さよなら、こころ。また雨の日に。

KaoLi

さよなら、こころ。また雨の日に。

 水溜まりが、南から弱く吹いた風を受けてそこに波紋を作る。

 揺れる水面を覗き込むと、そこに現れるのはぼくだ。

 当たり前だ。ぼくが覗き込んでいるのだから、光に反射してぼくが水面に映るのは当然だった。

 けれども、ぼくが見ているものは、世間一般で言うところの「当たり前」とはほんの少しだけ違うのかもしれない。と、知ったのは最近だった。

 六月の、じめじめとした生ぬるい熱が纏わりつく、そんな雨の日になると現れるもうひとりの「自分」。


 ――やあ、「ぼく」。どうしたの、浮かない表情かおだね。


 ……と、水溜まりから、甘ったるい声が聞こえた。その、直接脳内に囁かれたような感覚に、ぼくの世界が静かにくらむ。

 眩んだ先でもうひとりの「自分」がぼくに向かって手を差し伸べている。きっと、もうひとりの「自分」はぼくの体を乗っ取ろうと企てているのだ。彼の口角が上がっているのを、ぼくは見逃さなかった。

 触れてはならないような気がして。

 聞いてはいけないような気がして。

 ぼくは無意識に耳を塞いだ。

 けれども、ぼくはどうしてだかこのとき、本当に、どうにかしていたのだと思う。

 ぼくは水面に向かってこう答えた。


「……家に、帰りたくないんだ」


 ぼくの言葉を聞いたもうひとりの「自分」はその瞬間、水溜まりの中から勢いよく差し伸べていた手を出して、ぼくの腕を掴みそのまま何も知らない揺れる水溜まりの中へと引きり込んだ。

 ちゃぽん……と、静寂の中に水の跳ねる可愛らしい音がぼくの鼓膜に満ちた。


 ぼくの世界は一瞬にしてブラックアウトし、ぼくの体のみを残して、それでもぼくの世界は回り続けていた。


 そうして、このときを境に、ぼくと「僕」はこの世界を行き来することを覚えたのだった。


 ☂


 ぼくが「僕」のことを認識し始めたのは、恐らく、小学五年生の六月ごろ……確か、雨の日が続く憂鬱な梅雨の時期だったと記憶している。

 このころのぼくは少しだけ

 小学生が荒れていた、と言うと、表現が変かもしれない。というか、分かり易く荒れていたわけではないからそう思うだけなのかもしれない。

 ぼくの家では、常に平静を保つことで成り立つ「家族」という組織を構成し続けている。ぼくは子供ながらにその組織の一員として役割をしていたと思う。

 だから、ぼくの家が「普通でない」ことくらい、ぼくはもう理解していたのだ。


 六月の雨はほかの季節と比べてなんだか気持ち質量が重いような気がして、外を確認して雨が降っていることを自覚する度に、ぼくの心はその重さに耐えられないかもしれないとし潰されそうな気持ちになる。

 だから、そういう気持ちになった日に、ぼくは「僕」と心をするのだ。

 水溜まりを見かければ、ぼくの体は自然とその水面に吸い込まれる。

 ――今日はどうした? 辛いことでもあった? と、水面に映る「僕」が薄ら笑いを浮かべながらぼくに問う。初めの方こそ恐怖がつき纏っていたけれど、今ではどうでもよくなっていた。それほどまでに「かれ」とぼくの関係は良好だった。


 初めて「僕」を見たのは、家のすぐ近くにある小さな公園だった。雨の降る日だった。学校の帰り道で、突然家に帰りたくなくなった。あと少しもすれば家だというのに、ぼくは帰宅を拒んだのである。足蹴にした地面から泥が跳ねてぼくのズボンは汚れてしまった。

