第24話 詩織と琴乃
それから七月が終わるまで、私はそんな生活を続けた。毎日昼頃に渚はここに訪れ、五限が始まって少し経つくらいの時間まで私と一緒におしゃべりをした。彼はそれまでの私には一度だって見せたことのない顔で微笑んで、丁寧に相槌をうった。好きな花の話や好きなおかずの話や好きな本の話など、ともすれば当たり障りのない話だったけれど。そういうなんでもない話題を重ねることで私はすぐに渚に心を許した。柴原琴乃としての私の話もたくさんした。
両親が私を苛めたこと。亮介だけが救いだったこと。彼の教えてくれたおまじないを今でも覚えていること。でも私の身勝手で彼との関係が崩壊してしまったこと。二度目の生を受けて、今度こそ恋人になりたかったこと。なれなかったこと。それでも一緒に過ごすことができて嬉しかったこと。今でも、彼のことを想い続けていること。
渚は決して茶化さなかった。時折切なそうな表情を浮かべて、私の話に真摯に耳を傾けた。一度どうしてそんなに私の話を聞いてくれるようになったのかを尋ねると、「片想いは難しいものだからさ」とだけ返した。彼が誰のことを想いながら私の話を聞いているのか、なんとなくわかった気がした。
夏休みが始まると、二人で家を出て一緒に図書館に向かい、一日中勉強や読書をして過ごすことが増えた。彼は受験勉強なんかをしていることもあったが、多くの時間を難しい医学書や論文のコピーに目を通すことに使っているらしかった。彼の読む本にはいつも心臓の形を模した図形や外科手術の様子の写真が載っていた。彼は普段はかけない眼鏡をかけて細かい字に目を走らせながら、ほんの少しでも気になる記述があったらチェックをしてメモを取っていた。私はその姿を見て、今自分の胸で鼓動を続ける心臓に手を当て鼓動に耳を澄ませた。
二人とも作業から離れると、近くの古本屋や中古CDの店を訪れ、あれやこれやを話した。私が詩織の好きだった曲を尋ねると、彼は口籠もりながら「お前は何が好きなんだ?」と尋ね返してきたことがあった。彼は私のことを詩織そのものだと錯覚していたいんだと思った。そうして私は渚が私越しに見出してる影のことを悟りながら、きっと彼にとっても今の関係の方が都合が良いのだろうと解釈し、触れないでおいた。少なくとも、亮介が私を透かして柴原琴乃を見ていたのよりかは、良くも悪くも感情の振動は小さかった。
家に帰ると空気はいつも手料理の温もりに満ちていた。私がシャワーを浴びている間に父が帰ってきて、そうして家族四人が一つのテーブルに集って「いただきます」と共に食事を始める。その日読んだ本の内容や、学んだこと、出会った人を各々が愉快な脚色を添えて話していく。会話のラリーは滅多に途切れることがない。時折広がるのはトゲのない居心地のいい空白だけ。どんな創作物の中にあるよりも優しい家族の時間だった。食事を終えると、詩織の部屋で眠った。この部屋だけはまだ少し居心地が悪いけれど、今となっては気にするほどでもない。ただ窓を開け扇風機を回し、それでも我慢できない夜はエアコンをつけて、誰にも咎められることのない寝息を立てる。こういう穏やかな生活は、思うと柴原琴乃の間には空想上のものだった。家の中で、家族の間で、私はいつも邪魔者だった。こんな風に愛に満ちた生活というのを誰しもが送ってきたのだと思うと、でもそういうことを最後に知って良かったと思う。みんながみんな、愛してくれるはずの家族を相手に我慢しなければならないなんて、あんまりだから。生きるというのも捨てたものじゃない、そう思えただけで良かった。
七月最後の夜、私は夢を見た。実に明晰な夢だった。
夢の中には申し訳なさそうな顔をした私が出てきて、ペコリと頭を下げてきた。いや、正確にいうとそれは私が二度目の生を受けて以降いつも鏡越しに見ていた姿だった。つまりは、おそらくこの女の子は詩織だった。パステルピンクの入院着を身に纏っている。それを受けて私は今の自分がどういう姿のか確認しようと思って自分の身体を見渡す。鏡も水たまりもなかったので顔はわからなかったけれど、腕やひざに浮かんだ青痣や切り傷の痕から、すぐにそれが柴原琴乃の身体なんだとわかった。長年付き添ってきた身体だ、少しくらい離れたってその身体が物語る痛々しさを忘れるわけがない。
