第3話

 カミロが地主をしているオルテロの町は、ピレネー山脈へと続くなだらかな丘の傾斜にあった。

 ざっと数えて五百戸程度の白壁の建物。

 周囲に広がる畑は、郷士の地所としてはそこそこおおきい。

 町と畑の境には、深くて広い壕が掘られ、木製の橋が一箇所、架かっている。

 近隣に川は流れていなかったが、町で必要な水はピレネー山脈からもたらされる湧き水によってまかなわれていた。

 干魃の年でも涸れることがない豊富な湧き水は、生活用水に利用されるだけでなく、風車で汲み上げられ、灌漑用の用水路によって丘の麓に広がる畑に運ばれている。

 灌漑設備はここ二、三十年ほどの間に作ったのだろう、まだ新しい。

 河川はなくとも山脈の麓のこのあたりは天水も充分にあるはずだ。

 にもかかわらず灌漑設備をこしらえたことからして、アリスタ家は周到な気質なのだろうと、エジェオには思われた。

 また、アリスタ家の屋敷は丘の上にあった。

 母屋と離れがふたつ、下の階が粉挽き臼になっている風車の塔と穀物倉からなっている。家畜小屋だけは放牧の関係で、町のはずれにある。どれをとっても実用第一を旨としているのが見て取れた。

 それなりに富裕ではあるが奢侈に流れてはいない……このあたりでよく見かける郷士の屋敷だった。


「ここ十年、小麦の買い取り価格はやや高くなった程度です。小作地の地代は契約の関係で据え置き。二十五年契約の地代は五年後に一斉改訂ですが、小麦価格が上がらない現状で、どこまで上げられるか。賃金は、やや上昇。これはカミロさまが小麦価格の上昇に合わせて、雇傭する人たちの賃金を上げているためで、近隣の地域全体ではさほど上がっていないようですね。しかしほかの物価……衣料品、塩や薪、農具の値は二倍から三倍にも上がっています。そのため、御領地の収支は、急速に悪化しています。……まだなんとか黒字は確保していらっしゃいますが」

 エジェオが財務官に着任して二週間後、日暮れ間際……カミロの私室で、エジェオはアリスタ家の地所の財務について報告した。

 短期間で現状を把握し、主人の悩みを聴き、可能なら対策を提案する。

 エジェオはこの報告面談が、ほんとうの実力査定だと認識していた。

 とはいえ、現状把握に関して言えば、アリスタ家の財務はかなり精密な複式簿記で管理されていたから、難易度は高くない。

 エジェオは報告で厳しい認識を示しはしたが、全体としてアリスタ家の財務は優良だ。

 おもに農地の地代と、自作農地が産する小麦とオリーブ油、チーズ、羊毛、その販売で収益を上げている。

 教会と国王に納める税も滞りなく、商人から多額の借金をしていることもない。

 屋敷で使っている下男下女への給金の額も悪くない。

 小作たちにただ働きさせる地主もおおい用水路や壕の補修、狩猟などを行う際の勢子働きについても、きちんと日雇い賃を払っていたから、地主と小作の関係も悪くないだろう。

 ただ、そのアリスタ家と小作たちの生活を守れるだけの安定した収支が、物価の上昇によって脅かされている。

「君と私の認識は一致しているよ」

 エジェオのまとめに賛意を示して、にこりと微笑む。

 まずは合格、と言ったところか。

 カミロの私生活は独特で、昼、遅くなってから起きてきて、自分専用の『特製の飲み物』を一杯飲むほかは、食事をしない。

 日の暮れるまでは屋敷で御用商人達と地所の産物の商談をしたり、小作たちの困りごとに耳を傾ける。

 日が暮れてから、地所の見回りや狩猟に出かけることもある。外出の用がなければ、夜の時間は読書に当てられている。片道三日のバルセロナ市への商用旅は馬車の移動だ。昼間は馬車の中に閉じこもって出てこない。

 親族には父母と姉、叔父がいるようだが、ピレネーの山奥の辺鄙な地所に引きこもっているらしい。現在、この地所を彼ひとりで切り盛りしているというのは嘘偽りではなかった。

「物価高に加え、以前は滅多になかった冷害が数年周期で頻発している。我が地所では飢饉になるほどの不作に見舞われたことはないが、近隣の郷士のなかには自分の食べるパンの分すら収穫できずに苦しんでいる者もいる。けれどもエジェオ、君も知っての通り……小麦の売却価額は思うように上がらない」

 小麦価格が上がらないのはエジェオたちがスペインで足りない分の小麦をエジプトや東欧で仕入れて売っているからだ。

 だが、と、エジェオは思う。

「商人たちはどうして大量の小麦を買う金を持っているのです?」

 スペインは、国王も商人も、じゃぶじゃぶ金を使う。

 食料品だけではない。フランドルの最高級の生地、ヴェネツィアを経由したトルコの宝石。教会と王城を飾るために一流の画家と彫刻家を世界じゅうから集め、戦争のために兵を雇う。カノン砲やカルバリン砲を通常の倍も備え付けた大戦艦の建造のため、造船所の槌音が絶えることもない。

 これだけのものを金に糸目を付けずに買っているにもかかわらず、スペインが他国に売るものは多くない。農産は豊かだが、ほとんど自国で消費されている。

「新大陸の産物を運んでくるのは彼らだ。王室は軍船以外に彼らの船を借り上げて、それに手数料を支払っている。加えて、ネーデルラント鎮圧、レパント海戦への加勢……スペイン王家が首を突っ込んだ戦争の、軍需物資を用立てるのは商人たちだ。良い値で売れるようだよ」

「新大陸の産物とはなんです? 物珍しい食品は多々有りますが、いまのところもてはやされているのは砂糖と煙草くらいのものでしょう?」

 カミロはしばし沈黙ののち、一言「銀だよ」と呟いた。

「新大陸にはとても有望な銀山があってね。泉の水が湧くように、銀が湧いて出るそうだ。その恩恵にあずかれるのは王室と、寄進を受ける教会と王家に品物を売る商人だけだがね」

 エジェオの頭に、ひらめくものがあった。

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