純喫茶 蛇の巣 ~チーズケーキは千円也~

律華 須美寿

純喫茶 蛇の巣 ~チーズケーキは千円也~

 商店街とは良いものだ。

 温かな人の笑みがある。ささやかな幸せを大切にする心がある。言葉を交わす繋がりがある。

 商店街とは良いものだ。

 地の物を売る八百屋がある。立ち読みが出来る本屋がある。必ず挨拶をくれる交番がある。

 そして何より、良いものがある。

「おっ」

 個人経営の、小さな喫茶店がある。


「いらっしゃいませ」

 やや重たい木の扉を押し開けた先にあったのは、良くも悪くも期待を裏切らない光景だった。使い古された机の上には手作りのメニュー表。備えつけられた椅子にはこれまた使い古された様子のクッション。

 ブラインドの降りた窓から薄く入り込む昼下がりの陽光は床のワックスを滑って跳ねまわり、天井から吊るされたいくつもの照明は店内にオレンジ色の光を投げかけている。

 そして。

「…………」

 真正面には、左右に長いカウンター。テーブル席と同じメニューが等間隔に配置され、丸椅子により緩やかな区切りが出来ている特等席。そこには先客が一人。初老の男性が静かに新聞を読んでいる。カウンターの向かいからは何がしかの器具が建てる蒸気に混じって、香ばしいコーヒーの匂いと、オマケにかすかなスイーツの香りも漂ってくる。

 完璧だ。何もかも。

 思わず心の中でガッツポーズをしてしまう。これほど理想的な環境に巡り合えたのはいつ以来だろうか。ツイてる。ヤッタ。

「あのぉ~、お嬢さん……?」

 そう喜んだのもつかの間、不意に正面から聞き覚えのある声が届く。

「……いつまでそこ、立ってるつもりで……?」

「あっ」

 聞き覚えがあるなんてものではない。つい今しがた聞いた声だ。「いらっしゃいませ」と同じ声だ。理解してからの私の行動は早かったと思う。小さく何度も頭を下げつつ、謝罪とも何ともつかない謎の呟きを唇に遊ばせながら、慌てて目の前の丸椅子に座り込む。すぐ隣の座席から、新聞が捲れる小さな音がした。

「……スイマセン……」

「あはは、あまりお気になさらず」

 思わず小さくなった私の頭上から声が降る。先と同じ声だ。カウンターの向こうにいた人物の声だ。ここのマスターの声だ。

「……んで? ご注文は?」

「あっ、ええと……」

 あまりに同じ姿勢から動かなかったからだろう。苦笑交じりのマスターの声が私の意識の手綱を握りに来た。流石にそこまでさせるわけにはいかない。思わずびくりと体をすくめてしまったが、構わず肩から下げたままだった鞄に手を伸ばす。

「んーと……スイマセンねちょっと……」

 取り出したのは青色の財布だった。さっきの今でこんなことしたくはないが、こればかりはやらないわけにはいかない。ピン札が入らないタイプの合皮の袋を一瞥。中には小さく折りたたまれた千円札が数枚。小銭は、ない。

「どうかしました?」

 唐突に財布の中など確認したからだろう。再び店主の声が響く。

「……もしかしてぇ、中、空っぽですか?」

「いえ……別に……」

 ジジッとチャックを引っ張りつつ視線を向けてみれば。やや高い位置からこちらを覗き見る瞳とぶつかった。黄色っぽい茶色の目だ。それを縁取るまつ毛の密度も相まって随分と大きく感じる。すっと通った鼻筋の下、健康的に桜色な唇は人懐っこく歪んでいる。これまた大きい。肌の白さも悪さして、何だか蛇のような雰囲気を覚える女性だ。美人なことは間違いないと思うのだが、どうにも好きにはなれそうにない。あの一つに結ばれた長い黒髪も、大蛇の胴のようにすら思えてならない。

