第7話 お前の一番になりたい

「……何言ってんだよ」

 そう、呆然と呟く唇に口付けたいと思ったことは一度や二度でない、と。そう言ったらこの男は一体どんな顔をするのだろう、と思いながら、和樹は笑みをどうにか作った。

 大切なことを伝えようとした、のだと思う。随分時間をかけて言葉を選んでいたから。隆太はそういう男だった。自分の想いを真摯に伝えようとする時、彼はしばらく黙り込む。頬を掻き、額を揉み、髪をくしゃくしゃにして。そうして「これならば」と思うような言葉が見つかるとそれを差し出してくる。

 和樹は、その様子を眺めるのが好きだった。言葉を丁寧に扱おうとしている隆太を見るのが、好きだった。

 だからこそ、彼の先の言葉が真面目なものであることを痛いほど、理解できてしまう。普段自分の見た目に向けて振り撒かれる「好き」とは異質のものであること——自分が彼に長く抱いてきたのと同じ種類のものであること。それ自体は、泣きたくなるほど嬉しかった。

 だって、ずっと焦がれてきたのだ。他意のない「好き」という言葉さえ引き摺り出して片恋を慰めていた自分にとって、隆太に乞われることが甘美でないはずがない。……それが、彼の本心からの言葉であれば、だけれど。

 隆太は優しい奴だ。少なくとも、人の立場に立って考えることのできる男だ。それを知っているから、どうにもこの言葉が信じられない。

だって、あまりに急過ぎる。撮影から今まで二ヶ月近く音沙汰がなくて、今日突然の告白だ。何かあったのではないか、と思うのが普通だろう。

 ……和樹はずっと己の想いを殺してきた気でいた。けれども、それがこの男に知れていたならどうだろう。

 隆太にとって自分は、彼が出会った中で一番美しいものだ。自惚れではなく、彼自身がそう言っている。そんな相手から想いを寄せられていると理解した時、隆太は素知らぬ顔をしていられるだろうか。

優しくて、素直な性質の人間だ。隠し事が苦手で、嘘をつくのが上手くない奴が、何食わぬ顔で交流し続けることができるだろうか。

 この二ヶ月間連絡がなかったのは、嘘をつけなかったからではないか。

「あのさぁ、俺もお前が好きだよ。好きって言葉、嬉しいよ。でも、お前の好きって、多分俺のと違うからさ」

 撤回しろ、と。暗にそう示す。

「お前はさ、俺の一番大事な奴が俺であって欲しいって言うけど、俺はそんな綺麗な気持ちなんかじゃ済まないよ」

 は、と息が白く濁る。和樹はポケットに手を突っ込み、大きく息を吐く。一番の食い違いはそこだろう。

 隆太は優しいから、何かのきっかけで和樹の好意を悟った時、悩んだはずだ。悩んで、考えて、自分の思いと和樹の好意の近似値を取ろうとして、最終的に辿り着いたのが、先の「ずっと隣にいたい」だったのだろう。その気持ちは確かに嬉しい、けれど、和樹はそこで止まれない。

 自分が隆太に向けているのは、欲だ。自分だけを見て欲しいという独占欲。自分だけに執着して欲しいという被所有欲。あるいは、もっと即物的な言葉を使うのであれば、その体の隅々まで余すことなく触れたいという、肉欲。また、それを相手にも許したいという、性欲。そう言った種類の欲を、隆太に向けている——そうと知れぬように注意深く密やかに向けているつもり、だった。

「俺はお前を一番大事な奴にしたい。でもそれは、ただ大事にしたいってだけじゃなくて、お前が昔の彼女に向けてたような気持ちってことなんだ。わかるか? 好きで、自分のことだけ見て欲しくて、触りたくて、触られたいっていう、そういうやつ。そういうのも含んでるんだよ」

 目を伏せる。言ってしまった。これ以上直接的な言葉はさすがに選べなかった。これだってセクハラと言われてしまえばそこまでの言葉だ。けれども、これくらい言わなければきっとこいつは、和樹の心に寄り添おうとしてくるだろう。

そのほうが惨めだった。それくらいなら今すぐ、気持ち悪いとかそこまでは無理だとか、そういう言葉で拒絶されたほうがマシだ。

「……まって」

 しばしの沈黙ののち、隆太が口走ったのはそんな言葉だった。別に言われなくたっていくらでも待つ。お前が大事なことを言う時はいつだって待っているんだから、と胸の内で呟いて顔を上げれば、——隆太が妙な顔をしていた。

「その、まって。上手く言葉が出ないから、えっと、まって」

「……おー」

 そりゃいいのだけれど、と和樹は彼の顔を見返す。慌てたような、戸惑うような気配で、口もとを片手で覆って視線を逸らしている。かと思えばまたこちらを見て、一瞬ぱちりと絡んだ瞬間また離れていく。妙な挙動だったが、言葉が出ないから待ってくれと言われたら待ってやるのが今までの自分達の習慣だったから、指摘もせずに黙って待った。

 そうして。

「うれしい」

 不意に溢された言葉に、和樹は目を大きくする。

「は?」

「あの、すごく、うれしい」

 うれしい、と。繰り返した隆太が両手で顔を覆って勢いよく蹲った。

「え、おい、隆太⁈」

 ぎょっとして同じ高さまで視線を合わせようと屈んだ瞬間、隆太が顔を上げて和樹の服を掴む。思わず尻もちをついて呆然と見上げれば、隆太が小さく笑い声をあげた。

「なあ和樹、それってさぁ、俺が今まで付き合った奴らに向けたのとおんなじ気持ちを俺に向けてるってことはさ、デートしたりお前を一番に考えたり、お前に触れたかったりキスしたかったり、それよりもっとすごいことをしたかったり、そういう気持ちを俺にも向けられるってことであってるよな?」