 ふと気になって公園の中央に向かうと、そこには大きな水溜まりが見事にできあがっていた。覗き込めば自分の姿が全身映るほどに大きな水溜まりだった。

 そこに見えた「僕」を見たのが最初だった。

 その日を境にぼくたちは心の交換を始めた。

「僕」は水に反射したときに現れる。水溜まりを始め、プールや洗面所、お風呂場に至るまで、ぼくが会いたいと願ったときには必ず現れてくれる。


 まるでぼくの背後に憑いてる亡霊だ。

 ぼくにとって「僕」という存在は、都合のいい、亡霊なのだ。


 ぼくには、五歳上の兄がいたらしい。

 文武両道で、小さい頃からなんでもできた兄。ぼくが生まれる少し前、小学生に上がろうとしていた矢先、不運な事故に遭い亡くなったのだという。

 そう、ちょうど今のこの季節に。

 兄は特に母さんに愛されていたせいか、顔の似ているぼく――自分ではよくわからない――に兄のようになりなさいと四六時中、兄がいかに素晴らしい児童であったかはをぼくに語る。

 ぼくはぼくでありたかった。自我のある、ひとりの人間としてありたかった。けれど、この家庭ではそんな言い分は通用しない。

 自分を持つことの、いったい何がいけないんだろう?


 ☂


 最初に怒鳴ったのは、いったいどちらだろうか。

 声が低かったから、きっと父さんだろう。

 どうでもいい。

 ぼくは耳を塞いで世界との距離を隔絶しようと努力する。できないことが分かっているくせに、それでも諦めきれなくて、ぼくは揺らめく水面を見つめてじんわりと滲んだ視界を閉ざした。

 聞きたくない。見たくない。だからぼくはリビングから一番遠い――と思っている――お風呂場に長居する。溜めたお湯が人肌ほどの温度になるまで、ただじっとして、嵐が過ぎ去るのを待つのである。

 何をそこまで言い争うのか。何の議論を小さなテーブルという名の円卓で行っているのか。ただ現実を逃避したくて、ぼくは未だにその真相に辿り着けずにいた。


 ――代わってあげようか。


 うっすらと視界を開く。そこには「僕」がいた。でもいつもと雰囲気が違う気がして、ぼくは思わずじっと見つめてしまった。


「……いらない……」

 ――どうして?

「わかんない」

 ――「ぼく」が分からないなら、僕はもっと分からないね。


 けたけたと水面下で「僕」が笑う。何がおかしかったんだろう。ぼくはよくわからなかった。

 でもきっと、ひとつだけ。

 ひとつだけ確かなことは、「僕」にはこの嵐が見えていない、それだけだ。


 ――のぼせる前に出た方がいいよ。


 と、今度は真面目な表情で「僕」がぼくを見つめる。水面に映ったぼくの頬は熟したりんごのように真っ赤になっていた。

 気づけば外の嵐は過ぎ去っていた。


 ☂


 最悪だ。


 ☂


 今朝のニュースでは大雨警報のサイレンが赤いランプを点灯していた。学校に向かう途中でざざ降りされて服がダメになり、仕方なく教室に常備していた体操服に着替えるという不運の連続だった。

 さらに、道徳の授業になると、先生から思いもよらないプリントを配布された。


「来週までにすべて記入して、提出してくださいね」


 そう言われて前の席の女の子から回ってきたプリントには、「なりたい自分について」という表題と「ご両親にも自分について聞いてみましょう」という、文字が印字されていた。

 眩暈がした。

 自分のことも、ましてや、自分のことを親に聞けだなんて。ぼくにとってそれは拷問以外のなにものでもない。

 その日の足取りは、まるで沼の中に体を絡め取られたように重かった。


 水分をたっぷりと吸った服と体操服と靴を見て、母さんが少しだけの驚きと嫌悪の目をぼくに向けた。


「早く着替えてきなさい。ついでにお風呂に入っちゃいなさい。もう入れてあるから」


 ぼくは頷くしかできなかった。

 脱衣場でぐちゃぐちゃになった服たちを洗濯カゴに放り込み、お風呂に入る。みんなは言う、お風呂は楽しい場所だと。ぼくは違う。お風呂はたったひとつの心の逃げ場所だ。


 ――逃げたい?