「そうですかそうですか……そりゃ良かった。 なに、前にいたんですよぉそういうお客が……たらふく飲み食いしといて、いざお会計となったら金がないとか言い出す不届き者がねぇ……あっ、違いますよ? 別にお客さんがそうだって言いたいわけではなくてですね……」

「わかってます、大丈夫です」

 一瞬頬が強張ったのは、別に気を悪くしたからではない。

「どうもどうも…………んで、どうしましょ? ご注文」

 不気味な相貌から逃れるようにメニューを取る。鞄は適当に足元へ。ラミネートされた白い紙にはごくシンプルな細い文字が整列していた。この女が書いた文字だろうか。顔が蛇なら文字も蛇。読みづらい。

「え~……」

 ブレンド一杯450円。カプチーノだと600円。オレンジジュースは500円で、紅茶はレモンとアップルがそれぞれ550円。スイーツはチーズケーキとチョコレートケーキがある。あ、プリンも。他にはアイスがバニラとイチゴと抹茶で……パフェもあるのか。う~ん。

「……ブレンド一つ。 と、バニラアイス。 ……チーズケーキもください」

「はいは~い」

「あっ! 待って」

 言い終えるや否や、マスターはくるりと踵を返して歩き出そうとする。豆でも用意しに行くのだろうか。あまりの素早さに思わず大きな声が出る。はい? 振り返った女の顔にはきょとんと丸くなった瞳が二つ。

「あ~、ええと、その……」

 つくづく不気味だ。そう言いたいのをぐっとこらえて、足元の荷物に手を伸ばしつつ、言うべき台詞を口から転がした。

「……お手洗い、どこですか……?」


 喫茶店で過ごす時間とは、どうしてこれほど忙しなく消えてしまうのだろうか。

 最高のひとときだった。美味しいアイスに美味しいケーキ。コーヒーはちょっと苦すぎた気がするけれど、それでも甘いお菓子の魅力を引き立てる良いスパイスになってくれたと思えば悪い気はしない。

 すべてにおいて欠点のない、至福の時間。

「う~ん……」

 しかしそれは、すでに過ぎ去った記憶の中の出来事。もうこの手にはない、過去の輝き。

 今の私の目の前にあるのは、惨憺たる問題の影。

「困りましたね~」

 まごうこと無き緊急事態のみであった。

「いつの間に、こんなことに……」

 眉毛をひん曲げた店長の眼前に広がるのは、カウンター一杯に並んだ道具の数々。

 黄色いハンカチ、画面の割れたスマホ、学習塾のチラシが挟まったポケットティッシュ。口が開いたエチケット袋。赤い合皮の小さな袋と、そこから半分顔を覗かせる白いイヤホン。私の私物だ。すべて、私が鞄から取り出して並べたものだ。

 どうしてこんなことになっているのか。理由は簡単。

「……ホントにありませんねぇ。 お財布」

 私の財布が消えたのだ。

 違和感に気付いたのはつい数分前。私が食事を終え、お会計を行おうと席を立ったときのことだった。レジカウンターの前に立つマスターと向かい合って鞄を探る私だったが、一向に目的のものを探し出すことが出来なかったのだ。奥の方に逃げてしまったのかと思い、一度カウンターの上に持ち物を並べてみたのだが、そこにも目当ての袋を見つけることは叶わず。結局店主と二人で首をひねる事態となってしまったのだった。

「でも、確かに持ってましたよね。 私」

 おずおずと切り出せば、マスターも頷く。彼女も見ていたはずなので間違いない。注文の前に、私は財布を取り出し中身を確認していた。つまりその時点までは確かに、私の財布はこの手の中に存在していたのだ。

「その後……となるとお手洗いですねぇ。 ……でもそこで無くすなんてありえませんよね……万一落としたとしてもすぐにわかるはずですし……。 換気扇くらいしかない空間なんだから、外に出て行っちゃうこともあり得ません」