対して、詩織の方は少し痩せすぎなきらいはあったが、身体も顔もとても綺麗だった。女優さんやモデルさんと聞いても何の疑いを抱く気にもならないくらい。私は今の自分をとてつもなくみっともないものに感じ、俯いていた。すると、詩織の方から話しかけてくる。
「こんにちは。まずは、ありがとう琴乃さん」
詩織は長い髪を揺らしながら心臓に手を当てる。朝の水みたいな透き通った声だった。私は最初何を言っているのかわからなかったが、すぐにそれが心臓移植のことだと理解する。
「いえ、私はただ交通事故で死んだだけですから」
私の少し黒ずんだジョークに、詩織は難しそうに笑った。
そして、やや間を置いて詩織は再び話し始める。その清廉さには似つかわしくない深刻なトーンだった。例えば、医者が余命宣告をするときのような。
「今日は大切な話があるの。私はもうすぐ目覚める。この身体は、次第に柴原琴乃の心臓を受け入れ始め、私の人格を再び迎える準備を整えている。それはあなたや私の意思ではコントロール出来ない領域のことだと思う」
私は案外冷静だった。取り乱すこともなく、静かに続きを促す。詩織は目を閉じて風の輪郭のように儚げなその指を一本一本折っていき、ちょうどむすんでひらいてを三回繰り返した時に再び語を発した。
「多分、夏の終わりまで。多少の前後はあれど、あなたが新学期を迎えることはないと思う。夏が終われば、あなたは……」
「そっか」
普段とトーンが変わらなかったのは、強がりでも誤魔化しでもない。最も素直な反応だった。それを詩織は意外に思ったらしい。少し困惑した表情で言う。
「ねえ、もしやり残したことがあるのなら、私……」
「ううん、私のことなんて気にしないで。それより、こんなに長い間この身体で自分勝手に振る舞ってしまって、本当にごめんなさい」
「そんなの、気にしなくていいのに。あなたは私の命の恩人なのだから」
詩織はそっと微笑んだ。
「いえ、それより。ハッピーバースデー」
私は目を見開いた。現実の私が目を覚ました。窓から差し込む鋭い光につい目を背ける。その視線の先に、壁掛けのカレンダーがあった。二ヶ月分の暦が同じ見開きに印刷されている地元新聞社のカレンダー。私は今日の日付を確かめようと七月のところを一通りなぞってから気が付く。今日から八月だ。八月一日、ここ数年素敵な記憶が無さすぎて心の準備をするのも忘れていたが、今日は柴原琴乃の誕生日だった。八月の頭に迎える誕生日ではクラスメートなんかの注目には一切収まることなく流れていくので、今までで私の誕生日をまともに祝ってくれたのなんて亮介だけだったけれど。夢の中とはいえ詩織もお祝いしてくれた。混じりっ気のないとっても可愛い表情で。私は女だけれど、渚の気持ちが少しわかってしまう気がした。
そうして晴れやかな気持ちで伸びをしてからキッチンに行くと、渚が朝食の目玉焼きとソーセージを焼いていた。渚は私に気が付いて、「お前のも作ろうか?」と声をかけてきた。お言葉に甘えることにした。私はケトルの湯を沸かし、二つの背丈の違うマグカップにそれぞれコーヒー粉とお湯を入れていった。リビングではつけっぱなしのニュース番組が気象情報を告げていた。「念のため傘を持って行ったほうがいいかもしれません」、夏色の明るい衣装に身を包んだお姉さんが、愛想よくそう言っていた。
IHの電源を落とした電子音がしてそちらを向く。渚はダイニングの椅子に腰を下ろし、私の入れたコーヒーを飲みはじめた。テーブルの上には先ほど渚が調理していた目玉焼きとソーセージが二つの平皿に雑に盛り付けられていて、そこに添えられるようにこんがり焼いた食パンが半切れ乗っている。いい匂いがする。
「今日は傘を持って出かけないとな」
渚は食パンを齧りながら私に話しかけた。
「そうですね。結構図書館から家まで距離ありますし、雨が降ったら微妙ですよね」
すると渚は首を横に振った。
「今日は図書館には行かないよ」
「え?」
「お前をある場所に連れて行きたいんだ」
渚はミルクも砂糖も入れていないコーヒーを一思いに飲み干し、窓の外の景色を見つめた。
「せっかくの誕生日なんだ。いつも通り過ごすのも退屈だろう」
そんなふうに、亮介以外で私の誕生日を気にかけてくれる人がいるだなんて、中学生の琴乃に伝えたらどんな顔をするだろう。それが死後のことだと伝えたら、どんな呆れ顔を浮かべるんだろう。それを想像した私は、淋しく笑った。
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