十二の恋はとめられない
小石原淳
十二の恋はとめられない
「何で?」
――激怒と言っても小学六年生なので、字面が醸し出す雰囲気ほど物凄くはない。ニュアンスは異なるが、激怒と書いて「げきおこ」と読むぐらいのレベルと捉えてくれれば大丈夫だ、多分。
「何でって、しょうがないでしょうが」
台所にいた須美子の母が手を止め、振り返る。普段なら須美子が少々大きな声を出しても、調理の手を休めることなんて滅多にない。よっぽど、娘の反応が意外だったのだろう。
「今、こういう状況なんだから」
「だからって、どうして
「こら、唇を尖らせないの。折角美人に生まれたんだから、しわを作らないように気を付けなさい」
「~っ。び、美人じゃなくていいもん。私は早川君の家に行きたいのっ」
目の下から頬にかけて赤くしながら、須美子は主張した。唇をきゅっと噛み締める辺り、やはり意識はしている。
「だから外には怖いウイルスが」
「知ってる。だけど、お家の中にはいないはずよ」
「え、どうしてそんなこと言えるの?」
話が長引くと感じたか、母親はコンロの火を止め、包丁とまな板、さらに自身の手も洗ってタオルで拭いてから、須美子の近くまでやって来た。
「お家の中にウイルスがいたら、もう早川君にだって移ってるわ。けど、現実にはそんなこと起きていないし」
「でも、須美子が早川君の家に行くまでの間に、ウイルスをどこかでもらっちゃうかもしれないでしょ」
「それは私が注意していれば防げるわ」
「あら。注意して防げるんだったら、今、こんな風に世界中に広まっていないと思うけどなあ」
「ニュースでやっているのは、長い距離を移動したり、大勢が集まったりするからでしょ。短い距離ならきっと平気よ。うちから早川君の家までは、自転車で五分ちょっとしか掛からない」
「五分は飛ばしすぎ。もっと交通安全、心掛けてよ」
「分かってるってば。ねえ、いいでしょう?」
「いけません。どうしてもと言うのなら、まず早川君のご家族の了解を得て。それから行きも帰りもタクシー。これなら私もオーケーを出すけれどどう?」
「タクシーって、そんなにお金持ってない……」
自転車で五分以上掛かる道のりを、タクシーで行けばいくら掛かるか知らない須美子だが、とにかくタクシーは高いということは理解している。
「愛があれば乗り越えられるんじゃなくって?」
ややからかい気味に母に言われ、須美子は頬を膨らませた。
「いいもん。レインコートを着て自転車に乗っていく。医療従事者の人達が着ているのと似たようなものでしょ」
「だいぶ違うと思うけど。それにみっともないからやめて」
予想外に長くなった春休み。本日の天気は快晴そのものだ。
「みっともなくてもいいから、会いたいよ」
卒業式その他諸々の学校行事が吹っ飛んでしまって、クラスメートや先生とも長らく会えていない。
「あなた達はまだ小学生なんだから、言うことを聞いてちょうだい。中学が始まったら、また会えるようになるんだから今は我慢」
「中学だっていつ始まるか怪しい……」
ふてくされる須美子を見て、母親はしょうがないわねというため息をつくとともに、何やら考え始める表情を見せた。
「とにかくお昼ご飯にしましょう。あなたのデートのことは私も考えておくから」
須美子は須美子で考え、思い付いたことが一つあった。
数日後。朝早く、それこそまだ両親ともに寝入っている時刻に起き出した須美子は、静かに準備を始めた。
クローゼットをそっと開け、取り出したのはまだ一度、試着の際に袖を通したきりの新しい服。次に早川と会うときはこれを着ていくと決めていた。でもまだ着ない。起き出してきた父もしくは母とたままた鉢合わせになったら、出掛ける格好をしていることを訝しがられるに決まっている。着替えるのは出て行く直前にしよう。
常夜灯レベルの明かりの中、自分の部屋で鏡に向かって髪をとかしつつ、須美子はカレンダーをちらっと見た。
(昨日までは小学生だったけれども、今日から私は中学生)
今日は四月一日。規則上、卒業したあとも三月三十一日までは小学生なんだよって、担任の先生に教わった。
(お母さんは、私が小学生だから駄目だと言ったんだからね。中学生になったから、少しは自由にさせてもらうからね)
