また、会う、日まで。

「愛ちゃん、希君と会えるチャンスだよ。

 行くんじゃなかったの?」


 前もこんなだったよね、と言いながらくるみちゃんが顔を出す。

 今日は希君が家族と一緒に帰国する日。希君からは最後に会いたいと言われて、もちろん私も行くことを快諾した。

 くるみちゃんがわざわざ家まで迎えに来てくれたのだけど、あの時と同じように、今朝からうさえもんの容体が悪くなっていた。


 昨日から、ごはんはおろか好物のニンジンも食べず、丸くなっている。心なしか、息も荒い。

 美小兎のことが頭をよぎる。

 何もこんな時に、と思わないでもないけれど、でもこの状態のうさえもんを置いて行くことはできない。


 拳をぎゅ、と握る。

 折角、心が通ったと思った。

 希君を好きだったあの頃のように気持ちが弾むのを感じていた。


 それでも。私は行けない。

 またしても。


「くるみちゃん、ごめん。私はここを離れられない。

 悪いのだけど、希君にはくるみちゃんから――」


 だんっ!!


 私の言葉をさえぎる大きな音が響く。

 私もくるみちゃんも、以前は良く耳にした懐かしい音。


 私達は目を丸くして、音のした方に目を向ける。

 そこには調子を崩したはずのうさえもんが仁王立ちをしていた。


 だんっ!! だんっ!!


 うさえもんのスタンピング足ダン

 驚いた時とか、嬉しい時とか、怒った時、感情が高ぶった時の仕草。


 うさえもんはじっと私の目を見る。

 言葉は通じなくても、気持ちは分かる。

 行け、と言っているのだ。余計な気を回すな、と怒っているのだ。


「うさえもん、でも――」


 私の瞳が揺れる。

 行けと言われたって。

 うさえもんを置いて行くなんて――。


「愛ちゃん。うさえもんが何を言いたいかなんて、あたしでも分かるよ?

 大丈夫、うさえもんは愛ちゃんが帰ってくるまで大丈夫だよ。

 あたしが付いていてあげるから。愛ちゃんは行っておいで。

 何かあったら、必ず電話ですぐに呼ぶから。ね?」


 くるみちゃんが、私の背中をぽんぽんと優しく叩く。

 くるみちゃんを見る。

 もう一度、うさえもんを見る。


 弱っているはずなのに、なぜか強く見えるその瞳。目で語られる。行ってきな、と。


 うさえもん?

 私を置いて一人でお月様に旅立ったりしたら、嫌なんだからね?

 怖い想像に胸が熱くなり、涙がこみ上げてくる。

 それでも、本当に私は行くべきなのだうか。


 行くべきか?

 ――私が行きたいのではないのか?


 そうだ。

 私はやっぱり行きたいのだ。

 そしてそれをうさえもんは知っている。いつも語りかけているから。


 ここのところ、ずぅっと丸くなっていたうさえもん。

 ひょっとして、うさえもんは私のために頑張ってくれているのか?

 頼りない私を一人にしないために生きてくれたうさえもんは、頼りない私を送り出すために頑張ってくれているのか。

 自分の気持ちにすらまともに向き合えなかった私のために。うさえもんは。


「ごめん、うさえもん! 私、行ってくる!

 でも、絶対、待っていてね! 一人で逝ってしまったら、絶対嫌なんだからね!」


 私は泣きながら走る。


 うさえもんの気持ちが分かった今、どれほどあの子が私を大切に想ってくれていたのか、すっと自分の気持ちに染みて来た。

 その想いが、優しい想いが、私の心を揺さぶった。


 あの子は、私のために、頑張って生きてくれていたのだ。

 本当は美小兎と一緒に行きたかったかも知れないのに、頼りない私を置いて行けずに、今まで居てくれたのだ。

 本当に優しい子。


 でも、その終わりも近づいている。

 お別れが近づいている。

 だから、新しい絆を、私を支えてくれる絆を。

 あの子は。


「愛ちゃん!? どうしたの?」


 優しい声が私の耳朶を打つ。

 涙でぼやけた視界に映る、希君の輪郭。


「ごめ……うさ……えもん……が、たいへ……ごめん……」


 全力で走って呼吸が乱れているのと、次から次へと溢れ出る涙でうまく喋れない。

 希君も何が起こっているのかを理解できないのだろう、おろおろとしている。


 そんな私達の様子を目を丸くして見ていた希君のご両親。

 私も小さい頃に何度かご挨拶した優し気な希君のお母さんが近づいて来て、その柔らかい口調で語り掛けてくる。


「宇佐美ちゃん、お久しぶり。どうしたの?

