チャキチャキな床屋さん

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チャキチャキな床屋さん



 下町風情が漂う建屋が並び、小路が迷路のように入り組んだ町家。明治時代に植えられた銀杏の大木が若葉を風に揺らしている。大木の横には、小さな不動堂が建てられていた。中には江戸時代から保存されている、石神が祭られている。由緒正しい不動堂の前には、ヒッソリと理容店が佇んでいる。

 古びてはいるが汚れてはいない革製のバーバー椅子には、アイロンの効いた白布が掛けられていた。その椅子の横で頑固そうな男が、煙草をふかしている。もう少しで店仕舞いの時間に電話が鳴り、舌打ちしながら受話器を取り上げた。

「はい、田沼理容!」

 しわがれた胴間声が店内に響く。


「……あの、すいません。ちょっと伺いたいことがあるのですが、お時間宜しいでしょうか」

 ナヨナヨとした男の声だ。俺が一番嫌いなタイプの、気弱な話し方が勘に触る。

「何が聞きたいんだい? チャッチャと話してくんな!」

「今週の土曜日なのですが、車椅子の老人の髪を切って頂きたいのです。ご迷惑ではありませんか?」

「迷惑も何もウチは髪を切るのが仕事だよ。ジーサンかバーサンか?」

「えっ、あ、ジーサンです」

「ジーサンは足が弱いのかい?」

「はい。少し痴呆が入っているので、他の御客様に迷惑がかかってしまうかも……」

「分かった。ウチは開店が九時だから、八時半に来い。シャッターを閉めておくから、店の前に来たらシャッターを叩け」

 ためらう様な間が開いた。俺は、また少しイラッとした。

「大変ありがたいのですが、ご迷惑では……」

「迷惑なら言わないよ。他に要件はあるかい?」

「……いえ、ありません。僕は草間と申します。どうか宜しくお願いいたします」

 草間という男に皆まで言わせずに、俺は受話器を置いた。住居スペースの入り口に掛けてあるカレンダーに、土曜日の時間を書き込むと、シャッターを下ろす電動ボタンを押す。


 カタカタと音を立ててシャッターは下り、店の明かりに照らされていた不動堂は、薄闇に塗り込められた。



 土曜日の朝は生憎の小雨だった。約束の時間の五分前にホトホトとシャッターを叩く音がする。俺は、電動ボタンを押しシャッターを開けた。

 店の前には熊のような大男が、背中を丸めて立っていた。大きめの傘を小路の方に掲げている。

「おはようございます。今日は、ご無理を申し上げました。草間と申します」

 草間は律儀に大きく頭を下げた。そして彼の後ろに立つ小柄な老人を店へと誘う。

「さぁ父さん、着いたよ。お疲れ様」

 草間に誘われた老人は異様な風体で、俺は一瞬、気を呑まれた。年季の入った蓬髪ほうはつは人の手が入らなくなってから、何年経ったのか。背中は大きく曲がっていて、ちぐはぐな印象のシャツとズボンに指の切れた手袋をしている。弊衣蓬髪へいいほうはつとは、この事を言うのだろう。

