第6話

「……わたしはね、吸血鬼なんだよ」

 唐突な告白に、今度はエジェオが驚く番だった。

 なにかの比喩だろうか? 小作に金を貸し、高利を巻き上げる者を吸血鬼と罵倒する比喩はよく聞く。吸血鬼といえば疫病をもたらす血を吸う悪魔……いや、それはこのあたりで流行っている戯作のなかだけの存在で、本場の東欧では死して蘇り、親族に災いをなす妖怪……だった気もする。

 いずれにせよカミロさまが? まさか。

 い、いや、犬に化けられるのならべつに吸血鬼だっておかしくはない……か?

「三十五年前、後継者のいなかったこの地所を買い取って以来、ずっとここで地主をやってる。食事は、医者が患者から放血したのを分けてもらったり、家畜の血を飲んでる。この町で人を襲ったことはないよ。目立って違うのは、昼間に人間の姿で陽の当たるところに出られないのと、歳を取らないことくらいかな」

 なるほど、とエジェオは納得した。

 そういうわけで、あの几帳面な三十年分の帳簿は、みんな貴方が付けた……ということなんですね。

 昼間に出歩かないとか、秘密の飲み物しか飲まないとか、彼の変わった生活習慣の種明かしにもなったわけだ。

「……驚かないんだね?」

 五年前、はじめて出会ったときと変わらぬ若々しい顔立ちで、カミロが問うた。

 エジェオはというと、みすぼらしかった髭もぐっと濃くなり、見た目も五年分しっかりと歳を取ったというのに。

「驚いてますよ」

 驚いてはいるが、まあ……それでなにか不都合があるか、ということだ。

 鬱陶しいほど頑迷なスペインの教会の神父にもすでに話が通っているというなら、いまの神父が代替わりするまでは心配することはほとんどないだろう。

「はじめにヴェネツィア人、次にキリスト教者」と、いつ如何なる時でも商売と合理を優先させ、信仰は商売の邪魔にならない程度に留めておく……ヴェネツィア商人の精神はエジェオにも受け継がれている。

「……なにか、聴きたいことは?」

 慎重にカミロが問うてくる。

 彼はエジェオの主人なのだから、「そういうことだ、異論は認めない」とでも言っておけば良いものを、と思うが、カミロの性格からして許せないのだろう。

 こういう気性だから、町の者たちは彼の存在を受け入れているにちがいない。

 加えて、彼は地主としては間違いなく有能なのだ。

「とくにありませんよ……と、言いたいところですが、ふたつ」

 カミロの表情に緊張が走った。

「どうして、ここに来たんです?」

 父親のいるピレネーの山奥の地所にいれば、安全だったはずだ。スペインは異端の者に厳しすぎる。

「……なりたい自分になりたかったんだ」

 すこし照れたように弱く笑んで、カミロは言った。

「父の元にいれば、安全で不自由なく暮らせる。でも、それだけなんだ。私は『父の息子』ではないなにかに、なりたかった」

 彼の言いたいことは、エジェオにも理解できた。

 エジェオもまた『バルトリ商会の五男坊』ではないなにかになりたくて、カミロの誘いに乗ったのだから。

「ではふたつめ……わたしの血、美味しかったですか?」

 カミロを真似て、悪戯っぽい微笑を浮かべて問うてみる。

「い、いや、あれは違うんだ!」

 たぶん真っ赤にできるものなら顔を真っ赤にして……ただし、彼の場合は血の気の薄いままだったが……猛然とカミロは言い訳を始めた。

「私が舐めると……傷の治りが速いんだ。化膿も防げるし……だから、その……」

 なるほど。

 あの藪医者の外科手術の評判だけが妙にいいのは、カミロさまが実益を兼ねて彼の仕事を手伝っているからか。

「べつに非難してるわけではないんですよ。おかげであの藪の治療でも無事に治っているわけですし。むしろ感謝してるくらいです。訊いてみたのはまあ……後学のためといいますか」

 阿片のせいで意識が朦朧としていたが、あの黒犬に……実際はカミロさまだったわけだが……ずいぶん念入りに舐められていたような記憶がある。

 カミロは天を仰いだ。

 身も世もない表情で「美味しかった」そう告げる。

「生き血なんて滅多に飲めないし、君の血はきっと美味しいだろうなと思っていたけど予想以上だったから……つい夢中に」

 いやちょっとまて。

 エジェオは思う。なんだか吸血鬼だという告白よりも重大なことを告げているような口ぶりだが、どう考えても重要度は逆だ。

 しかし、エジェオは吸血鬼の気質や習俗についてなにを知っているわけでもない。

 船乗りとして地中海を巡っていて、イスラム教特有の教義や、小さな島々の固有の習慣や価値観があるのを知ったように、吸血鬼にも、彼ら特有の価値基準があるのだろう。

 その基準に照らして、相手の血の味の、美味い不味いを伝えることは、きっと重大で恥ずかしいことに違いない。

 ……申し訳ないことをしたかな?

 ヴェネツィア人にとって、違う国民・民族・宗教にまつわる習慣は、最大限尊重すべきものだ。そのあたりを尊重したほうが、たいていの場合、商売は上手くいく。

「カミロさま、これからもよろしくお願いします」

 エジェオは右手を差し出した。

 カミロが目を丸くする。

 さすがに吸血鬼だと告白すれば気味悪がられると覚悟していたのだろうか。

 なにかを口にしかけて、けれども余計なことは言わず、エジェオの手を握る。

「頼りにしている」

 ふたりの手には、五年分、互いに積み重ねた信頼が握られていた。

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