第25話 本当に好きな人
空には積雲を千切って散りばめた痕跡があり、湿度の高い日特有の酸性の匂いがした。息を吐くだけで顔は汗まみれになり、息を吸うだけで肺が焼け焦げそうになった。
その場所までは渚の自転車で向かった。いかんせん田舎町だ。自転車はマンション街と住宅地を抜け商店街を横切ると、すぐに田園風景に入っていった。私は渚の漕ぐ自転車の荷台に乗りながら彼の腰に手を回し夏の風に煽られた。亮介に対してそうした時には何も考えられないくらいドキドキしたけれど、今はずっと穏やかな心持ちだった。きっと私と二人乗りをしている時の亮介はこんな気持ちだったんだろうし、今渚はあの時の私と同じ心持ちなのかもしれないと思う。
ままならないものだ。
「渚さんは、どうして詩織さんのことをそんなに大切に思っているんですか?」
ろくに車通りもない道のあってないような信号待ちで電信柱の細い影に入っている時、私はそんなことを聞いてみた。渚はしばらく黙っていたが、手持ち無沙汰になったのか、ハンドルのところで一緒に握りしめているビニール傘を人差し指で叩きながら、ぽつぽつ話を始めた。
はじめは、か弱い妹を守ってやりたいという兄としての純粋な心だったらしい。ただ、彼女が病室という白い空間で外界の穢れから隔離されて成長する姿を見るうちに、その純粋な気持ちは不純な色合いを持つようになっったらしい。あるいはそれは不純と呼ぶには透き通りすぎているほどに真っ直ぐな想いだったのかもしれないが。
「詩織が心臓移植の手術を受けると知った時、『がんばる』と残して手術室に向かっていく詩織を見た時、自分の無力さにため息が出た。俺は兄で、あいつの家族で、だから恋人だったら伝えられるような言葉が、いつも出ないでいた。自分で自分が情けなかった。俺が世界で一番詩織のことを愛しているのに。だから、実はお前が詩織の身体に入り込んでいると知った時は少し、ほっとしたんだ。詩織に対しては伝えきれなかった気持ちや、勇気がでなかった愛情表現まで、お前相手にはできるから」
二人乗りの自転車に身を委ねて思う。これもその一つなんだろうと。だから私は渚に告げる。
「私は多分、今月までの命です」
ぴったりくっついた身体越しに、渚の鼓動が変わったのが伝わった。
「それは、詩織が帰ってくるってことか」
言ってすぐに、配慮のない物言いだったと反省したんだろう。渚は掻き消すように咳払いをする。私はくすくす笑った。「構いませんよ」、そう言うと、渚は「そっか」と短く返した。
「夢に詩織さんが出てきて、教えてくれました。多分、正しいと思うんです。根拠はないですけど」
「じゃあ、あと一ヶ月なんだな」
「私の寿命がですか? それとも」
「いや、俺がこんな風に自分の妹を甲斐甲斐しく可愛がっていられるのも、ってことさ」
「それは……?」
「考えてもみろよ。詩織だぜ? こんな美人、異性なら誰も放っては置かないさ。同性からだって告白されてもおかしくない。そうして詩織もきっと、その中から魅力的な人を選ぶ日が来る。俺からの寵愛なんて、鬱陶しくなる日がな」
最後の方は弱々しく尻切れとんぼだった。私が学校にいくのを渚があれほど反対した理由が、今になってはっきりわかる。私は明るく言った。
「こんな寂しがり屋なお兄さんだったら、詩織さんだって心配で放って置けないですよ」
「それはひどいな」
「でも、そうですね。この一ヶ月、今までできなかった愛情表現なんかを私にぶつけてもらっても、構いませんよ。もしかしたら、最後になるかもしれませんから」
風が走る。黄緑色の田んぼが楽しそうに前後に揺れる。目の前の青々とした空に重たげな入道雲が見える。今年も亮介の笑顔が足りないだけの素敵な夏が訪れた。
「好きだよ、詩織。君の兄であることが、この世で最も幸福な不幸に思えるくらいに」
渚の背中をぎゅっと抱きしめる。最後の一ヶ月は、この人のために生きるのも悪くはない。私と一緒でずっと切ない片想いに身を焦がしてきたこの人のために生きるのも。
渚の自転車が止まったのは、それから十分くらい経った時のことだった。その辺りには小さな花屋が数店舗散っているだけで、特に面白味もなかった。ただ、本能的な部分からくる嫌悪感を刺激されるとでもいうのだろうか、少し薄味の悪さを覚えた。そして同時に、見覚えのある場所でもあった。私は自転車を降りて、渚に聞いてみた。
「ここは?」
