第5話

 そして五年の歳月が流れる。

 ほどほどの実りをもたらす四季が二度巡ったあと、すくない雨、涼しい夏、大地の凍る冬が三年続いた。

 カミロは寒さに強い小麦の品種を山岳地域に求め、その作付けを町の者に勧めていた。

 地代の更新は、今後も物価が上昇し続けることを見込み、慣例としてあった二十五年契約ではなく近年の相場に値上げ改定のうえ、三年更新での再契約を粘り強く交渉した。

 小作人たちはこれまでの経験から、長期契約にした方が自分たちに旨みがあることに気づいていたが、カミロの地所が敷設している灌漑施設や農業指導、日雇い労働への手厚い賃金払いなど、ほかの待遇を考え、ほとんどの者が他領に去ることなく、地代の短期再契約に応じることとなった。

 エジェオもまた、カミロから預かった資産を慎重に運用し、物価高による地代の目減りを補填してきた。もちろん、財務管理に疎漏がないことは言うまでもない。

 互いに自分の役目を果たし、互いへの信頼を厚くしてきた五年だったと言って良い。

 そして一五八七年……近隣の郷士が別の郷士の町を襲っているという情報が、カミロのもとにもたらされた。

 物価上昇による地代の目減りと冷害で食い詰めた地主たちが盗賊と化したのだ。

 カミロたちにとっては厄介な敵だったが、別の一面では、彼らは対外戦争に傾注し、内政をおろそかにしてきたスペイン王の無策の犠牲者だった。


「カミロさま、もう大丈夫ですよ」

 医者の声がした。

 町では『藪医者』で評判だが、裂傷や骨折への対処だけは上手いとも聞く。

 頭はすっきりしているが、麻酔を施されているのだろう、目がよく見えない。

「弾は摘出できました。しばらく安静は必要ですが、エジェオさまはお若い。命に別状はないでしょう」

 カミロさまが近くにいらっしゃるのか……?

 左肩のあたりで、ハッハッと小刻みに息を吐く音と、ぴちゃぴちゃと水の跳ねるような音がする。感覚も鈍っているせいでよく分からないが傷口を舐められている気がする。

 あの犬がここにいる……?

 賊の掃討に助力してくれたあの黒犬。

 獅子奮迅の活躍とはああいうのを言うのだろう。

 その鋭い牙と爪で瞬く間に賊を十人屠ったのだ。

 翻って、わたしはというと……敵を押し戻し、脅威が失せたと確信した……そこで意識が途切れている。情けない限りだ。

 左腕を持ち上げると、疼痛を覚えた。

「エジェオさま、動かしては駄目です。まだ傷が塞がっていませんから」

 医師の叱責に、エジェオは腕の力を抜いた。左肩が動くことが分かっただけで充分だ。

「阿片……麻酔の効果が切れかかっているようですね」

 医者が肩を抱いて、なにかを口に咥えさせたのを感じる。

 いらない、と言いたかったが呂律が回らない。首を横に振って見せたが「吸って」と強い声で言われて、吸い込んだ。

 強い眠気が襲ってくる。

「よく眠らないといけませんよ、エジェオさま。かなりたくさん血を流しましたからね」

 藪医者が適当なことを言っている。頷いたつもりだったが、身体が動かない。

 耳元で、ぴちゃぴちゃと水音は続いていた。


 ずきずきと脈打つ肩の痛みで目を覚ました。

 阿片がまだ残っているのか、貧血なのか、頭がぼんやりとする。おそらく両方だろう。

 左の視界の隅で、なにかが動いている。

 ……あの犬だ。

 夕の西日が幽かに残る窓の色は、昏い紅だ。

 その幽かな西日を受けて、黒々と艶やかな毛並みのおおきな犬が、エジェオの寝台を護るように床に寝そべっていた。

 顔立ちは犬と言うより狼に似ていて、長い毛の尻尾を所在なく振っている。

 ずいぶん気に入られたものだな、とも思う。

 飼い主を差し置いて、わたしの寝床の番をしてくれているというのは。

 起き上がろうとするが、身体が思うように動かず、うめき声しか出ない。

「無理をするな」

 カミロの声がした。

「カミロ……さま。申し訳ありません」

 エジェオが痛む左肩をかばって右半身に力をかけ、それでもうまく起き上がれずにいるところ、カミロが背を支えてくれる。

 エジェオはカミロの腕を掴み、這々の体で起き上がった。

「痛みは? 医者に言って阿片を持ってこさせようか?」

 不謹慎だとは思うが、カミロの心配そうな声が可笑しかった。

 と、同時に、こんな表情、彼には似合わない、とも思う。

 何気なく部屋を見回して、あの犬がいなくなっていることに気づく。

「……痛みもなくはないですが、それより、空腹で死にそうです」

 カミロがにこりと微笑んだ。

 そう、カミロさまはこんなふうに笑っていなければ。


「君を含め、戦闘で負傷した者は二十三名いるが、全員、命に別状はない。今年の収穫も無事だ」

 山羊の乳に小麦粉と蜂蜜を溶かした甘い粥を啜りながら、エジェオはカミロの話を聞いていた。肉なりパンなりを食べたかったが、胃が受け付けないからおやめなさい、と厨房係のマリアに言われてしまった。

 阿片が強すぎたのだろう、三日、昏睡していたそうだ。

 あの藪医者め、と悪態を吐きたくなるが、肩の傷は痛みこそするものの、塞がっている。

 あまり藪、藪と言うのも失礼だろう。

「私が帰ってくるまで、君があの場所を支えてくれていなかったら危なかった。感謝している」

 カミロはエジェオに謝意を示し、

「なにかほかに確認しておきたいことは?」

 そう締めくくった。

 確認……いまここで確認すべきことかエジェオには判断が付かなかったが、ここで確認しないことには結論が出そうにない……エジェオはさきほどから気になっている疑問を口にする。

「つかぬことを伺いたいのですが、カミロさま……いつから犬に化けられるようになったんです?」

 ヒュ、と息を呑み、目を見開くカミロの姿に、エジェオは確信した。

 状況証拠から鎌をかけただけだが、大当たりだったらしい。

「……なにを言って……」

「わたしが目を覚ましたとき、そこの床におおきな黒い犬が寝そべっていました。先夜の戦いで、我々に加勢してくれた犬です。けれど、わたしが身体を起こそうとしたら、貴方の声がして、犬はいなくなっていた。……しかも、部屋の扉が開いた音はしなかった」

「君を気遣って、そっと入ってきたんだ。入れ替わりに犬が出て……」

「あの扉、建て付けが悪いのか、開閉のたびに軋むんです。さっき、粥を持ってきてくれたマリアも派手に軋ませていたでしょう?」

 カミロは困った顔で口を噤む。

「なんとなく……カミロさまの『事情』を知らないのはわたしだけじゃないかという気がしてるんですが。たぶん、医者は知っているでしょう?」

「……知らないのは君だけ……ということはないが、町のほとんどの者は知っているよ。この町に限れば教会の神父も知ってる。神父はもちろん普通の人間だけど、先祖をたどれば父の親戚でね。目をつぶってもらってる」

 そこまでひと息に言ってから、カミロはエジェオをまじまじと見詰めた。

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