「僕」が問う。ちゃぽんと音を立てた波の隙間から「僕」の姿が映る。その表情はいつもとは違った。なんだか複雑そうな表情だった。


「逃げられるなら、そうしたい」

 ――そうしてあげられたらいいのに。


 きっと「僕」にはぼくの考えていることや思っていることが筒抜けている。だからこそ、そんな色んな感情が混じりあった表情をするんだ。


「……先生はひどいよ。知らないとはいえ、ぼくは母さんたちに愛されてないから、ぼくのことなんて聞いてもどうせ何も話してくれないのに。ぼくよりも、いなくなったお兄ちゃんの方が好きなんだ。だから母さんたちはぼくにお兄ちゃんになれって言うんだ」


 まるで兄の代わりを務めろと。そう洗脳するのだ。

 ぼくが項垂うなだれると、それはどうだろう、と「僕」が言った。ぼくは思わず顔を上げて「僕」を見た。振動で揺れた水面下の彼は、悲しげに笑っていた。


 ――「ぼく」は「ぼく」だよ。。父さんと母さんの言いなりにならなくていい。だって、僕が生きた時間は「ぼく」よりも少ないんだから。


 きっと僕になる、なんて無理だよ。

 と、笑った。

 ぼくは「僕」の言ったことを、果たして信じてもいいのだろうか?

 いや、信じるんだ。一生「僕」の力を借り続けることはできないだろうから。だから自分の力で解決しなければならないのだ。

 ぼくは「僕」との対話を終えるとすぐに両親のいるあの戦場へ向かう。


「がんばれ」と、「僕」の声が聞こえたような、そんな気がした。


 ☂


 ぼくは学校で貰ってきた授業プリントを片手に、武器も防具も無しに戦地リビングに赴いた。既に戦地では激しい攻防戦が繰り広げられていた。これがぼくの「家族」のあり方だというのだから悲しくなる。

