第2話

 遡ること五年

 新大陸を『発見』して九十年……繁栄を極めるスペインの港、バルセロナの夜。

 いくつもの言葉が飛び交うエジェオの故郷、ヴェネツィアの喧噪とは違い、スペイン語が沸き立つ騒然とした酒場だった。

「君、私の地所の財務官をやる気はないかな?」

 ひとりで食事をしていたところに、エジェオは不意に声を掛けられた。

 異国者に地所の財務を任せる? 馬鹿を言うな。

 ……いかにもスペイン流の笑えない冗談だ。

 エジプトから運んできた小麦を売る……気の張る大口の商談を済ませ、なにかと尊大さが鼻につくスペイン商人たちに愛想笑いする仕事から、ようやく解放されたと思っていたのに。

 営業用の微笑を唇の端に浮かべて顔を上げると、酒場の古びたテーブルの向こう側に見たことのない青年がひとり、立っていた。

 歳の頃は二十過ぎ……エジェオとおなじくらいだろうか。

 ただし、エジェオは髭のない男を一人前と見做さないイスラム商人たちとも取引する関係上、髭を生やしていたから、つるりとした肌の青年と比べると実年齢よりも老けて見える。

 青年は、ゆるく巻いた黒髪を腰の長さまで伸ばしていた。

 サラセンの皇子を彷彿とさせるすっきりとした鼻梁。

 瞳の色は紺青で、その深い色合いには、目の当たりにした者を魅了せずにはおかない悪戯っぽい輝きが宿っている。

「失礼ながら貴方の名が思い出せないのですが……どこかで、お目にかかりましたか?」

 エジェオは愛想良く、かつ節度のある親しげな言葉遣いで青年に語りかけた。

 居住まいを正し、立ち上がる。

 漆黒に染めた絹のプールポワンの裾は金の刺繍で装飾され、最上級の羅紗織りの外套を片肩に羽織り、見事な孔雀の羽根飾りのついた鍔広の帽子を被っているそのさまからは、資産家の青年であると見受けられた。

 スペイン人の態度は鼻持ちならないとしても、彼らの金払いはいい。

 兄の名代でバルトリ商会の看板を背負っているいま、将来の顧客候補に粗相があってはいけない。

「名が思い出せないのは当たりまえだ。私は君に名乗った覚えはないからね」

 青年はそう言って、笑って見せた。

 少年のように明るく、かつ知性の燦めきを感じさせる……ずいぶんと人好きのする笑顔だった。

「私は、カミロ・アリスタ。カダレスに多少の地所を持っている郷士だ」

「で、その郷士さまが、どうしてわたしなどに財務官をさせようというんです?」

「むろん、君が私の求める能力を持っているからだよ」

 商売の掴みとしては上手いな、と他人事のようにエジェオは思う。

 持ち上げられて悪い気はしない。酒場の与太話程度には話を聞こうか、と言う気にはなる。

 エジェオは青年に椅子を勧めた。

 椅子に腰掛け、青年のために飲み物を、と思い店員を呼ぼうとしたところで、止められる。

「酒は飲まないことにしているんだ」と、済まなそうに言う。

 若いのに殊勝な信条だ。家族の誰かが酒で身を滅ぼしたのだろうか。

 しかし、こんな海に近い酒場で水など飲もうものなら腹を壊すのは必定で、酒を飲まない、ということは飲み物は要らない、ということだ。仮に腹は壊さなかったとしても、潮臭くて飲めた物ではない。

「財務官の話だけれど……君は私を知らないが、私は君のことをすこしは知っているんだよ。三日前に港で君のことを見かけてから、どう言えばよいかな……そう、いわゆる『一目惚れ』だな。君のことは調べさせてもらった」

 酒場のランタンの灯りに、紺青の瞳が煌めく。

 悪戯っぽい微笑に、挑発するような毒が混じったような気がする。

 エジェオはその微笑に、なぜだか『悪魔との取引』を連想した。

 悪魔は、魂と引き換えに、富と、栄達、この世の充足を与えてくれるのだ……

 そうでなくとも、美味い話には落とし穴がつきものなのは、若いとは言え商人であるエジェオは痛いほどよく知っている。

「君の名はエジェオ・バルトリ。ヴェネツィア商人ヴィットーリオ・バルトリの五男。家業を継いだマルコ・バルトリ……兄の手伝いをしている。現在、バルトリ商会西地中海方面代理人。二十三才。独身。取引は手堅い。機を見るに敏で、かつ、その若さにして相手を徹底的にやり込めない老練さも兼ね備えている。……そして、独立独歩の機会を狙っている」

 彼の言うエジェオの履歴は、間違いではなかった。もっとも、取引の巧さに関しては褒めすぎかとも思うが。

「私は長くひとりで地所を切り盛りしてきたけれど、いろいろと相談できる相手が欲しいんだ。君ならきっと、いい相談相手になってくれるのではないかと思っていてね」

 たった三日で自分のなにが分かったというのか……エジェオは困惑を隠せなかったが、同時に、カミロの言葉に切り捨てがたい魅力も感じていた。

 ここでバルトリ商会代理人の役目を放棄すれば、兄は叱責するだろう。

 しかし、今回の小麦の売却話はすでにまとまっている。あとはバルセロナで煙草、マルセイユで葡萄酒を積み、空船を満たしてヴェネツィアに帰ることになっているが、商人仲間には信頼できる者もいる。だれかにあとの役目を引き継いでも間違いはおきない。

 しかも、これがたちの悪い冗談だったとしても、自分に失うものはなにもないのだ。騙されたと分かったら、一目散にヴェネツィアに逃げ帰れば良い。そのくらいの機転と抜け目のなさは持ち合わせているつもりだ。

 そう、これは千載一遇の機会だ。

 このまま、兄のもとで働き続けるとして、バルトリ商会の五男坊に約束された未来など、たかがしれている。

 幸運の精霊の衣の裾は、マエストロの風に吹かれて流れ去る。

 掴む機会は一度しかない。

 エジェオは決断した。

「わたしのなにが貴方のお眼鏡に適ったのか分かりませんが……喜んで」

 差し出されたカミロの手を握る。

「そう言ってくれてほんとうに嬉しいよ。いたって地味な地所だけれど、報酬は充分な額を用意すると約束しよう」

 エジェオに手を差し伸べた誘惑の悪魔は、人なつこい笑みでエジェオの手を握り返している。

 だが、エジェオはふと、あることに思い至った。

 長くひとりで地所を切り盛りしてきたと彼は言うが、彼だってわたしとおなじような年齢だ。家庭の事情で早くに地所を継いだとしても、一人で差配を始めたのはここ二、三年のことだろう。

「長い」とは、いささかおおげさな表現ではないだろうか。

 そして、いま握っている彼のこの手。

 残暑の時期だというのに、まるで真冬の船上で甲板磨きをさせられていたように冷たいのだ……


 こうして、ヴェネツィア商人エジェオ・バルトリはスペインの郷士カミロ・アリスタの地所に職を得たのだった。

 一五八二年、秋のことである。

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