 すると可能性のある場所は限られてくる。私がいた場所付近の床や卓上の物陰か。或いは衣服のポケットか。しかしそんないかにも見落としそうな場所など既に調べ尽くしている。結論から言えば、何も出てこなかった。財布はおろか、塵の一つも。店の掃除の徹底ぶりを確認しただけに終わってしまった。

「……とするともう、考えられる可能性は一つ……ですよね」

 思わず声が小さく、歯切れ悪くなっていくのが分かった。こんなこと、とてもじゃないが言いたくない。

「…………あの席にいたおじいさん。 あの人が……!」

 すでに誰もいなくなって久しい座席を二人で見やる。そこにいた人物の影を探すように。店主と私の目を盗み、鞄から財布を抜き去り、何食わぬ顔で店を後にする。そんな悪事を働く人物にはとても見えなかった。ただただ静かにコーヒーを啜りながら新聞を読んでいる老人にしか見えなかった。

 しかし、ほかにもう何もないのだ。

 私の財布が消える、その要因足り得る事象が、何も。

「あの人も私の財布を見たはずですし……不可能じゃない、はずです……よね?」

「そう……なんですかねぇ……?」

 マスターの声は、私以上に歯切れが悪かった。


 重い扉を押し開ければ、そこに広がっているのは昼下がりの穏やかな商店街の喧騒だった。

「…………」

 喫茶店の中で何があったのかなんて知りもしない、知るよしもない住民たちの描き出す平和で安らかな光景。

「…………」

 改めて、思う。

 商店街とは良いものだ。

「…………」

 温かな人の笑みがある。ささやかな幸せを大切にする心がある。言葉を交わす繋がりがある。

 商店街とは良いものだ。

「…………ふっ」

 地の物を売る八百屋がある。立ち読みが出来る本屋がある。必ず挨拶をくれる交番がある。

「ふふっ、ふふふふっ」

 そして何より、良いものがある。

「うふふふふはははははっ!」

 無知で無抵抗な、最高のカモがいる。

「財布が急になくなるとか、あり得るわけないじゃないのよバ~カ!」

 思わず口をついて出てしまった。通り過ぎる商店の店先にいた人々から怪訝そうな表情を浮かべられてしまう。もしかしたら先の高笑いの方が原因だったかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

 重要なことは一つだけ。また今日もお得に買い物できてしまったというその事実だけだ。

 喫茶店で珈琲とケーキを注文したら一体いくらかかるのか。安くても7、800円程度はするだろう。何かしらこだわりの品を扱っている店だったらもっとかかるはずだ。千円を越えて、もっと。

 これが無駄な金の流れでなくて何なのか。たかだか小一時間店を利用しただけでこんな出費、馬鹿馬鹿しいったらない。自販機で買えば百円かそこらで済む飲み物と、コンビニで買えば数百円かそこらで済む食べ物に、千円。ぼったくりだ。あり得ない。

 だから私のこの行為はまったく違法じゃない。これはあくまで『賢い節約術』でしかないのだ。悪者が居るとすれば、それはあの店の女店主だ。こんな程度のちょっとした仕掛けにも気が付かず、無関係の老人に罪を擦り付けたままで、この私を開放したあの間抜けな蛇女。悪いのはあいつだ。あいつの頭が悪いだけなのだ。

「さぁ~て、と……。 ついでに晩御飯買って帰ろうかなぁ~。 ……適当に総菜でも……」

「でしたらおススメのお店がありますよぉ」

「えっ」

 直後。背後からの声。

 見知った、声。

「…………」

 先ほどまで聞いていた、声。

「どうされましたぁ? 危ないですよ、こんな歩道の真ん中で……」

「なんで……あんた……?」

 何とか動かした首が捉えた人影。間違いない。間違いであってほしかった。

「…………あんたがここに……っ!?」

 あの店の蛇女が、にたりと不気味な笑みを浮かべてこちらを凝視していた。

「いやなに、忘れ物がありましたから」

 冷え切った背筋にじっとりとした汗が伝わる。思わずたじろぐ私の動揺などお構いなしに蛇女は一歩近づいてくる。近い。鼻息がかかりそうだ。不快だ。

 でも、動けない。一歩も下がれない。

 それはこの迫力ある瞳が故の金縛りか。

 或いは。

「最初におかしいと思ったのは来店されたときでした」

 囁くような声が鼓膜をくすぐる。首のあたりがぞわりと震える。

「あなた、あのおじ様の隣に座りましたよねぇ……店はあれほど空いていたのに……。 別に悪いって言いやしませんが、若い女性の行動としては違和感が残ります。 普通はもっと離れて座るもんだ」