渚は静かに自転車を道の端に寄せて停めて、ハンドルと一緒に握っていたビニール傘を手に持って歩き出す。その鋭い目で私について来いと合図した。私は彼の背中を数歩遅れで追った。すぐに私は理解した。無数に立ち並ぶ灰色の影と塔婆、混ざりきっていない空気の陰湿な臭い、この世の淀みを集めたようなそこは、墓地だった。
「先日、柴原琴乃のご両親から簡素な案内が届いた。琴乃の納骨が済んだ、その便りはまるで琴乃のためというよりかは自分たちの世間体を大切にしているような文面だった」
私と実の両親の確執を知っている渚は、特別言葉に配慮する様子もなくそう言った。
「が、その墓の中にしてのが生きた証が閉じられているのも確かだ。せっかくの誕生日、一度くらい自分の墓を自分で見届けるのも悪くないだろうと思ってな」
渚は再び歩きだす。その左手には地図がプリントされた葉書、なんだか宝探しでもするみたいな要領だなと思い、どちらかといえば遺体捜索だろうと心の中で呟いた。そうして私は無数に立ち並ぶ墓石を目で追う。ここにいる人たちは、みんな死んだんだ。彼らの死が予期されていたものであれ、突然のものであれ。だから、ここはこんなに悲しいんだ。やりきれない悲しみが、彼らの未練がこんな風に空気に溶けて漂っているんだ。
「ついたぞ」
渚が一つの墓石の前で立ち止まる。私も数回しか来たことはないが、そこは確かに父方の墓だった。「柴原家」と彫られている。この墓はしばらく掃除されている様子もなく、管理も悪かった。おそらく納骨の時は身内だけだったのだろう、サボったのが簡単に見て取れる。柴原家の墓の区画の中では雑草があちこちで伸びていて、両隣のピカピカで仏花も生き生きしている墓と比べるとなんとも情けない有様だ。先祖も呆れてため息をついていることだろう。
「少し、掃除してもいいですか? もうあと一ヶ月後にはここで眠ることを考えたら、そのベッドメイキングくらいはしておきたいじゃないですか?」
渚は苦笑いしながらも快諾し、すぐに水を汲みに行ってくれた。私は中腰になって伸び切った雑草をむしっていって、柄杓で墓の肌に水をぶちまけた。水汲み場に放置されていたという雑巾を使って土埃を拭き取っていき、やっと私の墓が見られる姿になった時に、近くの花屋で渚が仏花を買って来てくれた。仏花は黄色や赤色など夏らしい明るい色を基調とした造りになっていた。中でも特徴的だったのが、真ん中の方でゴッホの絵画よろしく力強い黄色を放っているひまわりだった。
「私の好きな花、覚えていてくれたんですね」
私はそのひまわりの花に顔を寄せ、深い息と共に香りを呑み込んだ。ひなたぼっこしているみたいな、優しくて少し苦い香りだった。私は目を閉じてその香りをずっと味わう。思い出の中の匂いが、ひまわりを通じてゆっくり重なる。
あれは、そう、あのおまじないを聞いたときのことだ。
ちょうど七年前の今日、私の誕生日。私が自らの誕生日だということで、ほんの少しだけの特別を期待してはしゃいでいると、家にいた父に無言で引っ叩かれたのだ。いつもの癇癪は慣れっこだったのだけれど、私がそれに反射でつい不満を溢すと、もう手がつけられないほど逆上してしまった。逃げ出すように家から飛び出し、泣きながら蒸し暑い夏の日を歩いていると、友達と一緒に自転車をこぐ亮介を見かけた。今のみっともない格好で会いたくないと私は身を潜めたが、そんな小細工亮介相手には通用しなかった。亮介はすぐに物陰の私に気がつくと、友達に何かを言って彼らと別れ、私の元に近づいて、呆れながらも微笑んだ。「何があったんだ?」、私が口籠っていると、亮介は私の手を引いて私を自転車の上に乗せた。思えばあれも二人初めての二人乗りだった気がする。二人乗りデビューは散々で、あの夏を通していっぱい練習したことを覚えている。
さて、そうして何度も転びながら辿り着いたのは県営の少し大きな公園だった。そこのひまわり園のそばにある芝生広場で座り込んで、亮介の買ってくれた自動販売機のサイダーを二人で交互に飲んだ。爽やかな炭が弾けるたびに、胸がドキドキした。また亮介に対する好きを一つ重ねていた。サイダーを飲み切った私たちは、そのまま芝生の上に寝そべってひまわりの匂いを嗅ぎながらお喋りをした。少し空を見上げるたびに太陽の位置は傾いていて、少し亮介の顔を覗くたびに彼の顔に新しい汗が浮かんで、それほど長い時間ずっと添い寝でもするみたいな距離で話していた。きっとそれほどの時間を経て、やっと私の心の状態が落ち着いたと判断してくれたのだろう、亮介はもう一度私に問いかけた。
「何があったんだ?」
私は彼に本当のことは言えなくて、それでも慰めては欲しくて、
「怪我しちゃった」
