第7話(最終話)

 価格革命……スペインが南アメリカから収奪した銀のもたらした衝撃を、後の世はそう呼んだ。スペインを通じてヨーロッパ世界に流入した銀は、長期的なインフレーションの原因となったのだ。

 インフレ波及の過程で各地の生産物にはおおきな価格差が生まれ、商人たちはより安い商品を他国に買い求める行動に出た。

 それは各地の余剰物資の貿易を活性化させ、世界の分業体制、植民地についてはモノカルチャー経済の構築を加速させることとなった。

 時期を同じくして起こった地球規模の気候変動……小氷期の到来による緯度の高い諸国……ヨーロッパ各国の農作物の不作とインフレによる地代の目減りによって旧来の地主は没落する。そして、十四世紀から十五世紀にかけて猖獗を極め、ヨーロッパに人口減少をもたらしていた黒死病が、十六世紀には終息に向かう。

 結果、この時期、人口は反転増加したのではないかと推測されている。

 輸入品との価格競争に負け、また冷害によって食い詰めた農民たちは、都市に流入した。

 商人の台頭、世界経済の分業化、地主の弱体化、都市への人口流入、これらの要素が重なり、ヨーロッパは次の時代への扉……産業革命へ向かって歩み始めることとなる。


 一五八八年八月

 アルマダの海戦にてスペイン無敵艦隊が大敗、壊滅する。

 この事件を契機に、大西洋におけるスペインの独占的地位は失われ、アメリカにおける銀の独占体制も失われた。

 レコンキスタをともに戦った経緯から、発言権のおおきかった郷士たちをスペイン王室は疎んじていた。

 郷士は地主であると同時にスペインの農産を担っていたのだが、価格革命と気候変動による彼らの弱体化をこれ幸いと放置し、他の国内産業の育成にも不熱心だったスペインは、農産・手工業生産、ともに低迷し、アルマダの海戦以後、長い長い落日のときを迎えることになる。

*

 もうひとつ、述べておくことがある。

 二00九年、スペインのピレネー山系の麓の町の教会堂の書庫で、かつてその近隣の土地を治めていたアリスタ家の帳簿が発見された。

 十六世紀なかごろから十七世紀初頭にかけて……七十余年にわたる帳簿からは、インフレ、不作、盗賊の横行、増税……幾多の困難に立ち向かい、家産と小作を護った、当時の郷士と財務官の苦闘が垣間見える。

 財務官エジェオ・バルトリは一六三二年三月九日に没し、その亡骸は帳簿の保管されていた教会堂の墓地の一角に埋葬されている。

 優秀な財務官を亡くしたあとの郷士カミロ・アリスタの消息については、伝わっていない。帳簿とともに残されていた若干の書簡を読んでも、小作を労る良い郷士であり、いくつか変わった習慣を持ち、いつまでも若々しかったというほか、彼のひととなりについては詳らかではない。

 また、かつてオルテロの町があったところに現在、彼の子孫は住んでおらず、教会堂に保管されていたあとの年代のアリスタ家の文書の所在も明らかになっていないため、彼の没年・埋葬場所も不明である。

 だが、旧オルテロの町の年寄りたちが口々に言う……

「一九三六年の内戦のあと、フランコが政権を握るよりまえ……ここらあたりは本当に静かでいい町だったよ。春には一面、麦の穂が揺れて、オリーブの木は青々としててね。儂らはみんな、自分の町を自慢に思っていたものさ」

 いささか牽強付会ではあるが、この言葉が、郷士カミロ・アリスタが成し遂げたことの、微かな足跡であるのかもしれないと、私は思うのだ。

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落日の途 宮田秩早 @takoyakiitigo

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