さっちゃんと一緒に成長しています!
- ★★★ Excellent!!!
心に傷を抱えてきた高校一年生の女の子、山田幸子ちゃんを主人公にした心の成長の物語。
幸子ちゃんは皆からさっちゃんと呼ばれています。
物語の冒頭、誰もが抱えそうな感情が描かれながら、その傷は紛れもなくさっちゃんだけのものでした。それまで、その出来事を認識していた人は何人かいましたが、さっちゃんの心を癒してくれるような人物はいませんでした。
高橋駿くんと出会ったさっちゃんは、やっと世界が動き出したかのように、活き活きと「今」を生き始めます。
さっちゃんの思い出から、自分もこんな風に傷つけられてきたなとか、絶対にあいつらを許さないとか、自分の記憶を呼び覚ましました。
しかし、それでは、さっちゃんと自分とは違うということに気づけていませんでした。
さっちゃんは、苦しい決断ながらも、許す(赦す)ということを選んだのです。
私にはできない決断でした。
赦す、ということは、並大抵のことではありません。謝る権利というものを誰もが持ち得ていると思いますが、それを赦すかどうかはその人の裁量によります。
私のように、ずっと許さない、とする人が沢山いるのではないでしょうか。謝ってももらえない、ということがあるのではないでしょうか。
物語には、自分の犯してきたことへ謝罪する人が沢山出てきます。
こうして、自分のしたことを顧みることができるのは、現実では稀なように感じます。
そして、そのしてきたことへ真っすぐ向き合う、されたことへ目を逸らさずに冷静な目線で判断する。これは、この物語の軸になっているように思います。
ところで、私は、大抵「話しても無駄な人」と言われてきました。この物語の中にも、話しても無駄な人が沢山出てくるなと感じます。
そんな時、暴力に訴えて力でねじ伏せてしまう、という行動をとったことがあるのが駿くんです。
ある時、暴力で勝ち取った正しさに気づき、話し合いや策謀によって解決するという方向に切り替わるのですが、これは駿くんの成長の物語と言えるのではないでしょうか。
話しはそれますが、「話しても無駄な人」への対処法があればいいのにと思っても、今のところコレといった解決策が思い浮かびません。
私も、私を取り巻く「話しても無駄な人」に対し、力で抵抗してきました。ある時は、イジメの仕返しにその子の体に傷をつけ、またある時は、「学校に来るな」という教師に物を壊して、力づくで「私の苦しみに気づいて」と言ってきました。
しかし、そんなことでは何も解決しませんでした。余計に自分が居辛くなって、自分を苦しめることになったのです。
私も、変わるべき時に来ているのかもしれません。
話しても無駄な人に、認められようと頑張っても何もうまくいかないのは、もうどうしようもないです。
それで、私は考えを少し変えました。
「私を大切にしない人を、私は大切にする必要はない」というものです。
さっちゃんは大切な人たちができて、その人たちを大切にしていきます。体を張って守ったり、駿くんと一緒に実際に行動に移したりしていきます。言葉で言うだけなら誰でもできますが、行動となると、私は難しいと感じます。
その中で、一見、なれ合いとか傷の舐めあいみたいなやり取りに感じる仲間内での会話がありました。物語の中のチャットや、仲間内での集まりです。嫌な言い方になって申し訳ないです。
それは、私の現実にとって、憧れながらも、それに似た経験をしながらも、全て幻のようなものでした。私は「皆で幸せになるんだよ」と言っていた友達にも、最後には裏切られて、捨てられてきました。
だから、こんな幸せな仲間たちは小説の中だけだよな、いつか壊れるのかな、と思い、ハラハラして観ていました。
皆が、お互いを尊重して、思いやりに溢れる関係を作れるのは、小説の中だけだよなと思いつつ、現実もそうあって欲しいと願ってしまいます。
さっちゃんを苦しめる過去、現実。時にそれらの苦痛に心を支配されます。さっちゃんを支える人々の存在が、さっちゃんにいつも「ここに戻っておいで」「ここにいていいんだよ」と、こんな言葉ではなかったけど、実際に寄り添って励まします。
