下
その出来事があってから、僕と彼女は友達になった。『友達』というのは語弊があるかもしれないが、それ以外の表現で僕たちの関係を表すのはとても難しい。彼女が僕に抱いていた気持ちが何なのか僕には知りようもなかったし、僕が彼女に抱いていた感情も、僕には正確に記すことができない。親近感、異性への憧れ、尊敬、好奇心、そのどれかか、あるいは全てというのが、一番近い表現かもしれない。
結局分かる事は、彼女は徹頭徹尾、『遠い人』であったという事だけだ。一見大人しそうに見える彼女だが、少し距離を詰めると途端に口数が増える。それでいて、彼女自身の本質というか、『底』のようなものは決して見せなかった。僕にはついぞ、彼女の考えている事が理解できなかった。
だから、僕にできるのは、ただ事実を述べていく事だけだ。僕と彼女が共有した出来事について。また僕らが共有した時間について。そこに真実と呼ばれるべきものが含まれているのかどうか、僕にはわからない。
あの日、物凄くまどろっこしい(8割がた僕のせいだが)やり取りの後、連絡先を交換した。彼女もまた大学の在学生で、人文系の学科に所属しており、僕よりも2歳年上だった。家族以外の異性の連絡先を電話帳に登録するのは初めてだったので、そこからすでに緊張ではち切れそうだった。家に帰ってから、彼女のささやかな個人情報の入った携帯電話を目の前に掲げながら、ずっと布団に転がっていた。
連絡先の交換を持ちかけてきたのは勿論彼女からで、どうやら同好の士のような人物を欲しているようだった。
「ただ、人ごみなんかは苦手なんです」と彼女は言った。それは僕も全く同感だった。
「あの、どうして僕に声を掛けてくれたんですか?」と聞いたことがある。答えを聞くのが恐ろしくもあったが、どうしても気になっていたのだ。僕のような人間に、どんな魅力を感じたというのか。
「蚊に刺されていたようなので」と彼女はきょとんとしていた。
そうではなくて、この『同好会』にどうして誘ってくれたのかという事を聞きたかったのだが、口下手なせいもあってか、ついにそのニュアンスを理解してもらうことは出来なかった。
彼女の事だ、もしかしたら本当に理由なんてなかったのかもしれない。
『同好会』の話もしなければならない。彼女は僕と同じく、人気のない場所を好む傾向にあった。そしてそれ以上に非日常的なもの、人智を超えたようなもの、もっと平たく言えば、いわゆるオカルト的なものを好んだ。それは僕には全く未知の領域だったが、好奇心も手伝って、おおむね好意的に迎えられたと思う。
『お疲れ様です。例のDVDを遂に手に入れました!』
彼女はメールでも、丁寧な言葉遣いだった。
『見つかったんですね。良かったです^_^』
確かそのDVDは昔の心霊番組の特集で、ファミリービデオの映像に写り込む正体不明の黒い陰がどうとかいうものだったような気がする。これに限らず、どこからともなく出所のよく分からない映像や書籍を彼女は多数所持しており、頻繁に貸してくれたものだ。
僕たちは、あのベンチや静かな喫茶店で、怪談やオカルティックな話題に花を咲かせた。と言っても、僕は専ら相槌と聞き役に徹していたから、はた目には盛り上がっているようには見えなかったかもしれない。でも、僕はそれに満足していたし、彼女も不満には感じていなかったと思う。
それに、話をするだけではなく、二人で遊びに出る事もあった。
「次はあそこ行ってみませんか? 前言ってたとこ」
どこだったっけ、と内心首を傾げながらも、「いいですよ」と即答していた。以前話題に上ったオカルトスポットといえば候補は無数にあるような気もしたが、彼女と一緒ならどこへだって行きたかった。
「やった! 約束ですよ」
平らな靴底のスニーカーをぺたぺたと鳴らしながら彼女はスキップで駆けまわった。そう言えば彼女は踵の高い靴を好んで履く事はなかったから、いつもたっぷり頭一つは低い彼女の顔を見下ろす格好だった。
「あ、パスポートって持ってましたっけ?」
「え」
例えば、『出る』と噂されているらしい廃病院に出掛けた。まだ残暑の残る頃、「これは効きますよ」と彼女が力説する虫よけのスプレーを入念に吹き付けて臨んだ。もちろん夜中の事で、僕はちょっとした物音に怖気づきながら、懐中電灯を片手にすたすた歩いてゆく彼女の背中を、へっぴり腰で追いかけた。
例えば、レンタカーを借りて、呪われているという、とある山奥の古びたトンネルに向かった。対向車もない、街灯もまばらな夜道を走った。秋も深まる頃で、車内は暖房を付けているはずなのに僕の首筋は粟立ちっぱなしだった。トンネルの入り口で止まってヘッドライトを消し、クラクションを三回鳴らした時、僕は思わず息を呑み、彼女は少しだけ笑った。
