竹の花

南沼

たけ【竹】

イネ科タケ亜科の多年生常緑木本の総称。タケ群とササ群に大別。また、独立のタケ科とする場合もある。茎は木質化、隆起した節があり、地上茎・地下茎に分かれる。地上茎は直立し、多くは中空で、地下茎は節部から根および地上茎(筍)を生ずる。葉は狭長扁平で先端がとがり、短柄。稀に稲穂状の黄緑花をつけるが、開花後は多く枯死。東南アジアを中心に、世界に約40属600種、日本ではおよそ12属150種を産する。



「竹の花って知ってますか?」


 初めて彼女と会った時、彼女は僕にそう聞いた。池のほとりの、いかにも安っぽいベンチに、二人並んで腰かけて。

 思えば彼女と最初に会ったのも、最後に会ったのもこの場所だった。

 僕はそれに何と答えただろうか。彼女に関する記憶は今も僕の中に鮮やかに残っているけれど、それと対を成すように、僕自身がどう振舞ったのかはひどく曖昧にしか覚えていない。きっと僕にとってそれだけ彼女は特別で、僕は彼女に夢中だった。

「120年に一度だけ、竹は花を咲かせるんです」

 彼女はそう言って、それきり口を噤んだ。穏やかな彼女の口調には、しかしどんな感情も込められていなかったようにも思える。

 僕はただ、薄い闇に儚げに浮かび上がる、彼女の横顔を窺っていた。



 大学に入学してからの数ヶ月で、僕は早くも大学生活にいかなる希望も見出せなくなっていた。

 楽しい事が何一つなかったと言えば嘘になる。地元から遠く離れた大学に進学し、生まれて初めての一人暮らしに足を踏み出したのだ。入学式の前夜、1Kの手狭なアパートでようやく荷解きを終えた時はまるで一国一城の主になったかのような高揚感を覚えた。大きく張り出しては花びらをそぞろに散らす桜の枝を潜った途端手元に幾枚も舞い込む新歓のチラシ、サークルの勧誘に勤しむ先輩達から投げかけられる笑顔、また笑顔。それらは僕が今までの人生でなり得なかったほどの人気者になれたかのような錯覚をもたらした。


 勿論、それは錯覚に過ぎなかった。キャンパスライフに心ならずも抱いていた淡い期待は、儚い夢にも似てあっさりと瓦解した。

 元来が内気な人間だった。上京してきた田舎者であれば引け目を感じざるを得ない、というのは僕が勝手に思い込んでいたことだが、それでもその意識は当時べったりと貼り付くように心の中に存在感を露わにしていた。そんな風だから、当然他人に積極的に話しかけるという事なんて全くできない。親切に、あるいは好奇心から話しかけてくれる人も何人かいたが、戸惑うばかりでろくな返事を返せない僕を冷ややかな目で見てはすぐに離れていった。生まれて初めて経験する、膨大な数の他者に囲まれるという状況は僕を更にパニックめいた精神状態に追い込み、打ちのめした。周りにいる皆は僕にとって騒音と同義の何かであるというのに、僕を除いたそれらは如才なく友人や恋人を作り、講義の合間に歓談していた。

 僕は全くの孤独だった。ひとコマ目の前、朝日射す校門を俯きがちにくぐる時、学食でルーを湯で溶いただけのカレーをもそもそと食べている時、講義の終了後周りの生徒たちがめいめい立ち上がる中、ついぞ追いつく事の出来なかった板書を講師が無慈悲に消していくのを眺めている事しか出来なかった時、それを感じた。そこに激情は無く、ただひたすら底辺を這う惨めさだけがあった。

 時折、郷里の親から電話が掛かってきた。大抵が母親だった。


「大学はもう慣れた?」


 特に危急の用事という事はなく、概ねがそんな他愛のない話だったが、正直苦痛を感じていた。無用な心配を掛けたくなくて、調子のよい嘘をつかざるを得なかったからだ。


「うん、だいぶ」


「何かサークルは入ったん?」


「色んなとこの見学にね、回ってるところ」


 嘘をつくたびに、死にたくなるほどの罪悪感と自己嫌悪を覚えた。

 そんな生活の中、唯一趣味と言えるのは辺りを散策する事だけだった。友人も作らず、どこかに遊びに行く事もなかったので、仕送りだけで充分生活していく事はできたし、当然アルバイトをする事もなかった。インターネット上での振る舞いすらどこかぎこちなかった僕にとって、単身自然の景色の中にいる時だけ平穏を得ることが出来た。だから講義が終われば日が暮れるまで、あるいは暮れた後も、辺りを歩き回ったものだ。