私は寝そべったまま、父に引っ叩かれたおでこのところを彼に見せた。亮介は私の顔に手を伸ばし、「汗疹かと思った。そんなに痛々しい跡だったんだ」と真面目な表情で額を撫でた。
「いたいのいたいのとんでいけ」
彼は子供や弟をあやすみたいにそう言った。私は照れ臭くなって「おまじないでしょう?」と笑う。亮介はそれに、「もっといいおまじないがあるよ」と返した。
「苦しい時、悲しい時、緊張する時。あるいはもっと大雑把に、困ったときでもいい。とにかくピンチの時や重大な決断を迫られている時には、目を瞑ってゆっくり三秒数えるんだ」
思い出の中の声をもう一度聞いて、胸がずきんと痛くなる。強い炭酸が気管で爆発を起こしたみたいに、現在の私の中にいくつも亮介が溢れ出てきた。私は何度も瞬きをして痛みをやり過ごそうとする。苦しくなって口元を抑えた。
「はは、ひまわりは少し臭いがキツいからな」
渚はそう言って花束を揺らした。私は精一杯愛想笑いをしながら、唇の内側を噛んだ。違う、私の欲しい言葉はそれじゃないんだ。私の気持ちはそうじゃないんだ。私を理解してくれるのは、いつだって、亮介だけだったんだ。
私は再度自分の墓と向かい合う。この墓が持つ意味を知る。先ほど冗談みたいに言った「一ヶ月後にここで眠る」、その言葉の意味を改めて理解し直す。私は死ぬんだ。無に帰るんだ。アディショナルタイムが終わると結果に関わらずそこで試合が終わるように、私の人生ももう終わる。二度と亮介に会えない。それどころかこの思い出すら、永遠の底で気泡になって消えてしまう。
怖い、たまらなく怖い。自我がなくなることよりも、私が私でなくなることよりも、ずっとずっと亮介と重ねた時間がなくなっていくのが怖い。まだこんなに温かいのに。まだこんなに輝いているのに。まだこんなに大切なのに。
雨が、降り始めた。固まる私の異変に気が付きながら、渚は墓に仏花を添えてくれていた。ひまわりの花が呑気に太陽を探していた。そそのかすように、雨は強くなった。渚が何かを言った。上手に聞き取れなかった。私はぐすぐす泣いていた。雨粒と涙の区別がつかなくなるくらい。嫌だ、嫌で嫌で仕方がなかった。死にたくない。失いたくない。私は生まれた時から何一つ持っていなくて、でも隣に亮介がいてくれて、その思い出があったからこうしてアディショナルタイムまで生き続けてきたのだ。そんな私から、亮介との時間まで奪おうだなんて。神様、私はこれまでどんな不遇にも耐え抜いてきたんです。どうか亮介との思い出だけは、これだけは宝物なんです。だからどうか。私まだ、死にたくない。亮介に、会いたい。会って、大丈夫だよって慰めてもらいたい。頭を撫でてもらいたい。苦しい、辛い。
こんな時、どうしたらいいんだっけ。そうだ、目を閉じて三秒。効果のないおまじない。引き伸ばされた暗闇が私を少しだけ冷静にする、それだけ。一、二、三。
今すぐ会いたい。
突然、雨が止んだ。そう思った。私にぶつかる雨粒がなくなったんだ。でも、すぐにそうじゃないとわかった。雨音も水たまりも何もかもそのままで、私の上でだけ雨が止むなんてそんなの天使や神様でないとありえない。そうじゃないとすれば、渚が私の上で傘を差してくれてるのだろう。そういえば先ほど傘を開く音がした気がする。
こんな独りよがりに、渚を付き合わせるわけにはいかない。それに、これほど良くしてくれている渚には申し訳ないけれど、今だけはどうしても一人になりたい気分でもあった。
「先に帰っていてください」
「そういうわけにはいかない」
「大丈夫ですから!」
強く言い返す。するとさらなる強さで彼は応じた。
「大丈夫じゃない」
彼の私を心配してくれる気持ちは純粋に嬉しかった。だからこそ、今だけは亮介のことだけを考えていたかった。私は彼の方を振り返って、声を張り上げようとして、言葉を失った。
「亮介……」
そこにいたのは、私の誰よりも大切な人だった。おまじないに引き寄せられたかのような当然さで、待ちわびたその人が今目の前にいる。雨粒や水溜りすらも煌き出す。焦燥や罪悪感、抱くべき感情はたくさんあるはずなのに、恋心が先陣を切ってしまう。亮介に会えて、嬉しい。もう二度と会えないと思っていた。
「風邪、引くから」
彼の優しさに触れる。先ほどとは性質の違う涙が頬を伝う。言葉が溢れて止まる気配もなかった。亮介が抱きしめてくれた。それだけで、たったそれだけで、どうしようもないほどに
幸せだった。
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