い始める前に私のヘアセットをしてくれた人だ。腕は間違いない。

 彼女の提案で、亮介のカットとセットの間、私はDVDポータブルプレーヤーを借り、イヤホンをして付き添い用のスペースで映画を見た。もちろん映画が見たかったわけじゃない。ただ、視覚と聴覚を一時的に隔離しておくことで、髪型が仕上がっていく過程に触れないでおこうということだ。その方が驚きもときめきも倍増する、らしい。彼女が自信満々に言っていた。

 私はそこまで興味もない洋画を見ている間ずっと亮介の今の状況が気になり続けた。何度もこっそり覗いてしまおうかとも思った。でもグッと堪え、私は美男美女の退屈な会話に眼球を貼り付け続けた。どれほど経っただろう、面白くなかった映画をそこそこ面白く感じ始めた時、とでもいうのが正確なのだろうか。私の肩を美容師さんがトントンと叩いた。イヤホンを外し、目を伏せ彼女の導くまま店の中を移動した。低く保った視線に亮介のデニムが映り込む。「顔を上げていいわよ」と面白がっている美容師さんの声がする。私は慣れない緊張感に包まれながら顔を上げる。つい、漏らしてしまう。

「かっこいい」

 瑞々しいトマトみたいな照れ顔、その顔もやっぱり凛々しくて、そしてその顔のパーツの良さや輪郭のスムーズさを爽やかで夏らしいこの髪型が引き立てている。サイドを刈り上げトップも短く整えられている、いわゆるツーブロックに近い髪型だ。私のイメージ以上の完成度だった。かつてスポーツ刈りで走り回っていた少年が順当に成長したような雰囲気。今の彼は、定規で測ったって寸分の狂いもない、まさに私の理想の男の子だ。

「髪の毛が急に短くなって、スースーするな」

 亮介ははにかみながら髪を指の先で摘んでみる。結構気に入っているみたいで良かった。

「本当に、格好いいですよ」

「うん。ありがとう」

 私たちのやりとりを聞いていた美容師のおばさんは、たまらず目を覆っていた。


 今日の私はいつにも増してわがままだ。髪を切ったばかりの亮介にねだって、自転車で二人乗りをしながら藍祥のあちこちを巡った。「藍祥という街のことをもっと知りたい」という建前で、自分の育った街の一つ一つを見て回る。亮介が紹介するのは、かつて私と共に過ごしたの場所ばかりだった。昔駄菓子屋があった場所、少し足を伸ばして訪れた公園、秋に赤色の化粧をする並木道。そうした流れゆく景色の一つ一つに思い出が弾けていった。それぞれの思い出に、詩織に借りたレンズを通して捉えた今この瞬間が上書きされていく。柴原琴乃と私の視界は一つに重なる。あの時亮介に恋をしていて、今も亮介に恋をしている。バトンは恋心だった。あの日から今日へ、一周目から二周目へ、想いは繋がる。

 私の自我は明日死ぬ。もう抗えない。本当にこの時間が永遠に続けばいいと思った。心の底からそう思った。移ろう風景に身を任せる。夏の熱気に引き伸ばされたのか、かえってエンジンが加速したのか、時間の進み方はめちゃくちゃだった。もしかしたらこの調子で逆方向に進まないかなんて期待もしたけれど、そう都合よく物事はいかない。亮介の背中にはどんどん汗がにじんでいき、彼の体温も確かに私の心を震わせ、そうして少し溢れた涙もアスファルトに吸い込まれてもう帰ってはこない。一度きりの時間だから、今日までの幸福だから、こんなにも美しいんだ。

 気がつくと世界は夕暮れだった。街は家に帰り始めている。藍祥を一周したヘトヘトの自転車が見慣れた田園風景の真ん中でピタリと止まる。秋の涼しい風が二人の間を通り抜けた。青い稲穂が一斉に流れる。特別な夏が、終わる。

「お喋りをしよう」

 亮介がハンドルに体重を預け、こちらを見ずに話始める。これが最後の思い出話になるだろうと思った。柴原琴乃を好きになってくれて、その上私のことをこれほど大切にしてくれてありがとう。私の心は取り戻せない時間を懐かしみきるだけの準備をしていた。でも亮介の口調は必ずしもそうじゃなかった。

