第40話 その後の彼ら。そしてお空のヘニーへ。






 レアが王城を去ったと聞いてから、一ヵ月が経った。

 日々、忙しそうなローデヴェイクとは違い、やる事が無く、暇を持て余しているヘルトルーデは、彼が所有している離宮の庭園で手紙を読んでいた。


 庭師の腕が良いのだろう、離宮の庭園は美しい花々が規則性を持って咲いていて、見る者を楽しませながら癒してもいる。

 ヘルトルーデの心情的には、コニングの屋敷の庭との落差に場違い感が拭えなかったが、それをそのまま口にする事は出来なかった。

 ローデヴェイクに聞かれれば、慣れてしまえば大丈夫、とプレゼント攻撃が開始されるからだ。

 離宮に滞在して五日目で一度それをやられた。


 失礼いたします、と離宮の使用人が王太子の庭園に相応しい美麗なテーブルに、美味しそうなお茶とお菓子を置いていく。

 男爵の娘には不釣り合いな、品の良い贅を凝らしたドレスを身に纏っているヘルトルーデは、離宮の使用人たちに至れり尽くせりな、丁重すぎる持て成しを受け続けていた。


 どうしても感じてしまう居た堪れなさに「ありがとう」と軽く会釈をして、ヘルトルーデは再び手紙に視線を落とす。

 手紙の主は公爵令嬢ヴィレミーナ・ベイエルスベルヘンで、コニング領に向かう道中で書いたものだった。


 手紙の主な内容は、ヘルトルーデらと別れた後の事だ。

 そして同じ封筒の中に、ローデヴェイク宛ての手紙と、渡すかはローデヴェイクの判断に委ねるとした父公爵宛ての手紙が入っていた。

 ヘルトルーデ宛ての封筒の中にそれらが同封されているのはきっと、王宮内の状況が分からない中で、直接、彼らに送る危険性を考慮した結果なのだろう。

 差出人の名前も、ヴィリーの父が懇意にしているギルド長のものが使われていた。


 他にする事がないのもあって、ヘルトルーデは手紙をゆっくりと読み続けていたが、それも終わり、今し方、離宮の使用人が淹れてくれたお茶に口をつける。


 あの日―――王城に乗り込み、解呪の陣の発動と、アンシェラことレアと対峙した日から離宮で過ごし始めて。

 レアが目覚め、王城を去ったと聞いた数日後に、ヘルトルーデも此処を出るとローデヴェイクに告げた。

 いつまでも王太子所有の離宮に自分が居るのはおかしい、余計な醜聞を生むのではないか、王太子として再始動したローデヴェイクに迷惑はかけられない、旅の準備が出来るまで、自分は子供姿に戻ったヴァルデマルらと王都の宿で待っている、と。


 しかし、ローデヴェイクの回答は否。

 彼は、そのような事を気にする必要は無い、些末な問題は直ぐに解決する能力を自分は持っているつもりだし、甲斐性もあると思っている、そして、ヘルトルーデを目の届かない場所へ行かせるつもりもないし、男爵家が何を言ってこようがコニングの家に帰すつもりもない、と言われた。

