第23話 図書館と渚

 突然学校に行かないだなんて言うと両親に心配されそうだったので、制服だけ着て学校には行かずに、近所の図書館で本を読んで過ごした。司書たちは午前中から制服姿で堂々と図書館を利用している私に何か物申したげだったが、思春期の少女のデリケートな部分に触れるべきではないと判断したのだろう。単に面倒だっただけかもしれないが。私に話しかけてくる者は一人もいなかった。あるいはこれほどの美人だと、憂傷に沈む姿すら様になるのかもしれない。

 雨降りの午前を私はずっと活字の上で横になって過ごした。昔から本は好きだったが、特に中学校に入学して以降私は図書室に根を張って、日々の彩りを他者の書いた文章に委ねる生活を送ってきた。亮介という究極の幼馴染みがいる幼少期を経験してしまった私には、表面的な人間関係は維持できても、本質的に自分の心を救ってくれる友達はただ一人もいなかった。本来的に人間関係はそんなものだと言ってしまえばそれまでなのだろうが、私はその状況に妥協できなかった。亮介との完全な関係性が、他のすべての関係性を退屈でつまらないものにしてしまったとでもいうのだろうか。例えば豚肉の味を知らないムスリムが豚カツを食べたがったり牛肉の味を知らないインド人がすき焼きを食べたがったりしないように、どんなに魅力的なものでもそれに対する基礎的な経験がなければ人はそれを切望することは滅多にない。まあ豚肉をこっそり食べるムスリムや牛肉に手を出すインド人が中にはいるように、何かしらの媒体の作品の中で知ったフィクションチックな関係性を本気で夢みる人もいるのだろうけれど。しかし、ほとんどの場合弊害を伴うほどの依存症に陥る原因は憧れではなく経験だ。つまりパチンコに依存するのはパチンコを打った時の経験があるからであり、アルコールに依存するのは酒の味を覚えたからだ。そう聞くと実に当たり前の話である。私は六年以上も亮介との心地よい関係を経験してしまったのだ。電子タバコで満足するには私の喫煙歴は長すぎた。

 そんなわけで、誰かと一緒にいるよりかは本を読む方が好きだった。私は亮介という完全な幼馴染みの不在を現実ではなくフィクションで補ったのだ。とりわけティーン向けの恋愛小説を読むことが多かった。文章自体は稚拙なものも少なくなかったが、小難しい文学作品よりもずっと読んでいて楽しかった。そういう作品で描かれる男女の関係性は、バッドエンドにせよハッピーエンドにせよ、必ずと言っていいほど私の求める完全性を備えていた。そういう作品を読み通した後、あるはずもない亮介との運命的な恋に想いを馳せたものだった。

 しかし、その日の私は早々にそういう作品からギブアップして、代わりにもっと恋愛に関係のない本を読んでいた。具体的にいうと、それは小説ですらない死生観の本だった。こういう本を手に取るには私は若すぎるのだろうが、もう私の自我も長くはない。この世への未練がないと言えば真っ赤な嘘にはなるが、そういったものを回収しきれる可能性はすっかりなくなってしまった。可能性がなくなると、途端に恋愛やら夢やらそういうキラキラしたものに目を向けるためのカロリーが重たく感じる。むしろ、一つ一つを失う人たちに向けて書かれた本の方が、ずっと私の心を救済してくれた。

 正午のチャイムが図書館の中に響くと、私はエントランス近くのロビーに向かって一番奥のソファ席でお弁当を広げた。今日のお弁当は完全に母のお手製だ。うん、やっぱり私が作るよりもずっと美味しい。でも、亮介は私の作ったものを褒めてくれた。唐揚げを美味しそうに頬張ってくれた。それだけで、もう十分だった。

 アディショナルタイムは、決して立派な生き方をしたとは言えないだろう。関わった人皆に迷惑をかけた。特に亮介とこの身体の持ち主の詩織には謝っても謝りきれない。それに妹想いの渚だって、私のことを決して良くは思っていない。私はこの身体で嘘ばかりついた。たくさん傷つけた。悲しませた。身の丈に合わないものを望んだ。それでも、一度目の人生が終わった時よりずっと多くの感情に包まれている。思えば、中学校に入ってから、私は一度だって何かを欲しがったりしなかった。これほど強く醜い欲望を燃やし、利己的に振る舞うことなんてなかった。そうまでしたくなるほどの人と二週間も一緒に過ごせただけで、意義のあるアディショナルタイムといっていいのかもしれない。少なくともこの時間は、亮介と離れ離れだった中学校入学以降の四年間とちょっとよりもずっとずっと、密度のあるものだったのだから。満足とは言わずとも、空っぽだった入れ物にほんの少しでも増やすことができただけ、よかったのだろう。そんなことを思いながら私は弁当のおかずを見つめた。母が作ってくれたそれは私が自分で作ったものよりもはるかに量が少ないのに、一緒に減らしてくれる人がいないとちっとも箸が進まない。私はお弁当の半分ほどを残してふうと息をついた、その時だった。

「母さんが作ったもの、残すんだ」

 突然話しかけられびっくりして顔を上げる。そこには学生服姿の渚がいた。肩と髪の毛が少し濡れているのは、外の雨に打たれたからだろうか。渚はぶっきらぼうに「冗談だよ」と言って、小テーブルを挟んで向かいのソファに腰掛け、指先で卵焼きを一つ摘んで食べた。「うん。うまい」。私が何から聞いたものかもわからず押し黙っていると、彼はつっけんどんに言った。

「俺より前に家を出たお前が学校にいないんでな。抜け出して探しにきたんだ」

「よく私が学校にいないって気が付きましたね」

 すると彼は少し口籠ってから、ひとりごとみたいに呟いた。

「これでも学校にいる間はお前のこと、気にかけているんだ」

「そう、なんですね」

 私の返事はなんだかぼんやりしたものになる。渚は付け加えたみたいに「その身体で悪さなんてされたら敵わないからな」と言う。私は少し笑った。この人と亮介は気が合いそうだと、なんとなく思った。

「こんなところで、何をしていたんだ? お前。学校をサボって図書館に来るほどの読書家ではないだろう?」

 渚は私のお弁当のおかずを次々口に放り込みながら尋ねる。私は口籠った。

「小野寺亮介に振られたか?」

 一切私に配慮なんてしていない口ぶりだったが、私は決して嫌な気持ちにはならなかった。むしろその辺に気を遣わない無骨な雰囲気が気持ち良くすらあった。だから私もこの人に対しては隠し立てないことにした。いや、単純に誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。

「振られたとは少し違いますが、まあそんなものです」

 渚は「そうか」とだけ相槌を打った。変にオーバーなリアクションをとったりしないところに、彼の聞き上手なところが出ている。世渡りのうまい人なんだろう。私は渚に尋ねた。

「ずっと気になっていたのですが、どうして私の、柴原琴乃の意中の相手が亮介だと分かったのですか? 私は生前の友人にすらそれを悟らせたことなんてなかったのに」

「簡単な推理さ」

 渚は言った。

「俺は詩織の最後の逃げ場として図書室を用意しておこうと高校の二年生の時からずっと図書室の当番を引き受けてきた。いつか詩織が学校に通い始めたときに、学校生活をほとんど経験してこなかった詩織にとっての逃げ場を守ってやるのが兄としての自分の役目だと思っていた。だからいつも一人でも、俺は図書室で過ごし続けた。だが、詩織の身体に乗り移ったお前が目覚めてから数日後、図書室にある一人の男が訪れた。そいつは世界の終わりみたいな顔をしていた。お前に詩織の人格を奪われ、何もかもが詩織に不利になるように働きかけられるこの世界に辟易していた俺は、ほんの親近感からそいつに話しかけてみた。彼は、小野寺亮介と名乗った。彼が大切な人を失ったというのは話していてすぐに分かった。何せ、俺も似たような状況だったからさ」