 ほら、これで涙を拭いて、呼吸を整えて。ね?」


 そう言って、そっとハンカチを差し出してきてくれた。

 私はお礼を言いながらハンカチを受け取り涙を拭いて、ぼそぼそと喋り始める。


「ずびまぜん……。ごんなどきに……。

 私のがいうさぎが、あぶなぐて、それでもいけって言っでぐれて……

 でも私、悲しくって……うさえもんと別れるのも、希君の別れるのも……」


 そう言ってハンカチを握りしめ、再び溢れ出る涙を拭き始めた。

 言っている意味が分からなくて、さぞや困らせたことだろう。こんな大きな体をして、みっともないと思われたかも知れない。

 後になるとそう思うけれど、その時は頭がぐるぐる回っていて、まともに考えられなかった。


 そんなどうしようもない状態の私を見て微笑んでくれたのは希君のお父さんだった。希君に笑いかけながら、提案してくれたのだ。


「希、どうもこのお嬢さんは緊急の大事があるようだよ。

 お前だけ残って、一緒に居てあげたらどうだい?」


 希君が目を丸くする。

 左右に視線を泳がせ、そわそわしている。


「エアーチケットのことなら気にしなくて良い。

 私が変更しておいてあげるさ」


 そう言って、お父さんは希君の肩に手を置いて、話しかけた。


「余計なことは考えなくて良い。自分自身の素直な気持ちを感じて、 何をするのかを自分で選ぶんだ。

 希はどうしたい?」

「僕は――」


 希君は私の方を見る。

 そして少し俯き。しばらくそのままで。やがて顔を上げた。

 その時には、希君の表情には、もう戸惑いも迷いも浮かんでいなかった。


「ありがとう、父さん。僕は残る。

 正直、何がどうなっているのかは分からないけど。

 それでも、いま僕は彼女の側に居てあげる必要があると思うんだ」


 その言葉を聞いてお父さんは破顔し、ぽんぽんと希君の肩を叩く。

 なにか、その様子を見ていると、息子の判断を喜んでいる父親という感じだ。


「愛ちゃん、きっとうさえもんが大変なんだよね?

 今度は僕も一緒に行く。一緒にうさえもんを看よう。

 僕にとっても、うさえもんは愛ちゃんと引き合わせてくれた、大切な友達なんだからね」


***


 その翌日、明け方。うさえもんは静かにお月様に行って亡くなってしまった。

 あれから希君と一緒に戻りくるみちゃんと一緒に三人で看病し、夜遅くにくるみちゃんが帰宅してからもお母さんに許可を取ってから希君と二人で夜を徹して付き添い、そのまま看取った。