 彼女に出会ったのは、そんな折だった。


 僕が通っていた大学の敷地には、大きな池がある。講義棟が丸ごと入るくらいの大きさがあって、冬には渡りの鴨などが羽を休めたりしている。池の売店や食堂に面している辺りこそ人通りは多いが他は寂れたもので、申し訳程度の雑木林と桜の並木道があるばかりだった。雑木林はともかく、並木道の方は舗装されていないとはいえ小ぎれいに掃除が行き届いているし、散策にはうってつけなのだが、不思議なほど人は通らない。昨今の学生にとってこのような場所は全く興味の対象外なのだろう。だから、この場所が他者との交わりを避ける僕のお気に入りとなるまで、さして時間は掛からなかった。


 あれは確か7月の、夏の夕暮れだった。その頃は定期試験の日程が迫り、僕は試験勉強に追われていた。講義に何とか着いていけていたものの、同学年はおろか大学内を見渡しても友人の一人もいない僕には過去の試験問題など手に入れようがなく、また人一倍要領の悪い僕であるから進捗はお世辞にも順調とは言えなかった。

 その日は土曜日だったが、午前中から何時間も根を詰めて机に齧りついていた。ノートの内容がまるで頭に入って来ず、フーリエ変換公式の積分記号が踊る何かにしか見えなくなったところで、ようやく集中力の低下を自覚した。こんなコンディションで続けても時間の無駄と悟り、思い切って気分転換に外へ出ることにした。夕刻とはいえ夏はまだ始まったばかりで、冷房の効いたアパートの部屋から一歩足を踏み出した瞬間、まるでぬるま湯のような、濃厚な熱気が体を包んだ。

 僕は極めて自然に、大学へと歩を進めた。平日であれば欝々と向かう道のりも、休日であればまた話は違う。広い敷地にまばらな人影。僕にとって、休日のキャンパスは殊の外居心地の良いものだった。

 目指すのは当然、あの池のほとりだった。その場所が一番のお気に入りだったし、水辺ならまだ気分的に涼しかろうという思いもあったのかもしれない。何にせよ、何がしかの予感に導かれたという訳では全くなかった。というのも、並木道の途中にぽつんとひとつだけ置かれたベンチに人影を認めた時、僕は飛び上がるほど驚いたからだ。

 それはまた、暗い驚きでもあった。僕は誰とも喋りたくないから、誰にも会いたくないから、人の通らないこの場所を選んだのに。昼休み、誰も彼もが楽しそうにお喋りをしつつ歩く食堂前の大通りで、一人立ち尽くしながらいたたまれない思いをした事を思い出した。僕は孤独だと、僕は僕を取り巻く全ての人間と一片の関りも持たずに生きていくのだと、刷り込むように思い知らされたあの時を。この場所を散歩する時にも同じ気分を味わわなければならないのかと思うと、胸の底に織が溜まったような重みを感じた。

 軽かった足取りが急に鈍くなり、気分はじくじくと沈んでいった。踏みしめる砂利は、死んだ沢蟹を踏み潰すような感触に変わった。このまま引き返そうかとも思ったが、その挙動は露骨に不審であり、いささか過敏になった僕の自意識がその行動を阻んだ。せめてこのまま何事もないかのように通り過ぎよう、そして二度とこの道に足を踏み入れずにいよう、蚊に刺された右のくるぶしをしゃがんで掻きながら、そう考えた。

 陽は大きく傾き、3階建ての校舎に隠れていた。くっきりとした影が並木道を斜めに切り取っていて、じっと眺めていれば、その影がここら一帯をゆっくりと覆う様を見れたろう。生ぬるい風がわずかに吹いて、草いきれの名残が僕の鼻をくすぐった。影の落ちた並木道を歩くにつれて、ベンチの人影が明らかになってきた。

 ベンチはバス停などに無造作に置いてあるような、鉄パイプのフレームにプラスチック製の座面と背もたれのついたいかにも安っぽいもので、背もたれに大きくプリントされた缶コーヒーの銘柄がそのチープさを後押ししていた。座面の隅、どこか遠慮がちに浅く腰を掛けているのは一人きり、何をしているという風でもなく、両手を膝の上に置いて、ただ座っていた。もしかしたら、誰かを待っているのかもしれないと、その時の僕は考えた。

