第6話 おまえのいちばん
恋は罪悪だ。と、そんな言葉を学生時代、教科書で読んだ気がする。
罪悪という言葉を「よくないこと」と定義するのであれば、恋は確かに罪悪だった。少なくとも、今の隆太にとっては。
友人に恋をした。気の置けない、趣味の合う、共に作品を作るだけの信頼を互いに抱いている友人に、恋をした。
自覚してからというもの、生活は散々だった。仕事ではつまらないミスで無駄な残業が増え、作りたい衣装だって山とあるのに、どれに取り掛かってもあいつの顔が浮かんでしまう。
あの、いっとう美しい顔。静かな、無表情に近い、表情と表情の合間の一瞬を切り取ったような顔。透明な眼差しをカメラに向けた瞬間の、顔。
本当は多分、あの写真は不慮のものだったのだと思う。少なくとも和樹にとってはそうだった。こんなポーズを取って、こんな表情をして、と注文をつけられている最中に他愛なく振り向いた瞬間の表情だった。ミツルギがシャッターを切らなければ刹那に消えるような薄らの顔。
けれど、作り物のような美しさ、あるいは、男でも女でもない美しさを、と。そんな無茶苦茶な注文を汲み取ってミツルギが切り取ったその場面は、隆太の胸だとか脳だとか、つまり、感性を司る場所にくっきりと焼きついてしまった。写真集に入れる写真を決める時に、どうしてもこれを入れたいとごねたのは自分だ。
綺麗だ、と思った。思うだけで終えられたのならよかった。けれどその先に、別の感情が混じっていると気付いてしまったからもう、どうしようもなかった。
恋とは罪悪だ、と。魂の形を歪ませてしまうのが恋なのだ、と。肌で理解したのは、あの撮影から一週間ばかり経った頃だったと思う。
[先日冬コミで出す写真集の撮影をしてきました。カメラマンはミツルギさん、衣装制作はたかこさんです。楽しかった〜!]
そんな文言とともにSNSにアップされた写真は、ミツルギのスマホで撮ったものらしい。美しく造られたあの見目のまま、和樹がドレスの裾をつまんで笑っていた。今回の写真集の雰囲気には合わないから、と、彼女があの日使っていたカメラでは撮影されることのなかった表情だ。
そりゃあ、撮影時もカメラが向いていない時はいつも通りの和樹だったから、そんな顔は見ていた。と思う。あの時は彼を直視すると妙に苦しくて視線を外しがちだったからよく覚えてはいないけれど。
それでも、自分の知らない画角の、自分の知らないところで別の人間に向けた笑顔を見てしまえば、心は容易に握り潰されるようだった。
なぜ自分以外にそんな顔を見せる、と。……そんなことを思ってしまって、そこでようやく、理解した。
ただの友人にこんな傲岸な感情を抱くものか。こんな、相手の表情ひとつ、心ひとつを捕らえたいなんて独占欲を抱くものか。他者はコントロールできるものではないと、その理性をねじ伏せて唸る本能の醜さに愕然とし——気付いたのだ。
恋がある、と。
普遍の心、数年振りの——そして同性に抱いた初めての、ある種の悍ましさを孕んだ感情が、己の中にいま、深く息づいているのだ、と。
☆
自分が同性に恋心を抱くなど想像したこともなかったけど、ひとつひとつの感情はどうしようもなく現実だ。だから、隆太は自分が和樹を好きだという事実を否定できなかった。
そうして、恐れた。何を? むろん、恋心を悟られることを。
男女の場合だって恋心を知られるのは恐ろしい。この想いを知られて拒否されれば今までの関係も千切れてしまうと思ってしまうから。同性なら尚更だ。
恋を自覚してから調べていく中で、人口の数パーセントは自分のように同性を恋愛対象とすることがある、という説があることを知った。だが、それが何の慰めになろう? その数パーセントだか十数パーセントだかに和樹が入っていて、しかも隆太を好きになってくれなければ、結局この恋に望みなどない。
割合が何だ。結局この関係性という場には自分と和樹という二人の人間しかおらず、世界の何億人がどうだって関係ない。どこかの誰かが同性と結ばれて幸せになったとて、隆太にとっては和樹に好意を知られて関係を切られてしまえばそれで終わりだった。
そう、一番恐ろしいのはそれだ。関係を切られること。彼と友人でいられなくなること。それだけは絶対に避けたかった。恋心を悟られ、そういう関係にはなれないから、と距離を取られること。
恋愛感情は暴力だ。それがそこにあると知られるだけで、二人の関係は保留を許されなくなる。もしかしたら好きになるかもしれないから、なんてそのままにしておいてくれる相手はいないし、たぶん、されたところで無駄な期待をさせられるのは苦しい。