遠出もした。小金を貯めて、自殺の名所と言われる岸壁を見に行った。これは珍しく昼間だったが、春のまだ遠い日本海沿いはちょっと洒落にならないぐらい寒くて、僕はもこもこのダウンジャケットを着こみ、眼鏡が曇るのも構わずマフラーを鼻の上までずり上げた。怖いというよりも景色が素晴らしく、僕と同じくらい着込んだ彼女の、潮風に弄られる黒髪が目に焼きついた。宿は勿論別々の部屋だったが、妙に緊張してあまり寝る事ができなかった。
断っておくが、僕たちが出かけた先、見に行った先で、『何か』が起こったという事は一度もなかった。世界はいつも正常であり、僕が知るままの姿であり続けた。帰り道、僕はいつも安堵したような、肩透かしを食らったような気分になったものだ。
だがその『何か』を望んでいるはずの彼女は、何の不満も口にしなかった。気のせいかどこか満足げな顔をして、決まったように、「さあ、帰りましょう」と言うだけだった。
学食で二人、食事をとる事も多かった。
その日は、僕はレトロカレー(例の、ルウを湯で溶いただけのカレーだ)で、彼女はフェアものの定食だったように思う。
既に3コマの始まっている時間帯だったので、辺りに学生の姿はまばらだった。彼女はかしましく喋りながらもちゃきちゃきと食べ終わり、他方無口ながら食べるのが遅い僕が待ってもらっているような有様だった。
だん、といきなり机の下で音がした。
彼女が大きく足を踏み鳴らしたのだ。すごい音だったので驚いたし、周りにいた幾人かも何事かとこちらを見ていた。
「ね、何だと思います?」
悪戯っぽい笑みで、彼女は問うてきた。
「何って……?」
「ハエですよ。知ってますか? イエバエは卵を産みますけど、ニクバエは蛆の状態で母体から出てくるんです。ど」
どっちだと思いますか、と訊こうとしたのだろう。彼女の靴底の裏で潰れているそれがどちらなのか。そこで、僕の顔をまじまじと見た。周りにいた数名の学生たちも、距離を保ったまま物凄い顔でこちらを見ているのが分かった。
「ごめんなさい。本当に」
彼女は気まずそうに視線を伏せ、表情を消した。
つまるところ、彼女もどこか欠けていた。それが僕とは違う箇所であったというだけに過ぎない。
また別の日、行きつけの喫茶店での事で、彼女からある事を告白された。彼女は紅茶を一口啜りながら、壁に掛かっている時計を指差して何でもない事のように言ったのだ。
「わたし、時計が読めないんです」
「……時計ですか?」
彼女の視線を追って振り返りながら、戸惑い半ばに問い返した。
最初は目が悪くてあの時計の文字盤が読めないのだと思っていたが、よくよく聞くと本当にアナログ時計が読めないのだと言う。
「勿論デジタル時計なら読めます。でもアナログは駄目なんです」
今が何時だとか、約束の時間まであとどれくらいだとかの時間に関する概念を、アナログ時計の文字盤の前では持ち得ないのだそうだ。
何故だか自分でも分かりません、そう言って彼女は硬く口を結んだ。何が何だか僕にはさっぱり訳が分からなかった。そもそも何故そんな事を今、いきなり言い出すのか。
そして、時計が読めないというのは成人として重大な欠点のような気がする。今までの人生においても、何かしら不都合はあったはずだ。時計が駄目であるなら他の数学的素養にも大きな欠落のある事が考えられるし、例えば学校のテストなどはどうだったのだろう。というか、それでよく大学まで進学できたものだ……
などという事をつらつらと考え、なるべくオブラートに包んでコメントしようとした。
「あの、テストなんかは……」
「ぜんぶヤマ勘ですよ」
「はあ……」
彼女は、よくぞ聞いてくれましたとばかりににへらと笑って答えるのだった。
「女の勘です」
まるで蜜月のような申請で幸福な時間は、唐突に終わりを告げた。季節が巡り再び春を迎え、新たな新入生とそれを迎える賑わいがキャンパスを騒がせる頃。
何かきっかけがあったのか僕には分からなかったが、ある時を境に、彼女は急激にやつれて行った。顔色の悪い日が続いたかと思うと、みるみるうちに頬がこけて、目の下に隈が浮かんだ。
「何があったんですか?」
そう何度も聞いたが、そのたびに彼女は困ったように笑って首を振るだけだった。彼女の悩み事なら何でも聞くつもりだったし、助力も惜しまないつもりだっただけに、僕にはそれが猶更辛かった。
何よりも辛かったのは、彼女がありもしない『何か』に怯えだした事だ。かつて僕らが何度も見ようとしてついに見る事のできなかった何かに。一番慣れたはずのあの桜並木でさえ、葉のさざめく音や枝の落とす陰に彼女は息を呑んではびくびくと後ろを振り返った。まるで何者かがいつも彼女の背後に、こっそりと回り込もうとしているかのように。勿論、そんな『誰か』はどこにもいない。そこはいつも通りの、穏やかな池のほとりでしかなかった。
「今、私の後ろに誰かいませんでしたか?」