 更に近づいたところで、座っているのが女性だという事に気が付いた。顔立ちはまだはっきりとは見えなかったが、スカートを履いていた。僕はまた厭な気持になったが、殊更に大股でベンチの前を通り過ぎようとした。

 意識して視線を前に固定するものだから、ベンチと女性は自然視界の端に移動していく。見ようとすまいと考えれば考えるほど、かえって意識はそちらに向いてしまう。

 若い。でも僕より年上か年下かまでは分からない。髪が長い。黒くてきれいな髪。スカート姿だけど、妙に渋い色合いの上下。長袖で暑くないのかな。

 いや、いや、と僕は心の中でかぶりを振る。

 知らない。僕には関係ない。この人も、この場所も、もう、僕には。

 しかし僕の思惑とは裏腹に、すれ違いざま、おずおずといった感じでその女性は僕に向かって声を掛けてきた。


「あの、かゆみ止めの薬、ありますよ」


 それが、彼女だった。


 彼女は一風変わった人だった。それは最初に会った時から今に至るまで変わらない印象だ。

 結局、差し出された塗り薬を僕は拒めなかった。見知らぬ人間からそんな申し出を受ける義理はなかったのだが、人付き合いの極端に苦手な僕にはそれを口の端に上げる事すらできなかった。悪戯を叱られた子供のような居心地の悪さの中、もぞもぞとしゃがんで薬を塗っているところに、彼女は「良かったら、これも」と言って虫よけのスプレーをそっと差し出した。

 その時僕が感じたのは、言いようのない羞恥だったように思う。とにかくかっとなって、思わず顔を上げて相手の顔を見た。秀でた額にくっきりとした眉の、化粧気のまるでない顔だった。一見して、垢抜けない中高生のようにも思われた。

 目が合うと彼女は少し微笑んで、促すように少し腰を横にずらした。


「ここに座ると、あの竹がよく見えるんですよ」と彼女は言った。


「ほら、あそこに」


 最初、彼女が何を言っているのか分からなかった。訳の分からぬままに彼女の指さす方を見てみると、確かに、雑木林の中に混じって一本だけ竹が生えている。雑木林の辺りはまだ陽が残っていたが僅かに逆光になっていて、その骨のような輪郭は一度認識してしまえば否応もなく目立ち、見る者に奇妙な違和感を与えた。

「良かったら」と彼女は再度ベンチを目で示し、毒気を抜かれた僕はぼうっとしたまま腰を下ろした。

 そして彼女は、竹の話について話し始めた。まだ名前も知らない僕に。


「花が咲いた後は、枯れてしまうんです」と彼女は続けた。

 僕はそれに何の言葉も返せなかった。釣られるように腰掛けたものの、見知らぬ異性の隣に座るという状況はより一層居心地の悪いものだった。何か気の利いたことを言おうと口を開いては、何を口に出す度胸もなくそのまま口を閉じた。挨拶もお礼の言葉も、完全に言うタイミングを逸している事に、この時の僕は最後まで気付くことが出来なかった。

 正直な話、少し気味が悪かった。夕暮れ時に、誰もいない場所でじっと竹を見つめるという行為は、完全に僕の理解の外にあったからだ。


「あの」と、思い切って僕は尋ねた。


「ここにはよく来るのですか?」


「はい、時々」


「あの竹を見に?」


「はい」とこともなげに彼女は言った。


 今度こそ、僕は体中の力を振り絞らなければならなかった。


「……何のために?」


 立て続けの質問に、彼女はむっとした風でもなく答えた。


「あの花は、まだ枯れていないでしょう? だからいつか、あの竹は花を咲かせるんです。ここにいれば、いつかは花が咲いているところを見られると思うんです」


 今でも時々、僕は思い描く。

 その想像の中の季節は春で、場所はここだ。葉桜の緑を陽光が透かす、麗らかな午後のひと時。

 常緑樹の林の中、あの一本きりの竹は紫がかった白い小さな花をまばらに咲かせ、生涯の最期を彩っている。

 あまりに儚いその姿は、あの池のほとりの、安っぽいベンチからでしかよく見えない。彼女はそれを一人眺めながら、そっと微笑んでいるのだ。

 そう考えるとき、僕は少しだけ幸せな心持ちになれる。

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