第27話 私の二度目の人生

 お盆の二日間を除いて私と亮介は毎日朝から晩まで一緒に過ごした。光に満ちた時間だった。こんな風に夏休みが亮介に彩られるのは小学校の頃以来だった。あの頃のように無邪気に彼にボディタッチしたりは出来ないけれど、あの頃と違って少し触れ合う指先に照れた表情を見せる亮介を楽しむことはできる。面と向かって好意を伝えるのは憚られるけれど、もっとずっと多くの卑怯な手段で私たちは愛情の交換ができる。あの頃より、私はほんの少しだけ大人になった。亮介はとても大人になった。だから、私はちょっとだけ上手に振る舞える。彼はそのちょっとしたことに、ときめいてくれる。耳まで真っ赤になってしまう。そんな亮介を抱きしめたくなる。計算高い、というのとは少し違うと思う。私は亮介の照れた仕草を見たいだけ。少しでも彼との交点を確かめていたいだけ。ハグやキスが素敵なのと、きっと同じだと思う。

 当たり前だけど、亮介は今の私がかつて柴原琴乃であったことなんて知らない。亮介の中で柴原琴乃との時間はきっと昇華され煌く星の一つに変わり、今の私との時間は別の地平で捉えてくれているんだと思う。だから、彼にとっては私とのこれは刹那的なものなんだろう。私と出会って過ごした短い時間で私に何かしらの好意を覚えてくれた、そこに琴乃のことは関係がない。当然と言えば当然だ。でも、ある意味で大きなイノベーションを遂げた私と異なり、少し顔つきが大人びて、かなり背が伸びて、笑顔がどこか強張っていても、亮介は亮介のままだ。私は今でも半分だけテレパシーが使える。気持ちを伝えることはできなくとも、彼の気持ちを汲み取ることはできる。彼の抱いた感情は私の中で二倍三倍に膨れ上がる。

 私は亮介のことが好きだ。そして、好きでいてもいいのが、嬉しかった。


 二人でいろいろな場所に行った。八月の初旬、県内の私鉄を三回乗り継いで海水浴場に赴いた。亮介がまじまじと私の水着姿を見てきてえっちだった。最初は否定を続けていた亮介だけれど、パラソルの中で照れ臭そうに「詩織が魅力的だから困る」だなんて言ってきて、二人して撃沈した。火照った身体を冷やしたくて冷たい海に飛び込んでからは、一つの浮き輪に捕まって二人で波に揺られ続けた。空の上で大騒ぎを続けていた太陽が水平線の向こうで海水浴を始めると、ビーチからは少しずつ人が掃けていき、あたりは夕暮れの侘しさに包まれた。私たちはパラソルの伸びきった影の中で身体をひっつけて座りながら、お喋りをした。

「琴乃さんと、海水浴に来た時はどうだったの?」

 私は彼に尋ねる。彼の口から紡ぎ出される言葉は優しかった。琴乃として生きてきた年月が、決して無駄じゃなかったと思えた。あの時の私と、同じことを彼も考えていた。

 海面を橙色に染め上げる夕日が少し眩しくて、私は亮介の腕の中に隠れた。


 そんなふうな楽しい思い出は数えだしたらキリがない。川沿いでバーベキューをした時、途中で通り雨に襲われて二人で水浸しになりながら生焼けの野菜を食べ、「美味しくないね」と笑った。サイクリングに出かけて調子に乗って行きすぎて、知らない街で道に迷った。隣町の花火大会では、どちらからともなく手を繋いだ。人混みの中遠くで光る花火の熱気や音や色は何一つ私の心に落ちなかったけれど、亮介の体温と亮介の鼓動がすぐそこにあって、亮介の瞳の中で花火が煌めいていたから、他には何もいらないと思った。ただ、ありもしない永遠を花火の音に祈ることだけが私にできる精一杯だった。最後の枝垂柳が闇夜の底に落ちていった時、「また来ような」、そう言って亮介の方から指を絡めてくれた。ちょっとだけ、切なかった。少しでも長く一緒にいたくて、帰り道はわざっとゆっくり歩いた。草履が歩きにくいという言い訳、にぶちんの亮介はきっと真に受けたことだろう。花火大会は、そんな感じだった。

 毎日遊んだ。遊び疲れたら、亮介の部屋で眠った。お小遣いが底をつくと、校則もなんのそので日雇いのイベントスタッフのアルバイトを入れた。若者は重宝されるようで、遊園地や水族館で重たいものを持ったり子供たちの面倒をみたりして、大変だったけれど亮介と一緒なら結構楽しかったりした。その場渡しの給与で財布が潤うと、お金持ちだと言いながらまた次の遊ぶ予定を立てた。なんだか大学生にでもなった気分だった。

 亮介が家族旅行に行った盆の二日を越えた後は、加速度的にカレンダーの進みも早くなった。見て見ぬふりをしていた終わりの日を、少しづつ世界が捉え始めている。どんなに薄く引き伸ばしても、時は不可逆的に進む。マジックペンでカレンダーに付けたバツ印を消せないのと一緒だ。終わりが近づくにつれて身体に何か異変が起こることはなかったけれど、砂時計の砂が落ちていくように、時間が経つほどに確実に自分から何かが擦り切れていく感覚はあった。この夏いっぱいでそれが尽きるのも、直感的に理解できた。七日目のセミが一番騒がしいのに似ているのかも知れない。私は八月がすり減っていくのにつれて、亮介に接触したい気持ちがより強まっていった。もう手を繋いだというトロフィーを眺めているには私の先は短すぎた。それでも、決して私は一線を超えなかった。亮介に想いを伝えることさえしないと決めていた。これ以上幸せになってしまうと、私はきっとこの世界に取り残される彼の悲しみに耐えられなくなる。アディショナルタイムを終えた私が詩織にバトンを渡すためにも、私はこの幸せに溺れてはいけないんだ。私が消えゆくことを知らない亮介に、何も言わずに別れてしまうのは本当に申し訳ないけれど。それでも、今の形が一番美しいんだと思う。一番綺麗なんだと思う。

 夏が終わる。私の二度目の人生が終わる。

 この恋が終わる。

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