第26話 明日の話
雨音だけがさんざめく田舎町を無言で歩いて着いたのは亮介の家だった。この場所を訪れるのも小学校以来だった。ガレージには赤いプリウスが停まっている。私は亮介の案内するまま久しぶりにこの家に入り、亮介に連れられ先に風呂を借りた。風呂場に向かうまでの廊下からキッチンを覗くと見慣れない女の人がいた。綺麗な女性だった。この人が亮介の継母にあたる人なんだろうと思った。彼女は私のことを見ると、一瞬驚いたような表情を見せながらも、穏やかな感じで会釈してくれた。
熱いシャワーで涙に汚れた跡を洗い流しながら、自分の犯した過ちを数えた。彼に吐いた嘘の数々、そして転校生という偽りの立場を利用した狡いお願いに、強引なキス。亮介は利発な人間なので、その全てとは言わずとも私の所業の大半は理解していることだろう。それなのに、彼はこうして雨に打たれている私を家にあげてシャワーを貸してくれている。相変わらず、少し損なくらいにお人好しだ。こんなことでは誰か悪人につけ込まれてしまうだろう。まるで私がそうしたように。私は彼と一緒にいてはいけない女なのだと、つくづく思う。こうしていると別の涙が出てきてしまいそうだ。私は呼吸を整えて風呂場から出た。脱衣所にはTシャツとスポーツパンツ、それに男物ながら新品の下着と肌着も置いてあった。この辺の不器用でありがたい気遣いは、さすがだと思う。私は一通り身につけて、そのどこかに亮介の温もりを感じながら脱衣所を出た。そのタイミングでちょうど亮介もリビングから出てきて、私たちはバッタリ顔を合わせた。そして、同時に目を逸らした。
「ありがとうございました」
私が細々言うと、亮介は赤らんだ頬を軽く掻きながら私に部屋でくつろいでいるように言った。彼も照れているんだと一目で分かる。キスのことを思い出しているのかもしれない。
私は彼の言った通り、幼い頃から何度も入って遊んできた亮介の部屋に足を踏み入れた。亮介の部屋は物に溢れているという感じでもないが物足りなくもなくて、それでいて整理も行き届いていた。私のよく知る亮介の部屋の雰囲気と、大まかには変わっていなさそうだ。
机の上では私がいつの日か秘密基地の郵便ポストに投函した手紙が広がっていた。ずいぶん見つかるのが早かった。私はそれを嬉しくも、悲しくも思った。亮介にとってのヒロインたる「琴乃」の存在の偉大さを思い知る。私はそこに太刀打ちすらできていない。私は便箋の一枚に手を伸ばした。私が書いたものなので当たり前だが、そこには紛れもない私のリアルが綴られていた。ヒリヒリするほど真っ直ぐな恋心、これだけは本当の意味での真実であり、そして皮肉なことに真実であるが故に清川詩織の皮を被った私の嘘を明らかにしていた。亮介にとっての今の詩織たる私は、とんでもない大嘘つきなのだろう。事実なのだ、致し方ない。
私は手紙を中途で机の上に戻し、あとは灯りのない部屋の真ん中に腰を落として亮介の部屋をゆっくりと見渡していった。タンスの上で埃かぶったイルカのぬいぐるみは、小学校三年生の頃の遠足で水族館に行った時に二人お揃いで買った物、コルクボードに刺さった写真は私がリレーで転んだ小学校五年生の運動会の時に出張で来ていた写真屋に撮ってもらった思い出の一枚、そして机の上の写真立ては亮介が小さな頃から何度も私に自慢してきた彼の実母の遺影。この部屋の多くを私は知っている。胸が詰まるくらい、私はこの場所が好きだ。自分の家よりもずっと、ずっと好きだ。
最後にここに来ることが出来て、よかったと思う。
部屋の明かりがついた。視線を向けると、亮介が部屋に入ってきた。随分と早かったのは、男の子だからだろうか。彼は右手に持ったチューペットのアイスバーを折って私に半分を手渡した。私は恐る恐るそれを受け取り、一口舐める。グレープの味、夏休みの味がする。
亮介に目を向けると、彼は机の上に広がった手紙を見ていた。この手紙を置きっぱなしにしたのは、私に問いただすためなのかもしれない、ふとよぎった。いや、きっとそうだろう。そうじゃなきゃ、私にこんなに優しくする意味なんてないのだから。私は途端に居心地が悪くなって首をガックリ曲げてしまう。カーペットの埃と目が合う。好きな人に怒られて問い詰められて縁を切られるというのは、できれば経験したくはなかった。とても、怖い。
そんなふうに部屋の真ん中で小さくなって次に来るであろう冷たい響きに怯えていると、亮介はゆっくりと私に近づいてきて床の上であぐらをかいた。私が驚くのも束の間、彼は丸まった私の背中にぴったりと自分の背中を付けた。つい声が漏れる。亮介の体温がすぐそこにある。私はうまく飲み込めないまま、それっきり静かになってしまった。手の中でアイスバーがどんどん溶けていくのがわかる。生理現象だけは正確に私の心理状況を反映していた。部屋の中には雨音と、亮介がアイスを食べる音だけが響いている。