 確かにあのとき、座席はまさにより取り見取りだった。なにせあの老人以外に客がいなかったのだから。座るなら、他の選択肢も当然あり得た。

 でもだからって……。そう言いかける私の口を視線の一つで制し、女の独自は続く。

「だから私思ったんです。変わった人だなぁって。 そしたら全くその通り、あなた、わざわざこっちに見えるくらい大げさに手元の袋を広げて見せてくれるじゃないですか!」

「だったら何よ!」

 何が面白いのか声のトーンがせり上がる。突如耳に響いた不快な高音にとうとう体が抵抗の意を示した。素早く二歩ほど後退ってから、胸の前で腕を組む。視線は、出来るだけ鋭く。

「……だったら、何なのよ。 ……注文前に財布を確認したらイケナイの? あの店は」

「いいえ? 別に」

 ふるふると首を振る女。改めて見ると線は細いわ背は高いわ。やはり蛇か何かの化身にしか見えない。良く動くあの口から細長い舌が出てくれば完璧なのだが。

「だったらいいじゃない、それくらい」

「だから悪いなんて言ってませんよ……。 私が思ったのは、やっぱりこの人変だなぁって、それだけですから」

 ゆらり。伸びた片腕が鞄を指さす。

「どう見たって財布には小さな袋の中に、何度も何度も折りたたんだお札だけが入ってたら、誰だってそう思いますよ」

「!」

 小銭入れにしたって小さすぎるのに。女の言葉に思わず汗が増える。確かにそうだ。あれは財布でも何でもない、ただの合皮の子物入れなのだから。そう思われてもおかしくない。今までただの一度も指摘されたことのない事実に硬直する私へ、蛇の言葉が絡みつく。

「多分あれ、百均とかで買ったただの小物ポーチですよね……。 いえ、別にいいんですよ、それをお財布代わりにしてても。 でも、クレカも免許証も入らない袋を使っておいて、別にカードケースなんかを持ってないっていうのはおかしいですよ。 ……変です。 とっても」

「で……でもっ!」

 一歩。片足を踏み出しながら声を絞り出す。通行人の視線などもう気にならなくなっていた。どれだけ私があの店に『違和感』を置いてきていようが、この事実が覆らない限り、この女は私に手を出すことなどできないはずだ。

 希望を込めて、叫ぶ。

「でも、私の財布は確かに無くなったわ! あなたも見たでしょ! 財布がどこに無くなったのかもわからないくせに、私を悪者みたいに言わないでよ! 早くあのジジイを捕まえに行ってよ!」

 しかし。

「やっぱり」

 蛇女の言葉は、変わらず囁き続けるのみで。

「やっぱり変だ、あなた」

 大きな瞳もまた、獲物を見据えて離さないままで。

「だからあれはお財布じゃなくって小物入れなんですって。……。 ねっ?」

「あ……っ」

 淡々と、事実を放って寄越してきた。

 お札なんて、靴下にでもねじ込めばいくらでも隠せますもんね? 仕込みは全部お手洗いでやったんですよね? 女の言葉は聞こえていたが、正しく理解するのがひどく難しかった。理解したくなかったというべきかも知れない。この現実を。この女の観察眼を。この私の愚かさを。

「さぁ、お客さん」

 滲む視界の先、ちろりと小さく舌を出し、女が笑うのが見えた。

「1850円、お支払いくださいな」

 忘れ物はこれです。伝票を差し出しながら。

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