 今、縁を切る手続きをしている、とも。

 そこにヘルトルーデの意見は入っていない。


「……縁を切る、か」


 正直な気持ちは、複雑だ。

 異母妹アンシェラが来てから、心が傷つく事が多い日々を送ったのは確かだった。

 愛犬ヘニーの亡骸を発見した時は、耐えられないとヘルトルーデこそが、コニングの家を見限った。


 けれど、レアの過去の記憶の奔流に巻き込まれ、今回の事の全貌が見えてしまうと、見限ったはずのコニングの家が気になってしまう。

 王城内の人達のように、闇の力の影響を受けていたのなら。

 彼ら―――父ロブレヒトや執事ルーロフ、屋敷を去ったらしいメイド長のマフダや、他の使用人達は今、どうしているのかと。


 ペンダントの闇の魔石が破壊され、昔に戻ったのなら、彼らはきっとヘルトルーデにしてしまった事に傷つき、深く後悔するに違いない。そういう人達だ。

 そんな彼らを切り捨てるのか。今回の事が起こるまで、温かい家族であり、大切な仲間だった。


「どうしたらいいのか、分からないよ……」


 今回の事で罪人となってしまった兄マレインがどうなったのかも、ヘルトルーデは知らない。

 離宮は、主であるローデヴェイクが齎してくれなければ、一切の情報から遮断されてしまう環境である事をヘルトルーデは知った。

 その肝心なローデヴェイクが、その話題に触れないのだ。


 魔王ヴァルデマルが闇の力を使って調べるかと言ってくれたが、首を横に振った。

 話すべき時がきたら、ローデヴェイクが教えてくれると信じているからだ。


 ヘルトルーデは、離宮の使用人が用意してくれたお菓子に手を伸ばした。

 ここのお菓子は美味しくて、このままでは太りそうだとヘルトルーデは危機感を抱いている。

 これも一度、ローデヴェイクに言った事があるが、「柔らかさが増したヘルトルーデもいいよねぇ」とニヤニヤされたので、二度と言うまいと心に決めた。


 離宮の使用人がヘルトルーデの周囲から消えた。

 今、この場に居るのはヘルトルーデひとりだけだ。

 本来なら一定の距離を保って控えているものなのだろうが、ヘルトルーデがそれを来た当初に断っている。


 護衛を置くのも断った。

 理由は落ち着かないからで、護衛に関しては、魔王ヴァルデマルも離宮に滞在している事から、ローデヴェイクが了承してくれた。

 それに気持ちとしては、ヘルトルーデだって剣をそれなりに扱えるという自負もあった。


 自然が鳴らすもの以外は、ヘルトルーデがお菓子を咀嚼する音しかしない静かな庭園に、サクリと芝生を踏み鳴らす音が加わった。

 魔王ヴァルデマルだ。

 つい先程まで子供姿であったはずの彼は、金髪の頭上に紫銀色の一対の角を持つ美丈夫となっている。

 目が合うと、魔王ヴァルデマルは口の端を上げ、ヘルトルーデが座る横の椅子に腰を下ろした。


「また魔王の姿に戻ったんだね。ミィちゃんとラディは嫌がらなかった? さっきまで向こうで楽しそうに遊んでいたのに」

「試したい事があったのと、やはり一度でも元の姿に戻ってしまうと、此方の方が過ごしやすくてな。人と変わらぬ子供の体は不自由だ。脆弱で非力であり、小さい」

「でも、魔王本来の姿でいると、魔獣の発生が加速したり、魔の者が目覚めてしまうんでしょ? 大丈夫なの?」

「我に抜かりはない。ギリギリのところで、また存在を割ればいい」


 そう自信満々に言うのに、ヘルトルーデはクスリと笑った。

 魔王らしいと言えば魔王らしい言葉だ。


 あの日、ローデヴェイクに指示されて、離宮に向かって。

 離宮に辿り着いて直ぐに、魔王ヴァルデマルは存在を割った。

 ミロスラヴァとラディスラフを出現させて、自身も子供姿になったのだ。


 ミロスラヴァに猫のヘルトルーデを抱かせて他者の警戒心を排し、ローデヴェイクから行くよう言われたと離宮の者に告げた彼は、害の無い子供のふりをして、入浴、食事、寝床を要求。

 そして就寝の時間になり、皆で同じベッドに入って、獣化の解除条件は何だと考えた。


「手紙か」

「あ、うん。ヴィレミーナ様から。コニングに向かう道中で出したみたい」

「呪いについては?」

「書いてあるわ。やっぱり完全には解呪されていないって。ヴィレミーナ様は、ラディが掛けた痛覚麻痺の魔法が解けても、そう痛まなくなったって。見た目も、服から覗く場所は大分良くなったみたい。社交界に戻るには程遠いらしいけど」

「聖女は?」

「魔の者の目には見えなくなったみたいよ。黒くなっていた白目の色がかなり薄まったって。ただ、視力は全く戻っていないって書いてある」

「そうか。他には」

「新鮮で楽しいらしいわ。無事、ギルドで信用できる護衛を何人か雇って、その彼らとの関係が良好だそうよ。これまで知らなかった世界を色々と見せてくれるみたい。聖女様も笑顔をよく見せてるって。―――良かった。完全な解呪には至っていないけど、それでも楽しいと思えるまでにはなったみたいだもの」

「ローデヴェイクが解呪に並々ならぬ意欲を燃やしているからな。いずれはお前も含め、元の姿に戻れるだろう」

「そうだね。また旅に出る為に、毎日忙しそうにしているし」


 ヴァルも食べる? と続けて、ヘルトルーデが魔王ヴァルデマルの手にお菓子を載せると、彼はそれを暫し眺めて首を横に振り、皿の上に戻した。

 そしてその手が、ヘルトルーデの顎を捉える。


 ローデヴェイクに与えられた高価で美しいイヤリングが揺れた。


「ヘルトルーデ、再び旅に出る前に試したい事がある」

「試したい事?」

「ああ。獣化の条件についてだ」


 魔王ヴァルデマルが目を伏せた。

 強い力では全くないのに捉えられた顎が動かない。


 彼の纏う匂いがヘルトルーデの鼻を擽った。

 直後、魔王ヴァルデマルのローデヴェイクとは違った冷たく感じる唇が、ヘルトルーデのそれとそっと重なる。

 そして彼の舌が割り入ってきて―――。


「……んっ。ちょ……ちょっと待、」


 突然の魔王ヴァルデマルの行為に、ヘルトルーデは喫驚だ。

 彼の意図するところが分からない。

 顎は捉えられたまま、口は塞がれたままで、口内ですら難なく支配していく彼は、成程、魔王に相応しい。


 トクリと心臓が跳ねた。

 突然だったとはいえ、突っぱねる事が出来ず、嫌悪が少しも湧かないのに、ヘルトルーデは自分に驚きでしかない。


 あの日、ローデヴェイクと人の姿同士で初めてキスをして、猫になった。

 その日の深夜、遅くなったとヘルトルーデらに用意された寝室を訪れたローデヴェイクは元の姿に戻っていて、彼は、あれから直ぐに銀狼の獣耳も髭も尾も自然に消えたと言った。

 では、猫の姿のまま元に戻る気配の無いヘルトルーデの解除条件は何だとなり、ローデヴェイクが猫のヘルトルーデに再びキスをしてみたが、人の姿に戻る事は出来なかった。


 夜も更けていく中、皆して考えて。

 色々とあった日だ、疲れたのだろう。眠そうに目を擦ったミロスラヴァが「ママ、おやすみなさい」と猫の口にキスをして、ヘルトルーデは人の姿に戻れたのだ。

 

 それからは獣化の条件に確証を得る為と、多忙の合間を縫ってやってきては、隙さえあれば唇を合わせようとするローデヴェイクに呆れた。

 結果、ローデヴェイクにキスをされれば猫になり、ローデヴェイク以外が猫にキスをすれば人に戻れることが判明する。

 猫の口には、ミロスラヴァとラディスラフが可愛らしいキスで実験に協力してくれた。


 ちなみにローデヴェイクの一部獣化と解除の条件は、ヘルトルーデとキスをすれば一部が獣化し、解除は少しの時が経てば、といったものだ。


 これらの条件が判明しているのだ。

 魔王ヴァルデマルの行為の意味が分からない。今のヘルトルーデは人の姿だ。元に戻る必要が無いのにキスをする意味が無い―――そう思った時、ポフリとヘルトルーデはクリーム色の毛を持つ長毛種の猫に変化して、ローデヴェイクにより与えられた高価で美しいイヤリングが外れ落ちた。