「え、ああ、うん」

「うれしい」

「は?」

 何言ってんだよ、と。今度は和樹が言う番だった。お前、何言ってるのかわかってんのかよ。一時の気の迷い、同情や冗談で言う内容じゃないぞ、そんなの。そんなことをもたもたと、服を掴まれたまま、冷えたタイル張りの床に座り込んだまま口にすれば、隆太がにへ、と笑った。思わず心臓がすくんでしまう。

「同情や気の迷いなんかじゃないって。俺はお前が、和樹が好きだ。見た目だけじゃない、一緒にものを作っていく中で、一緒に遊ぶ中で、今まで一緒に過ごしてきた中で知ったお前の全部が好き」

 服から手を離される。どこへつくでもなく、触れるわけでもなく宙に浮いていた手を握られ、顔に熱が集まるのを感じる。

「今日までお前のことをずっと考えてた。きっかけはあの時の、あのドレスを着てた時のお前だったけど、ずっと見た目のことだけ考えていられたら、俺はお前に連絡できなくなったりしなかった」

 息を吸い直して、隆太が膝をつく。正面から和樹を見つめ、どこか安堵したような笑みを浮かべる。

「あの時のお前が眩しかったのは、胸が苦しくなるくらい綺麗だったのは、お前の造形だけが理由じゃない。お前が、あのドレスに合わせて自分の見た目を調節してたからだ。そういう、写真というひとつの作品づくりへの姿勢を含めて、そういうのに真っ直ぐ向き合ってくれるところを含めて、俺はお前が好きなんだって。そう気付いたんだ」

 だから、と。

「もう一度言わせてくれ。和樹、俺はお前が好きだ。世界中の誰よりも美しくあろうとしてくれる、お前が好きだ。お前の一番大事な奴になりたい。お前を一番大事な奴にしたい。だから、もしも嫌でないなら、……同じ種類の『好き』ってやつを少しでも抱いてくれてるんなら、どうか、」

 恋人になってくれ、と。上背のある姿を縮めるように頭を下げてくる隆太の姿を、ぽかんと口を開けたまま見つめる。

 こんなに都合のいいことがあって良いのだろうか? 気の迷いではないなんて言うけれど、それは本当だろうか?

いや、本当だったにせよ、こいつは今まで女性と付き合ってきた。それは和樹も知っている。和樹はどう足掻いたって男で、じゃあ、この言葉に応えたところで、どこかで齟齬が生じることもあり得るのではないか。

その時自分達はちゃんと解決できるだろうか。解決できなかったとしたら、別れられるだろうか。嫌われた時に、この男を憎まずにいられるだろうか?

「和樹」

 脳内で終わりなき問答が始まりかけた瞬間、隆太の声がそれを破る。

「好きなように決めていいよ」

 それは、晴れやかな声だった。

「お前が嫌がらないでくれるんだったら、俺はそれでいい。何なら身を引いたっていい。お前の返事がどちらであれ、お前は俺のことが好きで、一番大事だってことはわかった。お互いおんなじ想いだったってわかっただけでも、俺は嬉しいよ」

「……は?」

 信じられなかった。ここまで言っておいて、身を引けるなどとほざく友人が。

「……好きなのに?」

「好きだから。お前にとって一番特別なのが俺なら、それでいいかなって思った」

 優しい答えだと思う。自分がここで、あらゆる可能性を考慮して「お前とは付き合えない」と言ったとしても、こいつはもう満足しているつもりなんだろう。少なくとも、そういう顔はできる気でいるんだろう。

 でも。

「……お前ほんとバカ」

 片想いの苦しさは知っている。触れたい人に触れられない痛みも、それを押し殺すことの難しさも。

それを知っていて、好きな相手に強制したいなんて奇妙な性癖は残念ながら持ち合わせていなかった。

「隆太」

「何」

「今キスして、お前が嫌だったら振れ。いいな」

「え、は?」

「するぞ」

 となれば、遠い未来の「かもしれない」を懸念している場合ではない。

 腹を括れ、と己に唱える。腹を括れ。数ヶ月後、数年後、それか数週間後、後悔するかもしれないとしても、今この瞬間愛しい男を傷つけるくらいなら、そんな「かもしれない」は投げ捨ててしまえ、と。

 和樹は体を起こし、膝をついて隆太の後頭部に手を回した。今までにないくらい距離が近い。赤くなった顔の熱さえわかるような距離で、息すら交換できそうな距離で、囁く。

「嫌なら逃げろ、されたいなら目をつぶれ」

「ま、まってくれ、いきなりか⁈」

「今嫌ならたぶんずっと嫌だろ」

「え、ああ、そうかも?」

「三つ数える間に決めてくれ」

「え」

「三」

 慌てたようにぎゅうと目を閉じた隆太に、は、と笑う。ああ、この友人は、躊躇いもしなかった。何くれと逃げ道を考えていた自分とは随分な違いだ。我ながらいい男に惚れてしまったと思う。

「二」

 もしかしたら——ここで決めたことを近い未来に後悔するかもしれない。友人を失って泣く日が来るのかもしれない。

「一」

 それでも、優しい友人に甘えて、彼を片恋の苦しみに沈めるのは嫌だった。互いに同じ想いだと、隆太が言うのなら、それを信じてみようと思う。

一番大事な誰かという立場を、お互いに差し出していいというのなら。

「するよ」

 お前の一番になりたいという二つの願いを成就させてやりたい。

「————」

 乾いた冬風に晒された唇同士を引っ掛けるような口付けは、きっとずっと、忘れられないだろう。

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