 無言でヨタヨタとバーバー椅子へ向かい歩いて行く。


「車椅子じゃなかったのかい?」

「はい。雨が降り始めたので車椅子では大変だろうと、父が頑張ってくれました。一応、雨合羽も用意したのですが」

 大男は気弱な微笑みを浮かべた。

「初めて見る顔だが、この辺りにお住まいかい?」

「はい。僕は高校生まで近所に住んでいました。その後は、東京を離れて暮らしています」

「そうかい。ここは見つけ難いことで有名な床屋でなぁ。ほとんど常連しか来ないんだよ。どうやってウチを見つけたのかな」

 草間は胸ポケットから、スマートフォンを取り出した。

「ネットで見つけました。実家から一番近い理容店だったので」

「今は何でも便利になったよなぁ」


「ベラベラ喋ってないで、髪を切れ!」

 唐突にバーバー椅子の上で、老人が悪態をついた。その声を聴いて、ビクリと大男は肩を竦める。

「父さん。無理を聞いて貰ったのだから、少し我慢して」

「俺は忙しいんだ。この後だって、医者に行って人に会って」

「あ~はいはい。今日はどんな髪型にされますか?」

 さぁ、商売の時間だ。俺は愛想の良い声をあげて、老人に散髪ケープをかける。

「角刈りにしてくれ。急いでな!」

「分かりました。短めにしますか?」

「……任せる」

 それきり老人は目を瞑って、一言も話さなくなった。大男は申し訳なさそうな表情を浮かべて、背中を丸めている。俺は控えのソファーを指差した。

「悪いが、そこに座って待っててくんな。すぐに済ますから」

「宜しくお願い致します」

 大男は深々と頭を下げると、ソファーに座った。ナップザックからノートパソコンを取り出し、何かを入力し始める。急ぎの仕事でもあるのだろう。スマートフォンもなり始めた。聞きなれない、外国語で何か話し始める。商売繁盛で良いこった。


「さぁ、格好良くしちまいましょう」

 シャワーの栓を勢いよくひねった。老人の髪はそのままではハサミが通らない程、油じみている。シャンプーも一度では泡すら立たず、三度に分けて洗うことが必要だった。洗い終わった髪を乾かして、髪の流れを見るが滅茶苦茶だ。おそらく自分で鏡も見ずに切っていたのだろう。

 バリカンで脇と襟足を整えて、全体を俯瞰する。素人は『角刈り』と簡単に言うが本当は、かなり技術の必要な髪形なのだ。その人物の髪の流れと頭の形を考慮して、髪形を作らなければならない。老人の髪は太く、白髪だが毛量が多かった。これなら角刈りにするのに申し分が無いだろう。

 刈り込み鋏を手に取った。髪の流れ、頭の形に沿って白髪を刈り込んで行く。ミニ鋏も使って、角の形も調整する。足元には驚くほどの量の髪が散乱していた。本当に何年も理容店を使っていなかったのだろう。


「じゃあ、髭も当たっちゃいましょう」

 バーバー椅子の背を倒したところで、老人がうめき声をあげた。草間が慌てて立ち上がる。

「すいません。圧迫骨折をしたばかりで、あおむけが厳しいのです」

「あぁそうですか。じゃあ髭剃りは止して、眉の形を整えるだけで」

 鏡の前には見違えるように、見栄えの良くなった老人が座っていた。着る物さえ整えれば、一流商社を定年退職したあがった好々爺に見えなくもない。老人を見た草間はハッとした顔をした後、俯いて顔を上げなくなった。そんな大男を見て老人は、舌打ちをする。


「これでいいぞ。幾らだ?」

「へい。顔剃りをしなかったんで三千円で」

 草間は慌てて一万円札を差し出した。

「ありがとうございました。お釣りは結構ですので」

「そういう訳にはいきませんよ。お代はお代です。はいっと七千円の御返しね」

 何か言おうとしている大男を尻目に、老人はサッサと店を出る。店に入って来た時より幾分、威勢が良くなったようだ。

「早くしろ。次は医者に行くんだろう!」

 大男は慌てて身の回りを整えると、大きくお辞儀をして店を出た。不動堂を右に曲がったから、内科と老人科で有名な個人病院に行くのだろう。東京を離れて長いのだろうに、良く調べた物だ。俺も彼らを追って、店を出た。


「あぁ、おい。草間君」

 俺の声を聴いた大男が振り返る。

「頑張りなよ! きっと良い事があるから」

 顔をクシャクシャにした大男は、踵を返すと老人を追って不動堂の影に消えていった。



 口の悪い老人と係わったせいか、この日の競馬の成績は散々だった。今は馬券もスマートフォンで買えるらしいが、俺は近所の喫茶店に電話をして代わりに購入してもらっている。この分では日曜日の夕方に持ってゆく負け分が、相当な額になりそうだった。

「験が悪ぃなぁ、早仕舞にするか」

 俺は煙草を灰皿でもみ消すと立ち上がった。その時、入口の扉に大きな人影が映る。

「すいません。まだやっていますか?」

「あれ草間君、どうしたんだい」

 入口には大男が所在無げに立っている。

「今日は大変お世話になりました。お礼と言っては何ですが、僕の頭もお願いします」

「そんな事は気にしなくてもいい。親父さんは大丈夫かい?」

「はい。一段落付きました」

 バーバー椅子に座った大男は老人と同じように目を瞑った。彼の髪は老人ほどでは無いが埃まみれになっている。朝来た時より汚れているから、おそらく実家の大掃除でもしていたのだろう。