言動を怪しまれるのではないか、好意が知られてしまうのではないか、ということを危惧して、連絡すらできなくなったのはすぐだった。くだらないメッセージからゲームの新着情報に至るまで、あらゆる話題をしょっちゅう送っていたから、送らないほうがおかしいと思われるかもしれないのに。
あるいは、それを期待もしたのかもしれない。心配してくれるんじゃないか、なんて、善意を毟り取るようなことを考えすらした。最低だと思いながら望んで、けれどもそれは少なくともメッセージとか電話だとかいう形ではやってこなかった。
当たり前だ。隆太と和樹はただの良き友人で、時々コスプレという行為を通じて一つの作品を生み出すために手を取るだけで、毎日話せないのが苦になるような関係ではないのだから。
その当たり前にすら苛立って、苛立つ自分が無性に惨めだった。
そうして、ある夜、夢を見た。
結婚式の夢である。隆太は参列者だ。市販のスーツ、ネクタイは白。和樹はタキシードを着ていて、隣には真っ白なドレスを着た誰かがいる。
結婚式はドレスの博覧会みたいなものだ。服飾を生業とするものなら会場のどの場所だって等しく十全に見るべきだろうと思うのに、気にかかるのは新郎ばかりだった。
この男にタキシードを着せたことはない。けれども、着せるとしたらこの色は選ばない、と思った。ミルクチョコレートを思わせる明るめの色。そりゃあ結婚式なのだからそういうタキシードはありかもしれないけれど、自分なら、そして自分と共に作品を作る時の和樹なら選ばない色。
作品を作る時でない和樹ならば、それを選ぶのだろうか。あるいは、自分以外の誰かに着てほしいと言われれば、着るのだろうか。
夢の中で、和樹はこちらを見ない。見たとしても、参列する友人の中の一人として、視線は上滑りしてゆく。それが隆太には耐えられない。ふつふつと、腹の奥から唸るような恨み言が聞こえる。
ちがう。
そうじゃない。
お前に合うのはその色じゃない。その形の衣装なら、その場所に立つのなら、もっと合う色がある。
ちがう。
どうしてお前はそこにいる。
どうして、俺はここにいる。
どうしてお前の隣は俺じゃないんだ?
お前をいっとう輝かせることができるのは、お前の一番の理解者は、自分じゃないのか?
和樹にその声は聞こえない。優しくドレスの女に微笑みかけている。ベールを持ち上げ、嬉しそうに何事か囁いている。耐えられない。堪えられない。怨嗟じみた声が湧き上がってくる。
どうして。
——どうして、お前が選んだのは俺じゃないんだ!
そうして飛び起きて、自分はもはや、和樹の友人でいられないと悟ったのだ。
幾度目かの朝、とうとう隆太は諦めた。少なくとも、このままただの友人の顔をしてはいられない。この醜い感情は時間が経てば経つほど悍ましくなっていく——そうしていずれ、この夢が真実になる日が来てしまえば、自分達の関係は終わってしまう。
だって、夢でさえこのザマだ。これらの言葉を言わずにいられる自信がなかった。もちろん、素知らぬ顔で「友人」を続けられる自信も当然、なかった。
この好意を口にすれば、その先に待っているのは関係の破綻だろう。普通、恋愛感情は性欲を伴って語られるわけで、そういう意味での「好き」を抱いていない他者から向けられる欲など決して心地よいものではない。
嫌われるのは怖い。好きな人間に嫌な思いをさせるのも嫌だ。けれども好意を押し殺したまま友人でいることのほうがずっと、難しいと思った。
いつか殺しきれなくなった時に、好意を悟った和樹が、いったいいつから自分は「そういう目」で見られていたのか、と、それまでの全ての記憶を厭うかもしれないのであれば、今、自分の手で終わらせたほうがマシだと思う。
あの日、好意を自覚したのだと、自ら告白したほうが。ずっと。
☆
恋心を自覚してからは通話のひとつもできていなかった。だからだろうか、聞き慣れたはずの声を聞いただけで場違いな喜びが体のあちこちに変に作用した。脈拍に、体温に、胃に、あるいは、頭にも。
たぶん、恋って元来こういうものだ。今まで何も考えずにできていた全てに対して勝手がわからなくなって、おかしな挙動になっていやしないだろうか、と不安が常に付きまとう。
軽口を叩いたのは間違っていないか、声色は、態度は、妙に思われていないか。そんなことを考えながらようやく切り出した言葉に、和樹が訝しげな顔をする。