「また、会えてよかったよ」
亮介が言う。私の口の中でグレープの果汁が弾ける。心臓が凄まじい速さで脈を打つ。つい、綻んでしまう。亮介がはにかんだのが、背中の体温越しに伝わってくる。
私は亮介のことがわかる。だって幼馴染みだから。
ずっと昔、テレパシーが使えた。本当だ。亮介に自分の考えを伝えるのにも、亮介の気持ちを汲み取るのにも、言葉なんて必要なかった。ただ一緒にいさえすれば、空気中の水分を読み取る湿度計みたいに亮介の気持ちがわかった。私たちのコミュニケーションは、言葉に頼らないことの方がずっと多かった。でも、今になってわかる。私がそうしていたようになのか、そうでないのかは別として、私も亮介も必死に恋心だけは隠し通してきたんだ。あるいは、相手の恋心だけは他のことのように上手に読み取ることが出来なかったのかもしれないけれど。私は琴乃として生きてきた時、亮介に自分の恋心を伝えることはついに出来なかったし、彼の恋心を知ることはなかった。第三者の清川詩織になってみて、やっとわかった。こういうことを、柴原琴乃としたかったんだな。亮介は。私がかつてそう願ったように。
彼の恋を、私の恋を、踏みにじってしまったんだ。私は。
世界は今、私と亮介のために調和している。雨音も、部屋の明かりも、アイスの甘味も、全て。でも、これはベストじゃない。今、私のいる位置には、本当は柴原琴乃がいなくてはならないのだ。亮介だって、きっとそう思っている。だから。
「……手紙、読んだんですよね」
ここが、本当の最後だ。彼らの恋に、もう触れてはならない。
「全部嘘なんです。琴乃さんが亮介さんを恋心抜きに見ていただなんて。琴乃さんは亮介さんのことが大好きでした」
声が震える。勇気を出して続きを紡ぐ。
「でも私はそんな琴乃さんの気持ちを知っていながら、嘘をついたんです。亮介さんと話している間、私はとてつもないくらいに幸せだった。恋に、落ちていました。そうしてほんの一瞬でも恋人の気分を味わいたくて、ずるいことをしたんです。琴乃さんの本心を亮介さんから隠した。亮介さんに自分のことを選んでもらいたかった。許されないことをした。本当にごめんなさい。今度こそもう二度と、あなたの前には現れませんから」
どうか、亮介の中であの日の恋が完全なものになってくれますように。そして、願わくばほんの少し、ほんの少しだけでも私たちが過ごした二週間のことも、思い出してくれますように。ずっと、大好きでした。きっと明日も恋をする。それでも今日まで。
今まで、本当に、ありがとうございました。
私はゆっくり立ち上がる。身体のあちこちが動揺して緊張して落ち込んで、握り締めたアイスバーだけがかろうじて冷静にしてくれている。亮介は一瞬引き留めようとして、すぐに再び腰を床につけた。すべてが終わった瞬間だった。私は爪先の導くままドアノブに手をかけた。この向こう側に行ってしまったら、もう二度と亮介には会えない。たった一度だけ振り返って、彼の輪郭や表情や目鼻立ちをもう一度確かめたかった。できれば、ずっと一緒にいたかった。でも、そんなわけにはいかないから。
瞳を閉じる。今までありがとう、おまじない。この苦しい気持ちもさえ、きっとどうにかなる、おまじない。ゆっくり三秒。一、二。三を数え切る前に、私のヒーローの声がした。
「いつ、海に行こうか?」
ドアノブを握る手から力が抜ける。私はつい振り返る。変にクールぶりながら少し恥ずかしい提案をする時の亮介の表情。心臓が、深呼吸する。
「楽しみにしてるんだよ。これでも」
モノトーンの世界に、絵具がぶちまけられる。色溜まりが酷いのは、私の目が涙で霞んでいるからだ。こんなに美しいのは、亮介が微笑んでいるからだ。
「今年は、特別な夏休みになるんだろう?」
無根拠の浮わついた予感が今、真実になる。だって、亮介が笑っている。私のために、惜しみなくその愛おしい笑顔を見せてくれている。この笑顔のせいで私のしっかり固めたはずの意思は砂の城みたいにあっという間に崩れてしまう。人が深いところに隠した感情を、平気な顔で引き上げてしまう。本当に、悪い人だ。だから私は二回分の人生で、二回ともすっかり首っ丈になってしまうんだ。恋に落ちてしまうんだ。私は、情けないくらい脆く、陥落した。
「ずるいよ」
私は亮介の胸で泣いた。亮介は私の頭を繰り返し撫でた。昔からこうされるのが大好きだった。昔から、亮介のことが大好きだった。
今、特別な夏が始まる。どんな宝石よりも眩く煌く、そんな夏が。
「明日は、何をしようか?」
亮介は私を包んで離してはくれなかった。
とても、幸せだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます