隠恋慕(かくれんぼ)

真花

隠恋慕(かくれんぼ)

 真っ直ぐに伸びた空にも突き当たりはあって、その向こう側のことは何も分からない。私達はその空の下を土手に向かって、もう葉っぱばかりになったツツジの並木道を何も言わずに歩く。前を行くユカの肩には薄く力が込もり、後ろ手に持ったバッグの揺れは私のそれよりずっと小さい。校門を出てからもう十分、相談があるから一緒に来て欲しいと言われて私が頷いてからそれくらいは経っている。私は気付けば空を見上げていた。

「ここにしよっか」

 彼女が足を止めて振り返る。私達は土手にいた。

「いいよ」

 見下ろす川にはボートが何艘かあって、遠くの河川敷では野球をしている。ユカは座った切りこっちを見ずに、私が目で追っていたものか、それか空を、見ている。ボートのものか野球のものか判別がつかない掛け声、それが遠く響いてから消える。飛行機の音。私達の後ろを歩く学生の声。優しく頬を撫でる風、それに乗る何かの花の香り。ユカは黙って、石になってしまったかのように動かない、私はときどきその横顔を眺める。高校に上がってからの付き合い、もう二年以上の仲、ずっと未来にまで友達でいるのか分からないけど、きっとそうなる。こう言う瞬間を一緒に持つことを繰り返して、私達はもっと強靭になる。だから、昨日よりも今日のこれからの方が、私達は強い。

「あのね」彼女は前を見たまま、絞り出すように声を生む。

「私、好きな人が出来たんだ」

「本当に?」

「うん」

「誰かって、訊いてもいい?」

 彼女が私の方を向く、その動きで髪がふわりと膨らむ。視線が私の目を捉えて、小さく揺れるその瞳は、だけどもう決意を映している。彼女が小さく頷く。

「うちのクラスのコンドウ君。去年、ルッコと同じクラスだったでしょ? 覚えてるよね」

「まあまあ話したかな、去年は」私は肩を竦めて見せる――私はライバルじゃないよ。

「私は何回かだけ。だけど好きになっちゃった」

 彼女の頬が赤く染まる。想いが出口を探して頬の内側で困っているのかも知れない。彼女はもう一度正面を向いて、体を、ゆ、ゆ、と揺らす。カキーンと金属バットの音が届く、私はそっちを見て、空を見る。あの空の向こう側と、ユカの恋の結末は、同じくらい遠くて近い。そこに自ら向かうかどうかだけで、距離が決まる。

「告白、するの?」自分がそれをするみたいに鼓動が跳ねた。私は息を詰めて彼女の応えを待つ。

 彼女の揺れが止まる、彼女の吐いた息が見えた気がした。

「無理。絶対にフラれるもん」

 彼女は細かく首を振る。水に浸けた後の犬みたい。

「そんなの分からないじゃん。私、応援するよ」

 彼女はまた石のように固くなる。でも、ずっと呼吸が荒い、忙しく膨れたり萎んだりして、定まらない。私はそれを見て、聞いて、本当は私も同じだってことを改めて隠す。私はユカに自分の想いを言わない。でも、秘めた想いを友達に伝えることが交換されるべきこととは思わない。私は自分のを隠したまま、彼女を応援する。……胸がチクリとする。

 彼女が大きく息を吸って、吐く。その吐息が空を少しだけ押し広げた。そうやって生まれた間隙に引っ張られるように彼女の声が流れる。

「それでも、私は見てるだけが、いい」

「どうして?」

「この想いが壊れてしまうのが怖い。……何で告白ってするんだろう」

 何で? 何で告白しないのだろう。想いを伝えて、受け取られて、もしかしたら自分のことを想ってくれるかも知れない。いや、私のことを想って欲しい。だから、泣くかも知れないのに告白をする。なのに私はどうしてそれをしないのか。告白することが当たり前じゃないのかも知れない。私は首を大きく振る。顔と頭に付着した全てを払うみたいに。