*****




 開いた猫の口が塞がらなかった。


「(………………え?)」

「お前との接吻は、菓子の味がしたと言っておこう」


 猫になった事への衝撃でポカンとしてしまっているヘルトルーデとは対照的に、魔王ヴァルデマルは実に満足気な表情をしている。

 猫の顎の下を撫でながら、先程、ヘルトルーデが口にしていたティーカップを手に取り、温くなったお茶を飲んだ。

 一息ついた彼は、言葉を続ける。


「我の予想通りだ。何もローデヴェイクでなくともよい」

「(……ど、どういう事? 獣化条件が違うって事?)」

「違うというよりも、特定の人物に限定されないという事だ。故、我でもよいし、他の者でもよい」

「(えっと、それは)」

「要は、お前の心臓を跳ねかす行為がされればよい。接吻でなくともよいのではと我は推測しているのだが―――試してみるか?」


 からかうように片眉を上げ、魔王ヴァルデマルがニヤリと笑う。

 当然、それに慌てたのはヘルトルーデで、可愛らしい猫の頭をブンブンと横に振った。


「(いい! 大丈夫よ! 猫になってしまったんだもの、ヴァルの言った通りなんだと思う!)」

「それは残念だ。我と色々試してみるのも一興だっただろう」

「(ヴァル!)」


 からかってくる魔王ヴァルデマルにキリリと猫の目で睨んでみるが、勿論、効果は全く無い。

 そんな魔王ヴァルデマルが、猫のヘルトルーデを持ち上げて懐に抱いた。


「猫は良い。癒される」

「(……え)」

「やはり魔王城に来ないか? ミィとラディも居る」

「(ヴァル、でも)」

「我からしたら、急いで解呪する必要性を感じないし、中途半端にでも呪いが掛かったままでは、人間の生活圏では生き難いだろう。聖女も、ヴィレミーナという娘も魔王城に住まわせればよい。我の庇護下に入れば、人の世の煩わしいものから解放される」


 だけど人と魔の関係はそう単純な話ではないのでは、魔王ヴァルデマルの提案の言葉に、そう続けようとして出来なかった。

 サクリと庭園の芝を踏み鳴らし現れたローデヴェイクが、いつの間に出したのか、光の槍の照準を魔王ヴァルデマルに合わせていたからだ。

 ヘルトルーデは、猫の目をパチクリとさせた。


「(ローデヴェイク、どうして攻撃態勢になっているの?)」

「…………聞きたいのは此方の方だよ、ヘルトルーデ。どうして猫の姿になっているの」

「(え? あ……えっと、あのね)」

「我が人の姿のヘルトルーデに接吻をしたからだ。美味しい菓子の味がした」

「ヴァル! 貴様っ」

「我の予想は当たっていた。ローデヴェイク、なにもお前でなくともよかった。ヘルトルーデが何かしらの行為で心臓を跳ねかせればよい」


 ギリリとローデヴェイクから歯軋りの音が聞こえた。

 彼の表情は怒りに満ち、額に青筋さえ浮かべている。


 サクリと芝が音を鳴らす。

 ローデヴェイクが一歩一歩と近づいてきているのだ。


「ヘルトルーデは肉体の接触で心臓を跳ねかせて獣化し、別の者の手によって人に戻る。それはいい。だが、お前はだ、ローデヴェイク」

「……………」

「我が気づかぬと思ってはおらぬよな?」

「……五月蠅いよ、糞爺が」


 引っ手繰るといった手つきで、ローデヴェイクが魔王ヴァルデマルから猫のヘルトルーデを奪った。

 そしてギュッと抱き締めると、可愛らしい猫の口に触れるようなキスをする。

 

 ヘルトルーデが人の姿に戻った。

 ラディスラフの仕掛けた魔法が瞬時に発動して、魔の者の成体の女性が好む露出度の高い漆黒のドレスが出現する。

 スルリとした手触りの漆黒のドレスに包まれたヘルトルーデの腰に、ローデヴェイクが手を添えた。


 魔王ヴァルデマルが嗤う。


「ローデヴェイク、お前の獣化の条件は実に恥ずかしいものだ」

「黙れ」

「お前の場合、お前の本性そのままを現わしている。性的な欲求が高まれば一部が獣化し、収まれば人に。恥ずかし過ぎるな。興奮を他者に隠せない」

「私は黙れと言ったよ?」

「魔王である我が従うとでも? ローデヴェイク、けだものだ、お前は」

「ヴァルッ」

「―――ヘルトルーデ、あのようなけだものの側に居るより、やはり我と魔王城に行こう。平穏だぞ?」

「そのような事を、私が許す訳が無い! ―――ヘルトルーデ、まずは消毒をするよ! 君の可愛い唇に、糞爺の年代物の唾液が付着したかと思うと虫唾が走る! 私が全て舐め取ろう!」

「え、待って! なんか発想がずれてない!?」

「ヘルトルーデ、やらせてみろ。それでお前が猫にならなければ、ローデヴェイクは別の意味で衝撃を受けるだろうよ。そして、あやつだけがけだものになり、立ち直れない程の恥を掻くのだ! 嗤える! 本当に嗤える!」


 ヘルトルーデの腰を引き、強引に口を寄せてきていたローデヴェイクの動きがピタリと止まった。

 彼の額の青筋が激増し、怒りに体がプルプルと震えている。

 

 ふぅ、とローデヴェイクが息を吐いた。

 身に纏う漆黒のドレスの露出度が高い為に、剥き出しのヘルトルーデの肩に彼は直接触れて、横へと避ける。


 ローデヴェイクが魔王ヴァルデマルに向き合った。

 足を踏ん張ったのか、ザリッと芝が音を鳴らして抉られる。


「一度、いや、何度か痛い目を見ないと分からない糞爺のようだね」

「糞爺、糞爺と言うが、我は外見を誤魔化してはいない。我は若い」

「ほざくのも大概にしてくれないかな! 光の魔力と相性が悪すぎるその魔王の肉体に、光の槍を突き刺して、じわじわとジックリ焼いてあげるよ!」

「出来るか、小僧が! 我は真の闇を自在に操る魔王ぞ!」


 突如、王太子所有の美しい離宮の庭園に、光と闇の魔力が渦巻く強風が吹き荒れた。

 つい先程、抉れた芝の欠片は遠くへと転がり飛ばされ、庭園の花々は、葉と共に強制的に散らされていく。

 小枝が折れ、太い枝と幹が軋み、お茶とお菓子が置かれていた美麗なテーブルも、椅子と一緒に吹き飛んでいった。


 そんな有り様に悲鳴を上げるのは、この場ではヘルトルーデしかいない。


「止めて!」

「ヘルトルーデ、危ないから下がっていて!」

「ヘルトルーデ、我がこのけだものの魔の手から、お前を護ってみせようぞ!」

けだものではないよ! 枯れ果てた糞爺には疾うの昔に忘れてしまった、恋愛という正当でしかない感情による、当たり前の欲求でしかない! ああ、そうか! 忘れてしまったからか! 枯れて底を尽きて未来永劫取り戻せないから、私とヘルトルーデが羨ましくて仕方ないのか! 嫌だねぇ、糞爺の醜い嫉妬! 煩わしさしかないよ! 迷惑だ!」