 その最期の表情はとても穏やかで、満足したように柔らかなものだった。


「ありがとう、希君。最後まで一緒に付き添ってくれて。

 本当に嬉しかった――私一人だったら、立ち直れなかったかも」


 ようやくそう言えたのは、うさえもんを見送った翌日。お月様に行って亡くなってしまってから三日目のこと。

 ずっと泣き通しで、悲しんでいた。その間、ずっと側に居てくれた。

 それがどのような理由からでも、私にとってそれは確かに有難かった。


「今更だけど、こんなに時間を潰してしまって、ごめんね。

 高校の春休みはもう終わっているのでしょう? どうお詫びをしたらいいのか――」

「僕は、僕がしたいようにしただけだよ? お詫びなんていらない。

 それに、うさえもんとの思い出は、愛ちゃんのものだけど、僕のものでもある。

 愛ちゃんと出会えて、こうして仲良くなれたのも、うさえもんのお陰だ。

 だから、そんな顔をしないで。ね?」


 顔をくしゃくしゃにして困っている私に微笑みかけてくれた。


「でも、ずぅっと泣いて、泣き通して、こんな変な顔しちゃって、希君にはみっともない所ばかり見せちゃったね。

 とても恥ずかしい……」


 ふと、自分のここ数日の振る舞いを思い出してしまう。

 最後の方は消え入りそうな声。


 そんな私の両肩に手を置いて、そんなことはない、と言ってくれる。


「僕は、ずっと悩んでいたんだ。

 アメリカの生活はとても刺激的だったし、楽しかった。

 それでも、どうしても日本に置き忘れてきたことがあったように、心の隅に引っかかりがあった。

 あの学校うさぎ達がいた小屋の思い出。そこに居た女の子。

 年はほとんど同じなのに学年が上で、物静かで控えめで。なのに、うさぎとか、動物達のことになると途端に嬉しそうになって生き生きとして、饒舌になる女の子。

 時折、ふと彼女の居る場所に戻りたくなった。ずっと、あの場所が忘れられなかったんだ」


 そう言ってこちらを見る希君。少し顔が赤くなっている。


「その、僕は、アメリカでの生活も楽しいし、学びたいこともある。

 それでも、今なら大学を日本にすることもできて、だからその、また愛ちゃんと一緒に大学に行けるのなら――」


 そう言い募る彼の、私の肩に置いた手に私の手を重ねる。


「ありがとう、希君。そう言ってくれて、とても嬉しいよ。

 でも駄目だよ。

 アメリカにまだ心を残しているのでしょう? なら、まだ日本に帰ってきちゃ駄目だよ」

「――でも、それでも、僕は――」


 彼の少し赤くなった顔が、その真摯な緊張が、私を穏やかな気持ちにさせる。

 ああ、彼との絆はまだつながっていたんだ、と信じることができる。

 うさえもんが残して、つないでくれた絆。


「手紙を書くよ。いっぱい、書くよ」


 そう言って微笑みかける。

 まだ少し涙が滲んでいる目で。


「それなら、私は待っているよ。

 ずっと、希君を待ってる。勝手に、待ってる。

 もし希君が、私以外の人を求めるのなら、それを伝えてくれればいい。

 だから、希君は、希君がアメリカで納得できるまで頑張ればいいよ」


「――愛ちゃん――」


 そう言って、希君は私を抱きしめてくれた。

 不器用に。震える手で。

 あれ、アメリカってもっとハグとかしないのかな? そんな場違いな感想が浮かんでしまうほどに緊張感に満ちた、不器用な抱擁。


「その、こんな時に言うのも何だけど。言わせてくれ。

 愛ちゃん、僕の彼女になってくれないか」


 少し強張った彼の顔を見ていると、初めてウサギ小屋のそばで会った、あの小さかった希君を思い出した。

 あのころはまだ小さかったうさえもん。いや、希君も、私も、小さかった。

 私達、もう高校生も終わりのはずなのに、なんだろう、この不慣れな告白は。

 嬉しくて、可笑しくて、くすりと笑いが零れる。


「ありがとう、希君。もちろん、オーケーだよ」


 そう言って、私は希君を抱き締め返す。

 しばしの抱擁。そして体を離してから、彼の目を見る。

 じっと、想いを込めて。


 その合図に気づいた彼は、少しの逡巡を見せてから、ぎこちなく顔を寄せる。

 やがて、そっと唇が触れ合う。


 始まりのキス。

 初心者の二人の、不器用な、甘いキス。


 ごめんね、うさえもん。こんな時に。

 でもきっと、ちゃんとしないと、また足を鳴らして怒られちゃうよね?