 少しして父さんが戦地から出てきた。今からタバコを買いにコンビニに行くのだと言う。ぼくは小さく「行ってらっしゃい」と父さんの背中に向かって呟いた。


 険悪な空気がリビング中に散乱していた。

 ごくりと無意識に喉を鳴らす。その微音が聞こえたのか母さんがぼくを認めて「どうしたの?」と聞いた。


「が、学校の宿題で、聞きたいことが……あって」

「そう。何が聞きたいの。お母さん夜ご飯を作らなきゃだから早く聞いてちょうだい」


 声に抑揚こそ無かったものの、思っていた反応と違うことにぼくは戸惑いを憶えた。たどたどしい態度を取ってしまったけれど、ぼくの任務はここからが本題である。

 なりたい自分なんてない。けれど、なりなさいと言われ続けている人物のことを知らなければ、なりたいだなんて本当には思えない。

 だからぼくはそんな「兄」について、本当に聞いてみたかったのだ。


「お、お兄ちゃんって、どんなひとだったの……かなって……」

「……」

「あ、あとっ、ぼくのことどう思ってるのかな…………って……」


 母さんから息遣いが聞こえなくなった。

 静寂が耳に響いて、痛くて、痛くて、怖くて。

 父さんの怒鳴り声よりも。母さんの悲鳴よりも。なによりもこの静けさが怖かった。

 ぼくは黙りこくって、母さんの言葉を待つ。待つしかなかった。

 時間にすればほんの一瞬のこと。けれど体感は違う。少なくともぼくはこの一瞬が一時間にも思えた。もしかしたらそれ以上かもしれなかった。


「……お兄ちゃんは、しんは、今のあなたによく似ていたわ」


 不意に母さんが口を開いた。その声は震えていた。


「そうね。心はなんでもできたわ。お勉強も運動も。よく笑う子だったし、クラスメイトからの人望も厚かった」


 人望も厚かったという言葉の意味は今のぼくには難しくてよく分からなかった。


「……ちょうど今日みたいに、雨がよく降っていた日に、死んでしまったの」

「……」


 母さんがカーテンの先でいまだに降り続けている雨をただぼんやりと眺めている。

 何を想って、兄のことを話したのか。顔の似ているぼくを見て、兄のことを思い出す日々に、いったい何を想うのか。

 ぼくを見ては愛する兄を思い出す日々。これではっきりしたのかもしれない。

 母さんはぼくの先にいる兄を愛しているのだ。ぼくのことを、愛しているわけではない、のかもしれない。


 ぼくは、いつの間にか、泣いていた。


 母さんが「え?」と驚いた声を上げた。困惑とも、呆れとも聞こえる声に、涙が止まらない。

 兄が愛されていたこと。それを知れて嬉しかった。反面、ぼくは兄の代わりだということを思い知らされた。

 ぼくはもうどうしたらいいのか分からなくなって、気づいたらリビングから勢いよく出てそのまま玄関のドアを開き、靴も履かないままに外に出た。


 母さんがぼくを呼び止める声がする。そんな声を無視して勢いに任せて外に出た。外は大雨。学校から帰ってきたときよりも降っていた。せっかく温まった体が急激に冷えていく、そんな感覚に溺れたいとさえ思った。


 水溜まりに沈みたい。

 沈んで、「僕」に会いたい。

 そう思った矢先——。


 一台のトラックがヘッドライトをぼくに浴びせて、大きくクラクションを鳴らした。

 ファー……ンという大きな音がぼくたちの耳を穿った。


 ☂


 結果的に言えば、ぼくは無事だった。

 あのあと……タバコを買いに出ていた父さんがタイミングよく帰宅した。

 大雨によりワイパーが暴走していたトラックがぼくの姿を目視できず、ブレーキを掛けるのが遅かった。その所為でトラックは滑ってしまった。ぼくはトラックに轢かれそうになったけれど、寸でのところで父さんに助けられた。

 力強く引っ張られたことにぼくは一瞬何が起きたのか思考が追いつかなかったけれど、父さんの胸の中にいるこの現状がぼくはおかしくなるくらいに嬉しかった。

 タバコの入ったコンビニのレジ袋がぐしゃりと潰れていたのを、ぼくの視界はしっかりと捉えていた。

 家に戻ると母さんがぼくを強く抱き締めた。

 今までにないことだった。だから、そんな母さんの不意打ちにぼくは感動した。


 聞けば、兄も交通事故に遭ったのだという。雨の降る日、ぼくと同じように外に飛び出して――兄のときはぼくのときとは違い、新しく買ってもらった長靴を使いたくて外に出たらしい――、そのとき出会い頭に運悪くトラックとぶつかってしまい、そのまま帰らぬひととなってしまった。


 ぼくは運が良かった。きっと「僕」がぼくを助けてくれたのだ。

 この日以来ぼくは両親のことを少しだけ理解できた気がするし、この日以来ぼくは「僕」を見なくなった。


 ☂


「なりたい自分」についての課題を提出する日、ぼくの足取りは軽かった。

 それは、もしかしたら心の重荷が少しだけ軽くなったからかもしれない。

 なりたいと思える自分を、見つけることができたからかもしれない。

 ランドセルを背負って、玄関で「行ってきます」を大きく言う。母さんが「行ってらっしゃい」と微笑んで、父さんも同じように笑っていた。

 玄関に飾ってある写真に、お兄ちゃんの心が写っている。お兄ちゃんも笑っていたので、ぼくはそれだけで嬉しくなった。

 昨日まで降り続けた雨により、道路には水溜まりがいくつもできていた。

 あの日から水溜まりをいくら覗き込んでも「僕」を見かけることがなくなった。きっとぼくの心境の変化が関係しているに違いない。ぼくはそう思うことにした。

 それでいいのだ。

 ぼくにとって「僕」は逃げ場所だった。ぼくはもうその逃げ場所を必要としていないということなのだ。

 もうぼくは「僕」を見ることができないかもしれないけれど、それでも「僕」はぼくの中で生き続けるのだ。

 ぼくが忘れない限り、ずっと、お兄ちゃんは生き続けるのだ。


 ぼくは空を仰いだ。今日は快晴だ。

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