「貴様っ! 執着と束縛と変態に加え、性欲の権化が何を言う!」

「人聞きの悪い事を言わないでくれるかな!? 私ほど紳士な男は居ないよ!」

「……どうやら己というものが見えていないようだな?」

「……糞爺の醜悪さに反吐が出るよ」


 ビキリと空間が歪んだ。

 二人の放出する強大な光と闇の魔力に、場が耐えられないのだ。

 このままでは周囲に甚大な被害が出る事は必須で、ヘルトルーデは大いに焦る。


「ねえ! 子供のような喧嘩は本当に止めて! それこそ皆の大迷惑よ! 止めないなら、せめて結界か何か、周囲に影響が無いように膜を張るくらいの気遣いをして!」


 ドンとした音が轟いた。

 そして瞬時に無音になる。

 何らかの膜が双方から張られたのだ。

 二人の姿は見えない。

 中は、眩しい光と、一切の光を通さない真の闇が混ざり合う、おどろおどろしい様相を呈していた。

 膜の内側がどうなっているのかは想像したくない。

 もしかしたら教皇になれる実力があるのではというローデヴェイクと、魔王であるヴァルデマルとの、周囲に大迷惑な激し過ぎる子供の喧嘩が行われているのだ。


 ヘルトルーデは溜息をつきながら、漆黒のドレスの乱れを整えた。

 そして庭園を見渡し、辺りが先程までの自然な静けさに戻ったのを確認すると、サクリサクリと芝を鳴らして歩き出す。

 離宮の使用人が来る前に、せめてテーブルと椅子だけでも元の位置に戻しておこうと思ったのだ。


 柔らかな風が吹いた。

 乱れてしまったクリーム色の髪を揺らしながら、ヘルトルーデは空を見上げる。

 爽やかな青空だった。

 陽光も適度に柔らかくて気持ちいい。

 王太子所有の離宮の庭園とは比較にならないが、子爵家の美しい庭園で婚約破棄をされた日と同じ青空だ。


 あの茶会の日、子爵家の嫡子で、魔塔の後継とされていた魔術師のケフィンに皆の前で婚約破棄をされた。

 ヘルトルーデは先の見えない辛い状況が続くのに疲れていた。

 オレンジ色の瞳にグッと力を入れて、涙が零れそうになるのを耐えて、何度も袖を通したドレスをキュッと握っていたのだ。


 あの時、ヘルトルーデに居場所は無かった。

 生まれ育ったコニングの男爵家にも、貴族社会にも無かった。

 その状況は今も殆ど変わらないだろう。


 色々な事があった。

 愛犬のヘニーを殺されて、コニングの家を飛び出し、ヴィリーの家に逃げた。

 呪いの発動で猫になり、置き手紙もせずにヴィリーの家からも消えて、暗い森を一人で彷徨さまよった。

 先立つ物がなく、着る服すらも無い。

 怖くて、不安で、自分で自分を抱き締めながら、裸足で森を歩いた。

 そして心が折れそうになった時、銀狼に出会えたのだ。


 その後のローデヴェイクとの二人旅は、ヘルトルーデにとって大切な時間だった。

 深く傷ついた心が慰められ、心強く、楽しくもあった。

 旅の道中、魔王ヴァルデマルらとも出会え、ヴィリーとの再会も果たせた。

 異母妹だと思っていたアンシェラことレアの事情も知る事が出来た。


 ヘルトルーデの状況は殆ど変わらないが、今は、ローデヴェイクが居る。

 魔王ヴァルデマルも居る。

 ミロスラヴァも、ラディスラフも居て、ヴィリーも居る。


 彼らはヘルトルーデに居場所を提案してくれる。

 それは王宮であり、魔王城であり、他国に置く拠点といった感じにだ。


 居場所の無かったヘルトルーデに、居ていいと言われる場所が出来た。


 今後をどうするか、ヘルトルーデはまだ決められていない。

 そもそも未だに猫になるし、ローデヴェイクは再び解呪の旅に出ようと言う。


 今の正直な気持ちは、彼が言うように、また皆と一緒に旅をしたかった。

 それがヘルトルーデの一番の希望で、我が儘な思いであるのも気づいている。


「―――あ、ヘニーみたい」


 青空に浮かぶ白い雲が、ヘルトルーデの愛犬ヘニーの真っ白い毛に似ていた。

 ヘルトルーデは目元を和ませる。


「ヘニー、問題はまだ山積みなんだろうけど、頑張るね。今、私は孤独じゃないよ。だから大丈夫。また旅に出るの。お空で見ててね。ヘニー、あのね、私―――」


 青空に向かってヘルトルーデは微笑み、嘆いていた女神が、ほんの少しだけ顔を上げた―――。




 【 終 】



****** ****** ****** ******



お話をご覧下さり、どうもありがとうございました!


・このお話についての後書きは、近況ノート(2023/01/09)にて。


・同日に投稿している作品があります。

…短編/転生令嬢はFPSの世界で熱いパッションを叫ぶ ~イケメンは神、イケメン無罪と言ったばっかりに~

https://kakuyomu.jp/works/16817330651695884617/episodes/16817330651696620442


宜しければご覧下さると嬉しいです ^^

桂木翠(2023/01/09)


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婚約破棄されて呪われた私の、解呪の旅と恋愛の行方。~魔王が言うには私は王子に束縛されているそうです~ 桂木翠 @sui_katuragi

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