「私はお手紙をいっぱい書くからね。

 待っているよ、お返事を」


 うさえもんを失った悲しさと、失われたと思っていた絆を結び直した嬉しさ。

 感情が高ぶり、再び涙がこみあげてきて、胸がつかえる。

 ぐちゃぐちゃした感情の中でも、それでも私は、私達は明日に向けて歩き出す。


「お互い、頑張ろうね、希くん。

 また、会う、日まで――」


***


「ねえねえ希君。ちょっとこの店に寄っていいかな?」


 二人で歩く帰り道、私はふと新しくできた店の前に立ち止まる。

 正面を綺麗に飾られたその店は、『うさぎ専門』の文字が彩られている。


「――珍しいね、愛がうさぎの店に寄りたいなんて。

 うさえもんが月に行ってから何年も経つのに、そんな素振りを今まで少しも見せなかったのに」

「うーん、なんだか、妙に気になっちゃって。

 ダメかなあ?」

「いや、もう式や衣装の打ち合わせも終わっているし、今日は帰るだけだから。

 少し寄っていくくらいは問題ないよ」


 ありがたくもお許しを貰えたので、私はその可愛らしい扉を開き、店内に足を踏み入れる。

 清潔な店内の壁際に据え付けられたケージには、生まれたての小さな子ウサギ達が、思い思いに跳ねたり、寛いでいたり。楽しげな空間を作っている。


 初めて入る店内。

 私は何かに呼ばれるように進んで行き、ひとつのケージの前で足を止めた。

 中を覗くと、親ウサギと、数匹の子ウサギ達がわらわらしている。


「ん? なんかこのウサギ達、見覚えがあるような?」


 後ろからのぞき込む希君が呟く。


「これ、ジャージーウーリーと言って、美小兎みことと同じ品種なんだよ。

 身体は小さくて、毛がふわふわしていて。でもちょっと珍しいんだよ」


 ウサギから目を離さずに答える。

 いろいろな子ウサギ達の中、一匹だけ活発な子が目に付く。

 ふわふわした子達を押しのけ、ぐいぐい餌箱に顔を突っ込んだり、走り回ったり。

 挙句には、足を地面に叩きつけようとしている。うまくできてないけど。


「ウサギさんをお探しでしょうか?」


 背後から、にこやかに店員さんが声を掛けてくる。


「はい、ちょっとこの、跳び抜けて元気な子を見せてもらえませんか?」


 店員さんに、間近で見せてもらう。

 ふわふわの白い毛にグレイの模様、美小兎と同じカラー。

 でもあの子とは似ても似つかないほどにやんちゃな男の子。


「すみません、抱っこさせてもらってもいいですか?」


 そうお願いして、注意事項を聞いてから抱っこさせてもらう。


 この子だ。私はこの子に呼ばれたんだ。

 自分の手の中の小さな命。その目を見て確信した。


「その子が気になったの? 他の子は見なくていいのかい?」


 他の子を見ようともせずに、一直線にこの子を選んだ私を不思議そうに見ながら希君が聞いてくる。


「うん、いいの。

 ねえ、希君。これから二人で生活していこうという時にごめん。

 ごめんだけど、私はこの子をお迎えしたいの。いいかな?」

「普段、そういうことを言ってくれない愛の言うことなんだ。もちろん良いよ」


 私は確信している。

 この子はうさえもん。その生まれ変わり。


 もちろん証明なんてできないけど、直感だけど。でも、そう信じる。

 だから、私を呼んでくれたのだ、きっと。


「ねえ君、私は君をお迎えしたいのだけど、来てくれるかな?」


 私はその小さな命の目を見て、質問してみる。

 その子は少し顔を傾げてから、一生懸命、体を寄せてくる。


 ぺろり。


 私の鼻の先っちょを、その小さな舌で舐めてくれた。

 よし、オーケーを貰った。


「ありがとう、うさえも……ちがった。君を喜んでお迎えするね」


 自然と綻ぶ顔を見ながら、希君も嬉しそうにしながら言ってくる。


「早速、新しい家族ができたね。名前を考えないといけないね」

「あ、希君。私、もうつけたい名前があるのだけど、いいかな?」


 その性急な言葉を聞いて、ちょっとびっくりする希君。

 確かに、これだけぐいぐい行く私は、自分でも珍しいと思う。


「命って書いてね、”みこと”って名前にしたいと思うんだ。

 この子は、私にとって、うさえもんの代わり。うさえもんが戻ってきてくれた存在で、彼の命そのものだから。

 それに、うさえもんが恋焦がれていた美小兎と同じ読みで、この子もうれしいと思うんだ」


 びっくりし通しの希君。

 ごめんね、暴走してしまって。

 それでもね、私は嬉しいから仕方ないんだ。


 私は新しく家族になる子の目を見る。


 これから、またよろしくね、みこと

 また、会えた、この日から!


【学校うさぎの恋 完】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

学校うさぎの恋 たけざぶろう @takezabro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