第22話 祭囃子と恋の終わり

 ついに夏祭りの日が来た。学校の友達と夏祭りに行くのだ、そう母に告げると彼女は嬉しそうにタンスの中から色々な浴衣を引っ張り出した。本当は詩織に着て欲しかったんだろうな、そう思いながら片っ端から試着する。私は藍色の浴衣を摘み上げた。大人びたダークな雰囲気で、散りばめられた菊の花の柄がとにかく気に入った。もっと年相応の可愛らしいものもあったけれど、私はこれを着たいと思った。もしかしたら、琴乃では着こなせないような浴衣を無意識に選んだのかもしれない。こういう元の良さを引き立てるような控えめでアダルトな色合いは、柴原琴乃にはまず似合わないものだから。

 浴衣を選んだ私は、着付けた後に洗面所に向かった。慣れない手つきで簪を扱い髪の毛を一つに結う。なかなか難しく何度も崩しては整えて再チャレンジしていると、ひょっこり様子を伺いにきた母が手伝ってくれた。母は「男の子?」と私の髪の毛を櫛で溶きながら尋ねた。私は曖昧に微笑む。母は自分の高校時代を懐かしむように目を細め、私の髪をセットした後に「頑張ってね」と優しく応援し、洗面室を後にした。そういう親子のコミュニケーションとは無縁だった私は、とても優しい気持ちに包まれながら顔の最終チェックをした。汗で化粧が崩れても良くないし、亮介は飾らない美しさを素敵に思うタイプなので化粧は全くしない。代わりにリップクリームを二周だけ。乾燥なんてする季節じゃないけれど、なんとなく唇だけは爽やかに保っておきたかった。しっかり乗せると唇からほのかにライムの香りがした。少しだけ、頑張れそうな気がした。私は母が玄関に揃えておいてくれた赤い鼻緒の下駄を足にはめて、一つ息を吸って帯を締め直した。

 亮介とのデート。今日くらいは、亮介と恋人のように過ごせたら、素敵だと思う。


 道ゆく人は皆おめかしをしていた。ホットパンツにTシャツ姿で全力で夏を満喫している雰囲気の人もいれば、私のように浴衣を纏って恋人の隣で幸せそうに歩いている人もいる。幼い頃から親しんできた商店街は、毎年この日には人々の熱気と明るい提灯で賑やかに彩られる。一年間でこの日のために準備を進める人も大勢いる。まるでこの街を美しく着飾るためのファッションショーだ。私は昔から、この日が大好きだった。亮介と一緒にいると、混じり合う熱気のどさくさに紛れて、いつもより少し近くにいられた。手を繋いで歩けた。心臓の音が結ばれた二つの手を通じて亮介の方まで伝わってしまわないか、少し心配だったりした。

 でも、それらは全て、「柴原琴乃」の思い出だ。今の私には、関係がない。

 今週の週初めにあった球技大会で、亮介は見事なホームランを放った。彼は私に柴原琴乃が亮介のことをどう思っていたのかを尋ねた。私はそこで、これまでとは比較にならない大罪を犯した。私は亮介から、琴乃の本当の気持ちを隠してしまったのだ。その罪に弁明の余地はない。それは区分するなら衝動犯罪ではなく計画犯罪だった。衝動的なものでない分、なお質が悪い。裁判所に持っていけばより重度の刑罰が言い渡されることだろう。私だってもちろんその罪の重さは理解していた。自らの行動の非合理性も把握していたつもりだ。それでもそうしてしまったのは、どうしても亮介との恋人関係への憧れを捨てることができなかったからだ。亮介には思い出の中の柴原琴乃を愛し続けるよりもずっと、何者でもない今の私のことを見てほしいと思ってしまった。亮介の口から語られる思い出の琴乃への百の愛の言葉よりも、時折詩織の皮を被った私に投げかけられる一の気遣いや優しさが、死ぬほど嬉しかった。隣で亮介の温度を感じていたかった。死人に思いを馳せる亮介を見るのが、日毎に辛くなっていたのだ。それは肯定的な捉え方をすれば亮介に前を向いて欲しかった、だなんて耳障りよく聞こえるかもしれないけれど、実際は私のわがままだ。抑え切ることのできない欲望に、亮介の真剣な感情を巻き込んだに過ぎない。

 かくして私は、「柴原琴乃」でも「清川詩織」でもない、その間とすらもいえない化け物になっていた。満たされない自意識の塊が、傍若無人に振る舞っているだけの世にも醜い存在。でも、もう引き返すことはできない。亮介を夏祭りにまで誘ったのだ。身勝手でも、最低でも構わない。私だって、他の女の子たちみたいに幸せになりたい。

 考えながら歩いていると、着慣れない浴衣だというのにペースは早くなる。待ち合わせ場所のショッピングモールに着いて中に入ると、一階は待ち合わせの人でごった返していた。エントランスのすぐ近くで落ち合えたらしきカップルは、涼しげな格好の男性が着物姿の女性に対し優しく声をかけていた。女性が照れた表情で浴衣の感想を求める。「素敵だよ」、男性が彼女の頬を撫でると、彼女は幸せそうに頬擦りをした。そんな光景に私は思わず足を止めた。とても羨ましかった。私もそんなふうに面と向かって褒められたいなと思った。

 三階は一階や二階よりもずっと空いていた。私は亮介を探してキョロキョロと辺りを見渡した。こんな風に休みの日にどこかで亮介と待ち合わせをするのは、私が柴原琴乃であった時を含めても初めてのことだった。私と亮介が遊ぶ時、大抵は約束なんてせずにお互いの家まで訪ねて行ったし、稀に約束をした時もやはり互いの家に迎えに行くのが常だった。詩織の身体を借りるようになってからは無論だ。先週バッティングセンターで会ったが、あれはどちらかというと私が亮介のいそうな場所を探しつつ散歩をしていたら本当に見つかったに過ぎない。あんなの待ち合わせというよりもストーキング行為というのにずっと近しい。だからこれは、私と亮介の人生での初デートといえるものなのかもしれない。そう考えると、なんだかたまらなくドキドキしてきた。私は一旦トイレに逃げ込んで、中で鏡を借りた。早歩きした時に少し乱れた浴衣を整え、髪の毛も数本跳ねているものをお団子の中にしまった。そして鏡で自分の顔を見つめる。とてつもなく緊張する。喉がコロコロ鳴る。

 私は息を整えた。ちっとも大丈夫ではないけれど、亮介をあまり待たせるわけにもいかない。いつまでも見た目の微調整をしていたい気持ちを堪えて、鏡の前から身体を引きずり出す。そしてフロアをうろうろして亮介を探し、見つけた。亮介はベンチに腰をかけペットボトルの水を飲みながらぼんやりしていた。なぜだろう、初めてのデートだからなのか、いつも以上に格好良く見える。今彼は誰のことを考えているのだろう。きっと、彼の母か琴乃のことだろう。なんとなくわかった。だから声をかけにいくのを逡巡してしまった。足が竦む。鬱陶しく思われたりしないだろうか。お呼びじゃないと冷たい表情を向けられないだろうか。亮介を騙している立場のくせに、そんな被害者意識が浮かんでは心が苛まれていく。そうして私は物陰に隠れて棒立ちになって亮介の行動一つ一つをただ見送っていた。心臓が潰れそうで、もう耐えられそうになかった。そんな時だった。

 亮介は私に気が付いた。彼は視線をこちらに向けると、確かめるような目でこちらを見つつ、ゆっくりと近づいてきた。私は惑う。惑って、逃げ出そうかとも一瞬よぎって、それでも胸を抑えて一つ深い呼吸をし、亮介の前に姿を見せた。

「こんにちは」

 みっともないくらいに声が震える。次に訪れる沈黙に、私如きが望み過ぎたか、と不安ばかりが先走る。視線をそらしたくなる。そんな中、亮介は優しい笑顔を見せた。

「似合っているよ」

 それだけで、来て良かったと、頑張ってよかったと心から思った。言葉が出ないくらいに嬉しかった。亮介は本当に素敵な男の人なんだと、改めて痛感した。


 少し、浮かれていたんだと思う。

「ねえ、亮介さん。いっそ、琴乃さんのことを考えるの、やめませんか?」

 言った瞬間に失敗したと思った。私と一緒にいるというのにまるで影とでも歩いているような亮介の態度が少し気に食わなくて、だから少し皮肉ってやるつもりだったのに。私の口からこぼれたのは私の願望だった。もういない幼馴染みの「柴原琴乃」でも、とびきり美人の「清川詩織」でもなく、ただ目の前にいる「私」との時間を楽しんで欲しい、そんな自己中心的で女々しい願望が、ついトゲを持った形で亮介に向かってしまった。それは下手をしたら私との関係なんて見限られかねないような無神経な言葉だった。でも亮介は、私の滅茶苦茶な提案を精査したことがわかる表情で、「それは無理だ」と真面目に言った。そこには茶化して誤魔化すだけの余地も、言い訳を挟むだけの余地もなかった。遊びのない言葉で、亮介は琴乃との過去を選んだ。その言葉に、苦しいだけだった柴原琴乃の退屈な半生は救われ、私のアディショナルタイムは完全に否定された。生きている間になんの勇気も出せなかったくせに、今になってこの人の恋人になろうだなんて、虫が良過ぎた。彼と琴乃との思い出の間に割って入ろうだなんて、そもそも無理があったんだ。立派なみてくれだけでは、築かれた過去は到底打ち破れなかった。それは喜ばしくもあり、同時に私を谷底へと落とした。

 私は隠し立てることができないほどに深いショックを受けて、表情を歪ませ肩を落とした。一度くらい恋人みたいに過ごしてみたかったのだけれど、この分では無理そうだ。そんな時だった。亮介が私の髪の毛にそっと触れた。何かの間違いかと思ったが、確かに触れていた。急な出来事に心臓が言うことを聞かない。目が回りそうになる。亮介は私の目を見て微笑んで、「ありがとうな」と言った。鈍った思考では彼が何に感謝しているのかちっともわからず、私は首を傾げて尋ね返した。亮介は照れ臭そうに説明してくれた。

「心配してくれたんだな、僕のこと」

 つい、笑ってしまった。どれだけあなたはお人好しなの。野良猫並みに警戒心が強いくせに、一度信用するとすぐこれだ。ああ、おかしい。ダメだなあ。今の私ではどうしようもないことくらいわかっていたけれど、うん、やっぱり私は諦めきれないや。

 ごめんね、琴乃。ごめんね、亮介。ごめんね、私。

「この夏祭りだけ、私のことを考えてください」

 私は亮介にお願いする。この夏祭りだけ、それが最後。だから、

「わかった。祭り囃子が鳴り止むまでは、詩織のことだけを考える」

 あなたの何気ない言葉に、舞い上がりそうになるのも、これがきっと。

 

 祭囃子が遠ざかると、代わりに散りばめられた世界の秘密がやけに目立った。恋人たちの声を殺したひそひそ話だったり、男女がどちらともなく重ねる手や唇だったり。そういう祭りのほのかな熱の香りが駅のロータリーで日常と交差し、その境目から特別な色素が浮かんでいた。例えばそれは、かき氷の上に乗った黄色だった。

 一つしかないスプーンでかき氷を分け合った。というか、私の口に触れたスプーンを、無理やり彼の口にも押し付けた。そう表現すると聞こえが悪いが、亮介も結構楽しんでいたように思える。わからない。私がそう思いたいだけなのかもしれない。でも、幸せだった。

 二人で、本当の恋人同士みたいに過ごしていた時、亮介は祭りの熱に当てられたのか、ぼんやりした口調で私に尋ねた。

「詩織は僕の前から去らないでいてくれるか?」

 それが、本当のおしまいの合図だった。祭りの日の駅前のロータリー。それは優しく残酷な夢の終わりのような場所。この場所で、全てが最後になる。この身体で重ねた罪の数なんて数えたらキリがない。何より亮介の心に僅かながらもまた一つの忘れ物を増やしてしまうことを、本当に申し訳なく思う。できることなら、亮介の知る詩織の皮をかぶった「私」のことも、亮介が守る思い出の中の琴乃としての「私」も一つ残らず、私と一緒に永遠の無に連れて行ってしまいたい。でも、そんなことはできないから。

「私はあなたの前からいなくなります」

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 ふとすると自責の念に自我を食い潰されそうだった。

「今の私があなたに会えるのはこれが最後」

 冷静を装おうとして、声が震える。

「とても幸せでした」

 最後、恋人の真似事ができただけでも。アディショナルタイムを与えられてよかったと思える。大好きな人とほんの二週間一緒にいられただけで、私はどうしようもなく幸福だった。

 だから、去りゆく私の手をそんな風に取らないで。こんなどうしようもない人間を引き止めようとしないで。明日から私は消えるその日まで贖罪代りの祈りをして過ごすだけの死刑囚に成り果てる。でもあなたは違う。あなたには、素晴らしい未来が広がっているはずだ。そこにはあなたを縛る幼馴染みの面影などない、あなたのためだけに存在する世界が広がっている。だからどうか、私のことなんて見捨てて。

「ごめん」

 亮介は私に詫びた。多分、咄嗟に手を掴んだ時に、少し力が入ってしまったのを謝っているんだろうな。そんなふうに、私のことを気遣う亮介のことが大好きだった。大大大好きだった。誰からも邪険に扱われていた幼い私を優しさと快活さで外に連れ出してくれた時、時折噂話なんてされながらもずっと私のそばで笑っていてくれた時、中学校生活でたったの一度だけ私と目を合わせて少し綻んだ時、琴乃の話を幸せそうにした時、背を向けた私を必死に引き留めている今。ずっと私は恋をしていた。私の核は、どんな名前を与えられていようと、必ず亮介のことを愛していた。亮介こそが、私の全てだった。

 私は目を瞑って、ゆっくり三秒数えた。いち、にい、さん。大切なあなたが、今日まで私を守ってきたおまじない。あなたは私を救い続けた。

 私は翻った。びっくりした亮介の顔が、可愛かった。愛おしかった。ときめいた。十六年と二週間分の「感謝」と「想い」を全部込める。大好きでした。大好きです。愛しています。

 そうして私は最後の罪を犯す。

 触れるような滑らかなキスだった。一瞬は永遠で、永遠はゼロと一秒の間で弾けた。

「もう、油断しすぎよ」

 私は最後に亮介の頬に触れて、そうして走り去った。着慣れない浴衣で二回転んだ。膝をすりむいて、静かな藍色に毒々しい赤色が混ざった。私は路地裏で呻くように咽び泣いた。

 かくして私の十六年間と二週間の恋は終わりを告げた。

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