 シャンプーの後、鋏を入れ始める。自慢じゃないが俺の座右の銘は『口八丁手八丁』だ。軽快なスピードで髪を切りながら、草間の事と次第を聞き出しにかかる。

 大男の実家、つまり老人の住まいは此処から歩いて5分ほどの所にある、マンションであること。今日は途中で何回も休憩を入れ、15分かけてここまで歩いてきたこと。

 やはり体調の悪い妻の転倒を庇って、老人は背骨の圧迫骨折を患ってしまったこと。

「身体が痛いから不機嫌になるのだと思いましたが、どうも痴呆が始まってしまったようで……」

「それじゃあ大変だな。生計たつきはどうしているんだい?」

「近所に妹夫妻が住んでいまして。買い物やらは彼女や彼女の娘が交代でしてくれています。ここまで状態が酷くなるまで、僕に心配かけまいと連絡もしてくれなくて」

「それなのに、どうして分かったんだい?」

「珍しく父から電話をくれまして。でも何を言っているのか、要領が掴めないのです。電話を切った後、妹に連絡を取って初めて状況を知りました」


 その後すぐに、国際線の航空チケットを入手したそうだ。大男は東京どころか日本を離れて仕事をしていた。初めてウチに電話をくれた時、まだ日本にはいなかったのだと話す。

 事情が分かれば、後は普通の客と同じだ。俺の口八丁が回り始める。大体の男性客は呑む・打つ・買うのどれかに引っかかるもんだ。草間は女の話が苦手そうだった。だから酒で失敗した話や、ギャンブルで酷い目にあった話をしてやった。

「田沼さんは、ずっとこの辺りにお住まいなのですか?」

 少しは緊張が解れたのだろう。大男も控えめに口を開き始めた。

「生まれは深川でねぇ。色々あってここに落ち着いたんだ。俺の爺さんのジーサンの代から東京で暮らしてらぁ」

「では本物の江戸っ子ですね」

「応よ。こちとらチャキチャキの江戸っ子さ。床屋だからチョキチョキだけどな」

 鉄板のネタを聞いて、大男は苦笑する。やっと笑顔が戻った。ヤレヤレ。客商売も大変だ。



「髭を当たるから、椅子を倒すよ」

 俺のカミソリは特注品だ。月に何度も近所の研ぎ屋に研ぎに出すから、切れ味も一級品。顔に当てても髭が全く引っかからないから、鉄の棒を顔の上で転がしているようにしか感じない。

「蒸しタオル、熱くないかい?」

 聞いて見たら返事がない。アララ。よっぽど疲れていたのだろう。寝てしまっている。口元を当たるときは危ないから、寝てもらっている方が具合はいい。医者をやっている常連の一人は、俺と話をしたくてやって来る。だから口の周りを当たっている時ですら、何か話そうとする。危ないから黙ってろと言うと、

『俺は医者だ。切れたら自分で縫うから大丈夫だ』

 などと言い立てる。頭が良いから医者をやっているのだろうに、馬鹿な事をいう御仁もいたものだ。


 全部終わって椅子を戻すと、大男は目を開けた。

「どうしたい? 何か言いたそうな顔をして。何処か手直しした方がいいのかい?」

「いえ、仕上がりは完璧です。二〜三ヶ月後、また父を連れて来ても、ご迷惑ではありませんか?」

「いつでもおいで。また開店前がよければ、電話をくれればいい。変な遠慮はいらないからな」

 草間の肩をパチンと叩く。大男は料金を払って、お辞儀をした。

「あっ、ちょっと待ってな!」

 俺は居住スペースに入り、家の冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

「頑張れよ。きっと良い事があるからな!」

 大男はポカンとした顔でビールを受け取ると、顔をクシャクシャにした。


「親父さん。もう良い事があったよ」


 馬鹿野郎。こんなちっぽけな事じゃねぇ。今度来るときまでに良い事がなければ、この俺が一杯奢ってでも、良い事を起こしてやる。


 何てったって、俺様はチャキチャキの江戸っ子だからな。チョキチョキじゃあねぇぞ!









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