「僕の好きな人の話だ」

 息を飲んで耳を澄ませる。風の音も、虫の声も、車も鳥も、全てがなくなる。世界は二人きり。私は亮介のことだけを想う。

「その人は、とても綺麗なんだ。どうしようもないくらいの美人で、信じられないくらい笑顔が可愛い。そして僕はその人と一緒にいると、やっと息苦しくない場所に出てこれたような、そんな感じがするんだ。無理しなくていい、着飾らなくても虚勢を張らなくてもいい。お日様みたいに眩しくて、お月様みたいに優しい、そんな女の子。そんな気持ちにさせてくれた、二人目の人。それが、その人こそが、君なんだ。詩織」

 時すら、止まる。私は目を見開いた。

「大好きだ。詩織」

 黙りこくる私に、亮介はゆっくりと、たったの一文字分も妥協しない言葉遣いで紡ぎ出す。

「だからこそ、本当にごめん」

 亮介の身体が震えている。今すぐ抱きしめてあげたいと思う。でも、きっと彼はそれを望まない。だから、彼の言葉を待つ。言葉の意味を待つ。

「ずっと、謝りたかった。僕は君のその美しい姿に、僕の誰よりも大事な人の影を重ねていた。君に恋しながら、思い出すのはいつも琴乃のことだった。満たされていながら、後ろ暗い気持ちばかりが僕を追い越していた。これ以上一緒にいても、君を傷つけてしまう」

 私は亮介の背中に頬を寄せて、一筋涙を流した。悲しくて、幸せだった。その言葉が持つ意味は取り返しのつかない別れであって、それでも失敗続きだった自分の人生を完全に肯定してくれる、そんな優しすぎる別れの言葉だった。柴原琴乃としての私も、清川詩織の皮を被った私も、その言葉に救われる。生きていて良かったと思える。両想いだった。大好きな人と二回も両想いになれたのだ。私はゆっくり自転車を降りる。少し歩いて、亮介を向き直る。

「さようなら。幸せでした」

 それで終わっていれば、良かったのかも知れない。でも私は最後に衝動的に求めてしまった。

「最後に、抱きしめてください」

 声が震えた。亮介は静かに頷く。結晶みたいに繊細な視線の交わりが、決して途切れない。

 自転車が倒れる音が、夏に取り残される。亮介がまっすぐ私に向かって歩く。私はその場でただ亮介を待つ。二人の影が赤く染まった田にずっと伸びている。

 急に風の音がした。次には抱きしめられていた。ずっと亮介に恋し続けてきたこの心臓は、今鼓動を続けてきた意味を知る。無駄じゃなかったと理解する。

 だって、こんなにドキドキしている。亮介のハグは、優しかった。愛の肌触りが感じられるほど、偽りがなかった。私はこの感触をずっと確かめていたかった。ゆっくりと、瞼を落とす。

 唇が、湿った。息ができなくなる。焦って、すぐにその焦りを多幸感が追い越した。何が起きたのか、確認する必要はなかった。視界を塞いだまま身体の全神経を触覚に集中させ、ひたすらに唇越しの熱を自分の方に移す。少し背伸びしてみる。亮介がより深く私を抱きしめてくれた。長い長いキスだった。人生で三回目のキスは、人生で初めてのキスだった。亮介の方から、キスしてくれた。これが本当のキスなんだと、そう思った。

 次に目を開けた時、涙でよく見えなかった。代わりに耳は冴えていた。

「また、出会えた」

 触れ合った肌の感触で、亮介が微笑んだのがわかった。私は驚き首を傾げる。亮介はもう一度私のことをきつく抱きしめた。大切な幼馴染みにそうするみたいに。

「やっと見つけた。ずっと会いたかった」

 開いた口が塞がらない。大好きな人に抱きしめられる世の女の子の中できっと一番間抜けな顔をしている私に、亮介はそっと額を合わせた。そして亮介は、こんなに開けた田園風景の真ん中で、教室の隅で恋の話でもするみたいに、世界の秘密をふたりじめするみたいに、ひそひそ声で私に言った。

「やっぱり、琴乃なんだな」

 指先が震える。心臓がはしゃいでいる。幸せに思考が妨害されてうまくまとまらない。

「どうして……?」

 亮介はもう一度キスをした。一回目みたいにドキドキした。ファーストキスみたいに嬉しかった。亮介は「ほらね」と長い睫毛を揺らした。

「他の女の子で、キスやハグがこんなに幸せなもんか」

 私がこの人をこれほど好きになってしまった意味が、分かる。

「亮介……」

 輪郭をなぞるような声で呼ぶ。呼び捨てで、呼んでみる。

「うん」

 亮介が、そう言った。

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