真面目な人ほど、堕ちていく時も真っすぐ堕ちていくという人の言葉があります。
どんなに献身的な行動や言葉でも、届かない時があるのです。
幸いなのは、さっちゃんが今を生きていること、今という時を刻む勇気がある事です。
・憎しみに心を奪われ、「あの人しか座れない椅子」にあの人が座るのを待っている。
・傷つけてきた奴らを社会的に追い詰める方法を学ぶために勉強する。
・ずっと泣いている私が、泣き止まない。
上記の三つは私の事です。
過去に生きることが自分をさらに追い詰めるだけだということを理屈で分かっていても、心がいつまでも囚われてしまう。
さっちゃんに、駿くん達がいることは、本当に羨ましくて、眩しくて。
私もそんな存在に出会えたら、変われるのになって思います。
そう考えると、作者の下東さんは、自分の周りには居ないタイプです。この作品を拝読し、コメントでやり取りしただけ、と言えばそれまでですが、自分にとって新鮮な人です。
ある時コメントで、正義についてどうお考えですか?とお聴きしました。
そしたら、意外な答えが返ってきました。「正義について思いを馳せたことがあまりない」とおっしゃったんです。あれだけ主人公のさっちゃんを虐めて、そして救ってきた張本人からの言葉とは思えませんでした。きっと、確固たる「正義」というものがあって、それに則って救いのある展開にもっていっていると思っていたんです。違っていました。
おそらくですが、「正義」という私の考えていた小さくて凝り固まった概念ではなく、もっと優しくて広い視点からこの物語を描いているのでは、と想像します。
私は、下東さんを「正義漢」だと思っています。それは、正義という移ろいやすいものの土台に「優しさ」や「思いやり」という大きな信念というか、揺るがない意志がある「正義漢」です。人間の優しさを信じている、信念の人と言えるかもしれません。
ずっと前に、子どもとの関わり方について伺ったこともありました。
その時のお返事で、下東さんは子ども(赤ちゃん)にもお年寄りにも好かれるとおっしゃっていました。下東さんのお人柄が分かるエピソードでした。
心が綺麗で純粋で信頼できる人だと、皆さん勘で分かるんですね。私は、子どもには見下されて馬鹿にされるし、お年寄りには反抗的な態度をとるためか、関係がうまく築けません。
年齢が違うからといって態度を変えてしまうからでしょうか?
態度を改めたとしても、きっと彼らには性根を見抜かれてしまうと思います。私は同い年の奴らでさえ、皆、宇宙人に見えていたほど孤独だったので。
下東さんのオーラをお借りして、皆と和やかに過ごしてみたいもんです。
この物語のもう一つの読み方として、自分は、おねショタというキーワードがあるように思います。さっちゃんはどちらかと言えば小さなカワイイ庇護欲をそそられるロリちゃんですが、この物語には沢山の魅力的なお姉さんが出てきます!
勇者ゆうじ君を愛するゆみこ姫には、生きる上で大変重要な需要に応えていただき、作者様に供給していただきました。
もちろんショタも、勇者ゆうじ君を筆頭に、駿くんも大きな図体をしていますが魅力的なショタ要素を持っています。
あまりに刺激的で優しく(巨乳)の魅力的なお姉さんたちに、途中理性がぶっ飛びました。
作者の下東さんには、このおねショタ異常者を通報しなかったことに深い敬意を表すると共に強く感謝しています。
感謝と言えば、こんな末端の読者にも丁寧にお返事を頂けたこと、ストーカーのような怒涛のコメント続きに温かく応えてくださったことにも、深く感謝しております。
この作品は、自分にとって最高にエモーショナルな、素晴らしい作品です。
あまりに面白かったのでとんでもなくコメントを残してしまい、ご迷惑をお掛けしました。
申し訳ございませんでした。
またどこかでさっちゃんに出会えることを願っております。
下東さん、素晴らしい作品をありがとうございました!