彼女はしばしばそう尋ね、その度に僕は「誰もいませんよ」と辛抱強く答えた。
人一倍臆病で、いつも暗闇に怯えているような僕だが、その僕から見ても彼女の怯え方は尋常では無かった。いつも飄々としていた彼女が震えているのを見て、彼女はむしろ僕から遠ざかったのだと直感した。遠い場所にいた彼女がさらに遠く、もっと言えば、一線を越えて向こう側に行ってしまったのだと。そしてそこは僕が、決して辿り着けない場所に違いないと。
僕たちのお気に入りの場所でさえ、彼女は落ち着かなかった。
「……誰か今、私の背後にいましたよね?」
昼下がり、木漏れ陽の射す散歩道で、居もしない誰かの影に恐怖する彼女を見て、僕は確かに何かの終焉を予感したように思う。
いませんよ、と僕はかぶりを振る。
「今、ここにいるのは、僕たちだけです」
お決まりのように辺りを見回して僕は答え、彼女はじっと俯いて、薄い唇を噛んでいた。誰もいないという事は彼女も分かっていて、それでも聞かずにはいられなかったのだろう。
やがて彼女はおもむろに口を開いた。
「あの竹の事、おかしいと思いませんか?」
その口調はいかにも彼女らしい、何事にも揺るがない落ち着いた声だった。つい今しがたまで、あれほど怯えていた人物のそれとは信じられないくらいに。
僕は話の内容より、その突然の変化に驚いた。
「何がですか?」
「竹は地下茎を伸ばして繁殖します。一ヶ月で何本もの新芽がその周りに生えてくるはずなんです。私はずっとあの竹を見てきましたが、何か繁殖を防ぐ手入れをされている訳でもありません」
だからおかしいんです、あの竹の、あのような在り方は。そう彼女は滔々と説いた。在りし日、オカルトにまるで疎い僕に様々な怪談や都市伝説を教授した時のような口調で。
僕ははっとした。確かに、一本だけの竹というのはどう考えてもおかしい。竹は放っておけばどんどん新芽を増やして、あっという間に林になるはずだ。最初に覚えた違和感もそのせいだと、遅まきながら気付いた。
奇妙なことに、彼女は僕を見て微笑んでいた。正確には、僕の背中の向こうにある、一本きりの竹を見て。
頬が上気して口は半ば開き、綺麗な前歯が覗いていた。恍惚とした表情は僕が今まで見たことのないそれで、彼女の視線を追いたくても僕は彼女から目を離す事ができなかった。
僕は確かに、彼女の異様な雰囲気に圧倒されていた。
「見てください。竹の花が咲いています」
瞬間、呪縛が解けた。
反射的に後ろを振り返り、対岸の雑木林に目を向けた。しかし、林の中で竹は青々といつも通りの姿で艶光るばかりで、花などどこにも見えない。
「花ですか? どこにも咲いているようには……」
見えませんよ、と言おうとして向き直ったが、そこに彼女はいなかった。
帰ってしまったのだろうかと辺りを見回したが、どこにも見当たらない。
物音ひとつたてずに、彼女は姿を消した。
それ以来、彼女には会っていない。
あれから数年が経ち、僕はまだ大学に在籍している。趣味は相変わらず散歩だけで、三日と開けずこの場所に足を運んでは、ただぼんやりと景色を眺めている。彼女と初めて出会った、このベンチに腰かけて。
彼女がいなくなって、僕は常に喪失感を覚えている。日常のふとした瞬間に、何かが欠落しているという感覚を覚えずにはいられない。彼女と過ごしたあの一年に満たない期間はしかし色濃く僕の――大げさに言えば――人生に影響を残した。
彼女は本当に存在したのだろうか。あるいは、彼女は孤独に耐え切る事のできない僕の脳が作り出した、都合のいい幻ではなかったか。
ただ、どちらでもいいと僕は思う。あの時期、僕らは確かにこの竹を中心として時間を共有した。僕にとってはこの竹と、僕と彼女が世界の全てだった。それが事実で、それが大切なことだと僕は思う。真実は違うかもしれないが、僕はさしてそれに興味は無い。
僕がおぼろげに考えるのは、あの竹が咲かせる花は、彼女にとっての特異点だったのではないかという事だ。憧れ、切望しながらも決して辿り着けない点。辿り着く為には、自身が極値にまで達する必要がある点。そこは、僕にとっても特異点たりえるのだろうか。
僕はベンチに座って考える。誰も通らないこの並木道は、考え事をするにはこの上ない場所だ。虫よけのスプレーも、かゆみ止めの塗り薬も欠かさず持ち歩いている。
僕は今も人ごみや人付き合いが苦手だ。
しかし、もし仮に。
仮に、誰かがこの道を通って、しかも虫刺されを気にしているようであれば、もちろんそれらを差し出すにやぶさかではない。加えて、僕の話に興味を持ってくれる人物であれば、あの竹の話をする事も。
幸いにも、竹の花はまだ咲いていない。
竹の花 南沼 @Numa_ebi
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