「ごめん。分からない」

 彼女は、水浴びした熊みたい、と今日初めて柔らかい笑みを口許に浮かべる。その表情を見て私も鏡写しのように綻んで、だって分からないんだもん、と応える。風が丁寧に二人の間を抜ける。

「このまま隠れた恋のままで、いるよ。もし、もしだよ、どうしても伝えたくなったらそのときは考える」

「分かった。私が証人だね」

「それまでは密かに想うよ。でもね、こうやって片想いしているのも、悪くないと思うんだ」

 彼女は胸に残っていた息か、迷いか、それを一気に吐き出して、甘いものを吸い込むように胸を膨らませる。彼女はその気持ちを私に言った。だから本当の隠れた恋ではもうなくて、私と言う共犯者とその味を分かち合っているから、こんな風に甘くなれるのだ。

「がんばれ、片想い」

「うん。聞いてくれてありがとう」

 彼女は笑って、さっきよりもずっと大きく、ひまわりのよう。それは堂々と片想いで立ち続ける宣言だ。

「帰ろっか」

「そうだね」

 ボートも野球も永遠に同じことを繰り返しているかのように続いていて、空の向こう側はまだ決して見えない。駅でじゃあねと別れたら、それぞれの電車に乗る。彼女の笑顔を車窓に思い出して、私はあんな風に笑えるだろうか、それともそのためにはせめて彼女に自分の想いを吐露しなくてはならないのだろうか。瞼をギュッと瞑る。もしユカのように笑えなくても、私は誰にもこの想いを漏らしたくない。いや、漏らせない。私にこそ、がんばれ、片想い、だ。


 次の日の放課後、それぞれの教室から潮のようにどこかへ向かう生徒達の流れに逆らってユカのクラスに行く。窓から射し込む陽光がスカートにあたる、空気の中には何かに期待をする気持ちの精がふよふよと浮いていて、それを吸い込む度に胸がほのかに青くなる。一緒に帰ろうよ、そう言おうと教室を覗いたら、コンドウ君がいた。ユカはいない。彼が私に気付いて、目がしっかりと合う、瞬き三回分の間、逡巡しているのは私だけじゃない。彼が手を振る。私は彼のそばまで歩く。

「ルッコ、久しぶり。クラス替えしてから初めてだよな、会うの」

「そうだね」

「同じクラスのときにはあんなによく喋ってたのにな」

 話をしたくなかった訳じゃないし、意識的に遠ざけた訳でもない、ただ、自然に、妥当に、違和感なく話せる機会がなかっただけ。でも、この距離を越えられたら、そのときは想いが本物だって証明になるんじゃないか。私は密やかにそう決めて、行動を歪にしてまで彼に会いに行くことを禁じた。彼の汗の匂いが微かに鼻をくすぐって、嗅覚は心臓に直通路を持っている、鼓動が速くなる。

「遠いし仕方ないんじゃないかな」

 彼は首を傾げる。「そんなもんかな」と呟く。その呟きには一抹の寂しさが挟まれていた。そう言う彼を何度も見て来たから、私は待っているのかも知れない。彼が私のことを呼ぶことを、見付けることを、待っているのかも知れない。

「そんなもんだよ。……ユカ知らない?」

「ああ、今日は日直で職員室に何かしに行ったよ」

「じゃあ、待つ」

「そっか。……ルッコってさ」

 彼が言葉を切る。いつの間にか教室には彼と私の二人しかいない。教室がまるで私達のために誂えられたかのようにフィットする。恋が前に進むのはこう言うときなんじゃないのだろうか。もし君が私を選ぶなら、私はそれに応じる。ユカには悪いけど、それくらいで死ぬような友情じゃない、彼女の想いが私と同じだったのは偶然だし、私が自分から告白しないのは彼女と全く同じ理由――この想いが壊れるのが怖い――だから、コンドウ君が動いたときに許される範囲も同じ筈だ。私が彼の言葉を受け取るだけの準備が済むのを待つように彼はじっと私を見る。私が頷いたことを合図に、彼は声を発する。