「……何、改まって」
心臓が妙な速度で鳴る。それを押し殺して、隆太は慎重に言葉を選ぼうとした。
言葉は、苦手だ。どの言葉から始めればいいのだろう。何と言えば好意を上手く伝えられるだろう。上手く伝わるって何だ。正しく伝わればいいのか。けれど、正しいだけでは傷つけるかもしれない。
できれば、傷つけたくはない。どの言葉で、どんな言い方をすれば適切に伝わるのだろう。
考えている間、和樹は待ってくれている。切れ長の瞳がじっとこちらを見上げて、こちらが言葉を作り出すのを待っている。いつもなら落ち着くはずのその眼差しが、今日はいつになく恐ろしいもののように感じた。
深呼吸をする。ああ、言い訳はできない。逃げたいけれど、逃げたところで逃げ切れる気がしない時点で、逃げる道はないも同然だ。
「……その」
「うん」
考えた。考えて、静かに待つ視線から逃げるように目を伏せて、考えて、——結局、選んだ言葉は保身だった。
「ごめん」
こんな言葉から始まる告白なんて最低に違いない。
「好きになっちまった」
視線を受け止めるのが怖い。足もとに目を落とす。二人分の趣味の違う靴が目に入る。
「……こないだの撮影の時。すごく綺麗だった。そんで、あの日のお前のことがずっと頭から離れなくて、……でも、考えてたらわかった。頭から離れなかったのはあの日のお前じゃなくて、あの衣装のことでもなくて、お前自身なんだ」
もう一度深呼吸する。全身が強張っている。冬の寒さのためだけではない。
「お前のこと、ずっと考えてた。ミツルギさんと一緒にいるお前のこと。あと、俺と一緒にいる時のお前のこと。……別の奴の隣にいるお前のこと、も。そんで、そんで、全部考えて、お前の綺麗なところを全部知ってるのは俺なのに、って思っちまったんだ」
繰り返し見た醜い夢のことはぼかす。そうして、汗ばむ手を握り締めて、吐き出した。
「なんで俺は、お前の隣にいつもいるわけじゃないんだろって」
一番醜い声だ。考え得る限り適当な、しかし美しくなどあれないこころ。
「俺はさ、ずっとお前の隣にいたい。お前のこと一番わかってるのは俺でありたい。お前の一番大事な奴に、なりたい。……そういう意味で、お前が好きだって、気付いた。ごめん」
独占欲。被所有欲。生々しい言葉を避けたって、ただの友人に向けられるには重過ぎる欲であることは明白だ。隆太は奥歯を噛んで頭を下げる。
「……嫌がられると思ってはいる。でも、隠したまま友達として過ごしていたら、俺はいつか、お前が俺より大事な友達とか、……恋人、とか、の話をするようになった時に、酷いことを言いそうだと思った。だから、……嫌なら、今のうちにそう言ってほしい」
首を差し出すような心持ちだった。処刑は早いほうがいい。いつ落ちてくるかわからない刃が頭上にいつまでもあるよりはマシだ。だから、願った。今のうちに。気付いたばかりの、このタイミングで。振るなら潔く振ってくれ、と。
「…………」
和樹が何かを言おうとした息遣いが聞こえる。困っているのだろう、と理解して、悪いなと思った。
和樹は優しいから、悩むんだろう。同性の友人からの思わぬ感情の吐露に、気持ち悪いと切り捨てることもできずに。でもきっと、受け入れることもできない。最初の「ごめん」を言うのは、勇気がいるだろう。すまないことをしている。謝っても許してもらえないことを、している。
「……その、」
どれほど待っただろう。自分の呼吸音すら鮮明に聞こえるくらい気を張り詰め続けて、息苦しくなり始めた頃、とうとう、和樹が口を開いた。
「……ごめん」
(ああ、)
やっぱり。隆太は息を吐いた。わかっていた。わかり切っていた。それでも心臓は軋むほど痛い。拒絶の言葉。腹に穴でもぶち開けられたようなどこか虚ろな気分になる。が。
「お前は優し過ぎるよ」
「……うん?」
言われるつもりのなかった言葉が聞こえてきて思わず顔を上げる。優しい? 何の話だ? 和樹はこちらを見て、唇を真一文字に引き結んでいる。ぎり、と、奥歯を噛んだ。何かを堪えるように。
「……優しいから、勘違いしてんだ、お前。……いつ気付いたんだよ」
声がかすかに震えている。うっすらと青ざめて、唇が色を失っている。わななく唇が投げ捨てるように寄越したのは。
「……同情なんかするんじゃねえ。そんなの、一番惨めになるだろうが」
「……へ?」
わけのわからない、苦しげな言葉だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます