第4話

「もしかすると……『泉の水が湧くように』というのが、ただの比喩ではないほどの銀がスペインに流入しているとすれば、この国では銀の価値が下がっているのかもしれません。この国どころか、ヨーロッパ中で」

 話しながら、エジェオは頭の中で慎重に金と物の流れの筋道をたどっていく。

「銀もまた、品物の一種だと考えるのです。無論、品質が劣化しない銀は、豊作の年に小麦の値が下がるようには、下がらない。ですが、一気に銀の流通が増えたら?」

 カミロが興味深そうに身を乗り出してくる。

「銀の流通が倍になれば、単純に考えればすべての物の価格が倍になる。小麦も、ほかに要素がなければそうなるはずだ。けれど、不作の年ですらそうはなっていない」

「安い小麦を大量に輸入しているからだ」

 と、カミロが首肯した。エジェオは続ける。

「銀の流通が増えていない他国では、過去と同じ相場で買えるのです。商人たちは船賃を払っても、高い国内品を避け外国品を仕入れてくる。結果、輸入できないものの値は上がり、他国から安く輸入できる産品の価格はあまり上がらない……いまのような状況になる」

 カミロはゆっくりと頷いた。

「で、これからどうなる?」

 ちらりと唇を舐めてカミロが問う。

 はじめて気がついたが、カミロの犬歯はすこし長い。

 くちびるの端に、微かに覗いている。

「……安い小麦や高級衣料品の輸入、戦争のための物資と傭兵料の支払いによって銀は他国に流出し、『銀余り』は輸出国に広がります。銀の価値が下がってくれば、いままで金持ちが貯め込んでいた銀も、すこしでも価値が高いうちに使おうと、市場に出回り始める。価値の下落で、退蔵されていた銀が市場に出てくるのです。これは相当な量でしょう。スペインの銀余りが、世界に波及します。となれば、物価全体が上昇する現象……これは銀余りが全世界に行き渡るまで続く。長期契約の地代を貨幣で収受し、生計を立てている郷士はこの物価高に対応できない。……わたしが推測できるのはここまでです」

 そう……ここ二十年にわたって、ヨーロッパ世界は緩やかな、けれど着実に進む物価高に見舞われていた。

 エジェオは商人としてヨーロッパ各地を巡っていたから、原因は分からないながらも、その物価上昇がヴェネツィアやスペインで単発的に起こっている事態でないことは把握していた。

 物価上昇の幅も、上昇する物の種類も各国でさまざまだったが……スペインを皮切りに、フランドル、フランス、ヴェネツィア……遅れてイギリス、神聖ローマ帝国、ポーランド……近年ではエジプトや東欧各国の物価も、じわりと上がってきている。

 東欧では銀ほしさに領主が輸出する小麦を確保するため、不作の年でも農奴たちへの税の取り立てを厳しくし、結果、おおくの餓死者を出しているという噂もある。

 それとは別に、港の人足を初め、エジェオの知る限りでは物価の上昇ほどは人件費が上がっていないという事実もある。確たる理由は思いつかなかったが、黒死病禍が各国の検疫制度などで一段落したいま、じりじりと人口が増えているのかもしれなかった。

「……なるほど、となれば、私の苦境はしばらくは続くということか」

 カミロは落胆とも諦めともつかぬ溜息を吐いた。

「この仮説を立証する手立てはありませんし、正しかったとしても御領地の問題ではないだけに根本的に解決することは困難ですが、当面の対処法はあります」

 カミロはエジェオの言葉に目を見開いた。

「それが……あるなら是非、聴きたい」

「いまある資産を商品に投資し、運用するのです。ヴェネツィア方式で船荷証券を買う方法なら、目利きも販売も商人たちが行い、投資者は配当を受けるだけなので危険はすくない」

 つまりは刻々と価値の減ってゆく銀貨で資産を保有する割合を少なくすればよいのだ。

「そして君の出番か」

 ヴェネツィアの貿易商にギルドはないが、コレガンツァ同輩組合への出資は、ヴェネツィア商人でないと難しい。

「ええ、我々ヴェネツィア人は長く他国に駐在し、そこで暮らす者も多い。わたしがスペインで資金を運用するのは不自然ではありません」

「信用しよう。君に我が家の家産の五分の一の運用を任せる。収支報告は半年に一度、我が国の法律に反しなければ、なにに運用してくれても構わない」

 カミロは即答した。その信頼に、エジェオは胸が熱くなる。

 ――ここに来てほんの二週間だ。……この方は、わたしになにを見いだしたのだろう――

「カミロさま」

 エジェオは胸の熱さを吐き出すように、主の名を口にした。

「微力ながら、お力添えいたします」

「頼りにしているよ」

 カミロは人好きのする微笑を頬に刻む。

「ところで、これまでカミロさまの地所の財務書類をまとめていた方はどなたでしょう? わたしが詳しく確認したのは十年分ですが、ざっと見る限り三十年分、同じ方の筆跡でまとめてありました。ずいぶん几帳面で正確な帳簿だったので、引き継ぐに当たって一言、お礼を申し上げたいと思っているのです」

「ぜんぶ、私が付けたんだよ」

 カミロは意味深長な微笑を浮かべつつ、そう答えた。

 そしてエジェオが二の句を継ぐ前に、部屋を出る。そろそろ領地の見回りに出る時間だった。

「……それは絶対にありえない」

 エジェオが溜息を吐く。

「三十年分だぞ? たしかに筆跡はカミロさまのものに酷似してはいるけれども」

 前任者について、なにか教えたくない理由があるのだろうが、下手な嘘にもほどがある。

 エジェオはしかし、結論の出ない疑問については考えることをやめた。

 いまやアリスタ家の財務全般を司り、家産の五分の一を預かるエジェオには、考えることが山積しているのだ。

 そう、結論が出ない別の疑問についても敢えて考えないことにする。

 『銀余り』の理屈など、わたしでも考えつくことです。スペイン帝国の大学に集う英才、優秀な官僚たちも、とうに仮説のひとつとして、気づいていることでしょう。なのになぜ……王家は郷士たちの苦境を放置しているのか……

 王家の考えることなど、所詮、一介の商人、郷士に分かるはずもない。

 また、答えが分かったところで、絶望するだけかもしれない。王家や貴族の思惑が庶民にとって苛酷なのは、今に始まったことではない。

 ならば考えるだけ無駄だ――

 我々にできることは、さまざまな疑問を置き去りにしながらも、ともかく、前へ進むしかない。

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