「好きな人、いる?」

 言った彼の体が固くなっているのが分かる。まるで昨日のユカだ。

「いきなり何?」

 彼は目を瞬かせて、小さく息を吐く。いや、何でもない、と呟く。

「ルッコは、かくれんぼって、どんな遊びだと思う?」彼の声はさっきからずっと真剣で、その響きが脳を痺れさせる。

「鬼が他の人を探す遊び」

 彼はゆっくりと首を振る。

「違うよ。鬼に、見付けて貰う遊びだよ」

「そっか」

「秘密の恋に似てないか?」

 それって、と言いかけたとき、教室のドアが開いて、反射的に二人でその音の方を見る。ユカが立ち尽くしていた。ユカ、と私は呼びかけて、待ってたんだ、一緒に帰ろう、と続ける。

「じゃあ、コンドウ君、またね」

「おう」

 私はユカの側に寄って、混乱した顔の彼女を軽く叩く。彼女はその顔のまま鞄を取って、コンドウ君に向かって「さよなら」と言う。彼も「さよなら」と返す。ねえ、ユカ、今日も土手に行こうよ。今日は私が話したいことがあるんだ。彼女は「いいよ」と言った切り喋らず、私達は黙って土手に向かう。今日も空があって、ボートと野球があって、私達は昨日と全く同じ場所に座る。

「あのさ」今度は私が固くなる番だった。

「ユカの想いを踏み躙るつもりはなかったし、彼を取ろうとか思ってないから」

「嘘」彼女はまた正面を向いたまま言い放つ。「さっきの二人の距離は、恋のある距離だった」

「私は違う」

「じゃあコンドウ君がルッコを好きだって言うの?」

 多分そうだ、今日彼がした「かくれんぼ」の話は私でもユカでもない、彼自身のことなんじゃないか。でもそれを彼女に言う訳にはいかない。だけど、……私は拳を握り締める。

「その可能性はある。ユカの想いは分かってる、けど、もしも彼が告白をして来たら、応じるかも知れない」

「自信があるんだね」

「ないよ、そんなの。でも、もしもの話だよ。そこでユカに嘘をつきたくない」私は彼女の横顔に目一杯の視線を投げかける。彼女はそれに気付いたのか、こっちを向く。

「私はもう負けたような気がしてる。こっから逆転って、あるのかな」

「あるよ。私達が話をしていたのは、去年一緒だったからだけだよ。私は絶対にコンドウ君にアプローチしないし、告白もしない。だって、彼に恋をしていないから。でも、誰にも恋をしていないから、言われたら受けるかも知れない、そう言うことだよ」

 彼女の顔は石だ。私の嘘を見破っているのかも知れない。私はその顔を目をじっと見詰める。私は言った通りのことをするから、信じて欲しい。そう念じる。彼女は急に、ほ、とため息を漏らし、同時に顔が柔らかくなった。

「じゃあ、私こそ、見ているだけじゃなくて動かなきゃだよね」

「そうだね」私は一つ頷く。

「でも、今はだめ。そんな勇気出ないよ」

「じゃあ、一緒にかくれんぼしよう。もしも彼が見付けてくれたら、彼の手を取る。二人のどっちを見付けるかは彼しか分からない。ね?」

「かくれんぼ、か。でも、もし私がアプローチしたくなったら、どうするの?」

「そこからは鬼ごっこでいいんじゃないの?」

 それもそうだね、と彼女は笑う。私も笑って、笑ったら体から力が抜ける。途端にボートとか野球の声が現れて、彼女越しに空が広がっているのが見える。私はもう一度彼女に視線を戻す。笑う彼女と私、もう一つ強くなった私達、空の向こう側にはきっと、こうやって行く。


(了)

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