 なんの躊躇もなく私を悪者にして話すのは、彼にとってそれほど詩織が大切な妹だということだ。私は開き直ってこの身体で好き勝手振る舞ったのが、今になって申し訳なく思えてきた。私は黙って彼の話を聞く。

「まあ、ただそういう傷口に触れるのは御法度で、俺は勝手に彼に近しいものを抱きながらも、深掘りを入れることは決してなかった。んだがな。お前が学校に行きたがっているなんて戯言を突然宣いだしたと聞いて、不意に考えもしなかった可能性が過った。それは、自動車事故で亡くなった柴原琴乃と、その同級生の小野寺亮介が何かしらの形で接点を持っていたというものだ。事故の時期と小野寺くんが図書室を利用し出したタイミングを考慮してもしっくり来る。俺は、与えられた材料を繋げたに過ぎない」

 渚はスラックスのポケットから煙草のケースを取り出した。私が拾った亮介の煙草のケースと同じデザインだ。先ほど私は亮介と渚の気が合いそうだと思ったけれど、この二人は琴乃の死を機に図書室で知り合っていたんだな。煙草の好みなんかも共有してきたのかもしれない。私は不思議な因果を思いながら「禁煙ですよ」と指摘する。そもそも制服姿で煙草を吸うなんて、外聞が悪いなんてものじゃない。すると渚はケースの蓋を開けて見せた。中には小包装された飴玉が入っていた。

「俺は吸わないさ。詩織ほどじゃないが、俺も昔は身体が弱くて喘息持ちだったし、煙草の臭いには敏感だった。友人に吸う奴もいるから話を合わせるくらいはできるが、基本的には煙草なんて大嫌いさ。それなのに、まさか小野寺くんから新品の煙草をもらったときには驚いたな。『今の僕には必要ない』なんて言っていた。晴れやかな表情だった。お前が学校に通うようになってから、ものの一週間のこと、ほらお前が授業後検査に行った日のことだよ」

 私は目を見開いた。渚は飴玉を口に放り込んだ。

「俺は詩織の味方だ。詩織の敵はみんな敵だ。お前のことも、お前が学校に通うなんて言い出すきっかけになった小野寺くんのことも、俺から言わせればみんな敵だ。でも、小野寺くんは、多分お前に救われたんだと思う。不思議な物だな、幼馴染みの死から来た絶望を、その死んだはずの幼馴染みが救ってやるなんてさ」

 渚はおかしそうに笑ったが、私は首を横に振った。

「私がしたのは、彼を救うだなんてそんな高尚なことではないですよ。もっとずっとずるくて酷い事です。この身体を借りて、彼と恋人になろうとしたのだから。生前の片想いでは埋められなかった心の欠損を、二度目の刹那的な生で解消しようとしたんです」

 そう聞いた渚は私の予想に反してただ静かに私の話を聞いていた。

「皮肉なものです。亮介の目には柴原琴乃しか映っていなかった。生きている間に、もう少し勇気が出ていれば、私たちは恋人にだってなれていたのに。だけに諦めがつかなくて、いろいろな人にご迷惑をおかけしたんですけどね。本当に、申し訳ありませんでした」

「そっか」

 渚は立ち上がった。ロビーの柔らかな光に彼のくるくる髪に乗った水滴が乱反射する。彼は私の予想よりもずっと優しい表情で私に笑いかけた。

「難しいよな。好きになってしまった相手との関係なんてさ」

「渚さん……」

「応援してるよ。また明日も、お前が学校にいなかったら、俺はここに来るさ」

 彼は最後に飴玉を一つテーブルの上に置いて翻った。パッケージを破いて口に放り込む。飴玉は、柑橘系の爽やかな酸味がした。

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