こじつけの理屈であることは須美子本人もようく分かっている。元来、優等生でルールをはみ出すような行動はできないタイプなのだ。だけれども、こんなにも長く彼と会えないのは、前もって想像していた以上に堪えた。
加えて、他の家の子達がまだそれなりに行き来できているのに対し、柏原家では外出は生活に必要でない限り避けるようにと若干厳しめに言い付けられた。というのも須美子の父親は歯科医師で、万が一にも感染すると治療継続中の患者に大きな迷惑を掛けてしまうからという背景があった。現在、完全予約制とし、しかも患者ごとの診療時間の間隔を広く取った体制で開院を続けている。
(お父さんの事情は分かるけど……私の事情も考えて欲しいよ。このままじゃ、誰にも言えない恋と変わらない)
思っていたよりも早く準備は進む。家を出るのは、両親が起きて朝食を始める寸前ぐらいを考えていた。何気ない調子で今起きてきた風を装い、食堂横の廊下を通るときに「おはようございます」ぐらい言って、そのまま玄関に直行、出発。これしかない。ちなみに自転車は昨日の夕方の内にこっそり移動させ、玄関を出たすぐ脇のところに置いてある。鍵を解除するのはさすがに怖かったので、ロックしたままだから、出てすぐに乗れるわけじゃないけれど、だいぶ時間短縮できるだろうし、音もほとんど気付かれないはず。
(……顔を洗おう。寝てしまっては元も子もないし)
忍び足で廊下を進み、洗面所に立つ。春先の冷たい水で意識はこれ以上ないほどしゃきっとした。
(あと問題があるとしたら、早川君の方に具体的な時刻を伝えていないことかしら)
目処が立っていなかったため、今日四月一日に遊びに行くということしか先方には伝えられていない。
(さすがに朝の七時や八時にお邪魔するわけにいかないし。どこかで時間を潰さなくちゃ。でも、あんまり近所だと、気が付いたお父さんお母さんに見付かるかもしれない)
気付かれた段階で、遅かれ早かれ早川家に問い合わせの電話が掛かってくるのは間違いない。その点に気が付いている須美子だが、そこは早川がうまくごまかしてくれることに賭けている。
(一時間でもいいのよ。早川君と会って、会えなかった間何があったかおしゃべりしながら一緒に遊んで、中学でも同じクラスになれたらいいねって――)
思い描く内に気分が沈んできた。何故か悪い方へ悪い方へと想像が向かう。
(本当に中学校、始まるのかなあ)
バスタオルに埋めるようにして顔を拭きながら、密かに呟いた。
緊張と決意のためかもしれない。眠くなることなく朝を迎えた。まず母親が起き出し、二十分ぐらいあとに父親が起き出すのが気配で分かった。
(いよいよだ)
空唾を飲み込んだ。
(私が起き出してきても不自然に思われない、いつもよりちょっと早い時間がちょうどいい。お父さんは新聞を読んでいるし、お母さんは料理の準備に忙しい。私が玄関に向かったって、気に留めないに決まっている)
頭の中では算段を立て、時計を見て、いい頃合いが来たと判断した。着替えをそっと済ませる。しわができてないかのチェックも完璧。
だけど、最初の一歩が踏み出せない。悪いこと、大人から駄目だと言われていることをやりなれていないせいか、踏ん切りを付けるのに苦労する。
呼吸する音が大きくなった気がして、両親に聞こえるはずないのに思わず口を手で覆った。
(大丈夫)
小さめの深呼吸を幾度かして落ち着くと、ドアをゆるゆると開けて、ようやく自分の部屋を出た。
この段階でそんな必要はないのだけれども、抜き足差し足になってしまっていた。
するとダイニングキッチンに近付いたところで、それまで聞こえてこなかった父と母の会話が耳に届いた。
「今日は待機の日でしたよね?」
「ああ。休みみたいなもんだと思いたいが、どうなるやら」
「家にいるのなら、一つ相談というか、お願いがあります」
「家事の手伝いなら、やれる範囲でやりますよ」
「そうじゃないの。昨日のうちにお願いしようかと思ったのだけれど、お疲れみたいだったから」
「分かった。聞きましょう」
新聞を折り畳む音がカサカサとする。水道の水を止める様子も伝わってきた。
(あれ? まずいなぁ。動けなくなった)
両親が共に気を取られる要素がなくなってしまった。仕方がない。壁に身を隠すようにして立ち尽くし、機会を窺う。
「須美ちゃんのことなんです」
名前を出され、自分の耳がぴくっと反応するのを自覚した。
「ふむ。須美子がどうかしたか。学校の始まる見通しが立たなくて、ストレス溜まっているようで心配は心配なんだが、勉強は自主的にしてるみたいだし」
「そこまで見ているのなら、須美ちゃんがデートしたがっていることも当然、把握済みね?」
「……そのことに関しては、私はノータッチだ。口を挟むと疎ましく思われるに決まっている。だから相手の子の名前も知ろうとしてないだろ」
「我が娘がかわいいのは分かりますけど、気を遣いすぎですよ。そこで提案というわけでもないんだけど、須美ちゃんの彼氏の顔を見に行くつもり、ない?」
「はあ?」
父親の反応に足並みを揃えて、須美子自身も似たような声を上げるところだった。ぎりぎり我慢したが、今や両親のやり取りが気になってたまらない。
「あの子、ほとんど家に籠もりきりにさせているでしょ。前にお買い物に連れて行ってから二週間以上経ったわ。あとは近所の散歩、ジョギングぐらい。ちょっと厳しすぎやしませんか」
「そりゃ思うよ。市内は感染者が出ていないし、全体でもゼロがずっと続いている。だからといって気晴らしに遠出したり、映画観に連れて行ったりできる状況じゃなし」
「それならせめて、早川さんのところに遊びに行かせるくらいは」
「早川さんていうのが、ボーフレンドの名前か」
「下の名前は和する泉の
今度は須美子一人が声を上げそうになった。
(う、嬉しい)
「あー、私は考えが古いと自覚している。その上で敢えて言うが、なよっとした男はだめだぞ。名前が女性にも使える名前なのは仕方がないとして、話を聞いていると軟弱なイメージが先に立つ」
「和泉君はそういうタイプではありませんよ。護身術を習っているくらいだから、あなたより強いかも。尤も今、道場は休みだそうですけどね」
「まさか、十二歳にして背が高い、巨漢なのか」
「サイズは普通です。それに辛抱強くて、気が利いて。須美ちゃんのことを尊重しつつ、リードすべきところはリードする男の子。これが私の評価。運動会や音楽会で見ただけですけれどね」
「そこまで言われると、私も見たくなってきた。あら探ししてやりたい」
「そんな大人げない」
「冗談だ。で? お願いとは何だい。本気で娘の彼氏を見に行くだけってことはあるまい」
「実はさっき言った電話で話がついているんですけれども、今日このあと十時を目処に、須美ちゃんを送ってやってほしいの」
「早川さん宅にか」
「そうですよ」
須美子はうれしさのあまり、転がり出そうになった。もし外出着に着替えていなかったら、本当にそうしていただろう。
「いいよ。帰りもだな」
「はい。本当にいいんですね? 須美ちゃんと和泉君、二人で遊ぶんですよ?」
「ふん。大勢集まるよりましだ。マスクをして、できれば窓を開け放ってもらいたいがね」
「もちろん、早川さんもその辺は徹底しています」
「それと、しばらくあとでいいから、次は逆に和泉君に来てもらえ。私の身体が空いているときにだぞ」
「はいはい。じゃあ決まりでいいですね。朝ご飯の支度ができたら、須美ちゃんを起こしてきますから、そのあとあなたの口から言ってあげてください」
須美子の背筋がぴんと伸びた。こうしてはいられない。できる限り速やかかつ静かに、部屋に戻ってベッドに潜り込まなくちゃ。服? 服は布団で見えないだろうけれども、そのあと起き出したときの姿を考えると、寝間着に戻した方がいいような。
須美子がきびすを返してそろりそろりと歩き始めたあとも、両親の会話は続いていた。
「いいとも。というか、おまえが言わなくていいのか? ずっと二人で家にいて、小さな言い合いぐらいしてるだろ。その挽回に……」
「いいんですよ。車を運転するのはあなたなんですし、私はいつでもチャンスが転がっていますから」
* *
「柏原さん、久しぶり! ――って、どうしたの、目、赤いけど」
玄関の外に立って出迎えてくれた彼のマスク越しの第一声に、須美子はどう応じようか迷った。
花粉症の症状が出たみたいと嘘をつくか、うれし泣きだよと本心を言おうか。
今日は四月一日。
おわり
十二の恋はとめられない 小石原淳 @koIshiara-Jun
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