落日の途

宮田秩早

第1話

 一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に、ただ折り合いをつけてしまって、あるべき姿のために戦わないことだ。

ミゲル・デ・セルバンテス


「陣を崩すな!」

 エジェオ・バルトリは剣を振り上げ自陣を叱咤した。

 町の唯一の入り口……橋の袂はすでに混戦の様相を呈している。

 賊の数は、橋の向こう側も合わせて二百程度か。

 エジェオたちのほうが圧倒的に数は多いが、主力の男手はこの町の主……カミロの本隊にいる。町に残っているのは年寄りと女性、子供。対して賊は屈強な男たちだ。

 土嚢と猪除けの柵、干し草の束で作った急ごしらえの垣を盾にして陣を敷き、鋤や鍬、農具を武器に応戦しているが、やはり圧されている。

 陽はすでに落ちているが、月齢は十六。

 つぎつぎに橋を渡ってくる賊の姿は、はっきりと見える。

 町を囲う壕の水面に映る月が美しかった。

 だが、風は硝煙の臭いを運んでくる。

「町に残っているのは女子供だ、一気に押し込め!」

 賊が口々に吼えている。

 焦るな、と、エジェオは自分に言い聞かせた。

 今年の麦の実りを掠奪しようとする賊を蹴散らすために郷士カミロ・アリスタが男たちを率いて町を発ったのはほんの一刻前。

 賊は収穫直前の農地から作物を奪うのが目的で、これまで町を狙ってくることはなかったから、町の防御は形ばかりだった。

 その油断を見事に突かれたと言える。

 掠奪部隊が丸腰の陽動だとは思わないが、所詮は食い詰め郷士の集団だ。潤沢な装備があるわけではない。

 今回、主力がこちらに来ているとすれば、掠奪部隊の装備は貧弱に違いない。

 最新の銃を装備し、狩猟に熟達した男たちを率いるカミロさまはすぐにも掠奪部隊を蹴散らして戻ってくるはずだ。

 信じろ。

 エジェオは自分に言い聞かせた。

 ――カミロさまが我々の期待を裏切ったことは一度もない。

 猪除けの柵を三人で抱え、力任せに突進してくる賊を押し戻して壕に落とす。

 壕の対岸で銃の発射音が散発的に起こっていた。

 壕の幅は七十メートル。賊の持つ燧石銃の射程は百五十メートル。弾はこちらに届く。

 夜間のこと、七十メートルも離れていると、簡単には当たらないのが救いだが、当たれば致命傷になり得る。

 折しも防御隊の数名が銃弾に倒れた。そこかしこで当初の陣形が崩れつつある。良くない兆候だ。

「怯むな!」

 エジェオは銃弾を受けてうずくまる老人を、引きずるようにしてうしろに下がらせた。

 眼前に迫った賊の一人を切り伏せたそのとき、左肩に焼けつく痛みを感じる。

 壕の向こうから放たれた銃弾が当たったのだ。

「ちっ!」

 肩が熱い。

 そしてその熱さが肌を伝い、流れ落ちてゆくのを感じる。

 エジェオは首に巻いたクラバットをほどき、肩をきつく縛った。

 止血しきれていないが、いまはこれが精一杯だ。

 利き腕でないのが不幸中の幸いか。

 タタターン

 これまでとは違う方角から、銃の斉射音が聞こえた。

 賊に動揺が走る。

「カミロさまが戻ってきたぞ!」

 エジェオは声の限りに叫んだ。

「おお!」と町の者たちが呼応する。

 圧されていた防御隊が、みるまに息を吹き返した。

 と、エジェオは視界の端に、壕の向こうから水面を跳ねるようにやって来る影を認めた。

 橋からかなり離れた場所、街の人間だけが知る壕の浅い場所だ。

 影の形は人間ではない。

 犬だ!

 巨大な黒犬が壕を越え、町に入ってきたかと思うと、そのまま、まっしぐらに橋に突っ込んでゆく。

 瞬く間に、賊の一人が喉笛を食い裂かれた。続いて二人。

 よく分からないが、黒犬はエジェオたちの味方のようだ。

「あとひと息だ! 賊を残らず壕に落とせ!」

 エジェオは吠え、浮き足立つ賊に切り込んでいった。


 一五八七年、スペイン帝国カダレス県、ピレネー山系の麓の町オルテロ。

 冬小麦の実りが揺れる春宵のことである。

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